79:仮面の下
「――遅かったわね」
「――ああ、慎重に行動しなければ、シラタチに気づかれる」
「――シラタチね……。どう? 平和のために働く気分は?」
「――とてもいい気分だ、とは言えない。それはそうと、今夜は何だ? シラタチの殲滅作戦か?」
「――そうね。統領さんにとって、シラタチはとても目障りな存在だわ。でも、今夜の戦いは少し違う。ニュートリア・ベネッヘは、ウィルスを放つわよ」
「――ウィルスだと? またずいぶんと急だな。……まあいい、今夜の戦いが終わった後、シラタチが基地へ侵入できるよう、明け方にテレポート装置を作動させろ。お前には、もう少しがんばってもらう」
グラソンの前に現れた赤いマント。一本ツノの仮面の人物。
その人物にグラソンはニヤリと笑いかける。
赤マントは彼に近づき、言った。
「いい調子みたいね、グラソン」
赤マントの顔から投げ捨てられる仮面。
「お前のサポートのおかげだ」
グラソンは仮面の下にあった顔に再度笑いかけた。
フードを取ったその顔。すみれ色の長い髪を左右に振る整った顔立ちの女。
「セレーネ」
グラソンを見つめる瞳に闘志の色はない。
赤いマントで身を包んだセレーネ。デンテールの手下であった頃の無表情な彼女とは違う。彼女の顔には笑みがあった。
「シラタチのお仲間、さっそく暴れているようね」
「いいさ、もうオレはここに用はない」
そう言ってグラソンは顔を横に向けた。どこか強がって、心の内を隠すように。
セレーネは眉を上げてグラソンの首飾りを見た。
「ひどいわね。仲間が戦っているのに、あなただけがここを去るの?」
「……この戦いが終わるまでは、とどまるつもりだ」
グラソンは表情を消した顔をセレーネに向ける。
「お前はどうする?」
「そうね。私はすぐにでも脱出するわ。統領さんが討たれる前にね」
セレーネはグラソンに背を向けた。
「仲間を気にしてるのね」
昔のグラソンからは見ることができない、今の彼の顔に、――ずいぶんと変わったわね、とでも言うように。
眉をしかめるグラソンは自分の気持ちに疑問を抱いているようだ。
「まあいいわ、ここであなたと行動するわけにもいかないし」
グラソンに顔を向けて別れの頬笑み。
「セレーネ」
「なに?」
「……感謝する」
――思わぬ言葉だったのだろう。セレーネはふり返りもせず、しばらく棒立ち状態の後、ふっと目を閉じた。
「借りを返しただけよ」
それだけを返し、セレーネの言葉は続かなかった。しかし去ろうともせずにそこに留まっている。
「じゃあな」
グラソンは彼女の背に手を振り、自分も背を向けた。
しかしセレーネは立ちつくしていて、そんな彼女を気にしてか、グラソンも足を進めようとはしない。クレーンの深い穴のそばで、手すりに片手を置く。
やがてセレーネが口を開いた。
「……ねえ、あなたはその“石”をどうするの? それは何なの?」
「少なくとも、デンテールよりはこれのことをよく知っている」
「…………」
とたんにセレーネは言葉をなくした。
デンテールという存在は、いまだに彼女の心から消えてはいない。
「デンテールに命を救われた、か。オレはお前の過去を詳しく知らないが……」
口を閉ざしたままのセレーネに、グラソンはそれ以上何も言えない。
そのまま去ろうと足を踏み出したとき、笑い声がこだました。
「ククク……。そういうことか、女ぁ」
恐怖に目を見開くセレーネの足元へ、天井から片手剣が放たれた。
セレーネはすぐに反応して右手にクナイを構えた。そしてグラソンのとなりへ素早く移動。グラソンも両手二本の金属棒を抜き、敵を探す。
その男はまさにセレーネが立っていた位置の真上にいた。細いパイプが並んで取り付けられた天井―― パイプのその上を足場としていたモフキスが、床に突き刺さった片手剣の前に降り立った。
「やはりお前はこちら側ではなかったか……」
右手で剣を抜き、喜びに歪んだ顔を二人へ向けた。
「いつから……」
セレーネのこめかみを汗が伝う。
天井を見回してからグラソンは、モフキスの黄色い眼をにらんだ。
「気配を感じなかった……。殺気さえも」
「統領さんの幹部、モフキスよ。あいつはまずいわ、戦闘用に極限まで改良されてる」
「あの黄色い眼……、まさか感染者を?」
「ええ。戦うことがあいつにとってただ一つの快楽。もう“人”にはもどせない。救おうなんて思わないこと。片腕を失ってるけど、油断できないわ」
グラソンは冷や汗をかきつつも鼻を鳴らして口元を吊り上げる。
「黒い魔物の子―― いや、あれは“トカゲ”か」
金属棒に魔力を込めて、相手の動きをうかがう。
「ククク……。女だとは思っていたが、仮面の下にいたのは思わぬ美女。……それにニュートリア・ベネッヘの幹部まで昇るほどの実力……。最高の相手だぜ……」
狂喜に手を震わせ、声に出ない笑いを腹の中に押し込めて。モフキスの標的はセレーネのみ。
「甘い香りだ……。楽しもうぜ」
「オレをわすれるな、ゲス。お前がこいつを斬る前に、オレがお前を叩き殺す」
「クク……、悪いが、オレ様のほうが速い……」
モフキスが素早く身をかがめ、低い体勢で二人へ迫る。とても速い動きにも関わらず、足音は消えている。目の前にいても気配を感じさせない。
グラソンは金属棒で床を突き、足元から前を凍らせていく。足場を凍らせてしまえば素早い動きは不可能。――しかしモフキスは寸前で床を蹴り、舞い上がった。
「上か!」
モフキスはグラソンの頭の上へ。すかさずグラソンは金属棒を構えて天井を仰ぐ。
「――!?」
モフキスはいない。剣だけが天井に突き刺っているだけ。――見失った。
「後ろ!」
セレーネの声でグラソンはふり返る。
「遅い!」
モフキスはすでに着地して、氷の張っていない床を踏みしめていた。そしてそのまま跳び上がり、グラソンへ蹴りを放つ。
「くっ!」
金属棒がモフキスの足をはじくよりも早く、グラソンは蹴り飛ばされる。モフキスは同時に天井の剣を右手でつかみ取り、着地した。
剣の刃はセレーネへ向けられ――
「悲鳴はナシか?」
モフキスの瞳が狂喜に歪んだ刹那、セレーネは恐怖に圧された。――ほんの一瞬だけ。モフキスの剣が彼女を貫くには、それすらも十分すぎた。
「セレーネ!」
グラソンが放つ氷の刃がモフキスを吹き飛ばす。
剣が抜け、セレーネは負傷した横腹を押えて穴の手すりに寄りかかる。
グラソンは走った。
気を失いつつあるセレーネの体が、手すりを越えた。駆け寄るグラソンを瞳に映して、最後の力でセレーネは彼に微笑んだ。
「セレーネ!」
目を閉じて、深い穴へ落ちていくセレーネ。
グラソンは手すりから上半身を乗り出し、彼女の手を掴んだ。
「意識を保て! セレーネ!」
片腕で彼女を引き上げる。
しかし――
「ククク……、まさか防御もできず、たやすくオレ様の刃を受けるとは……」
立ちあがったモフキスが、再び剣を握りなおしていた。
「お前が選べ、男。ここでオレ様に斬り殺されるか、女を穴に落とし、生き延びるか」
「…………」
モフキスは剣を振り上げた。
「時間切れだ」
跳び上がり、振り下ろされる剣。
セレーネを守りながらでは抵抗することができない。――グラソンは目を閉じた。
――ガキンッ!
モフキスの剣が手すりを叩いた。誰を斬るでもなく、響き渡った金属音が消えていく中、モフキスは驚いた顔で正面を見つめていた。
そこにグラソンの姿はない。
モフキスの周りにも、どこにも。
「……あの野郎……」
モフキスは剣を下ろし、うなった。
それからグラソンが消えた場所へ目を向ける。
――深い穴の底へ。
「どちらにしても、この深さで生きてはいられまい」
モフキスは後ろを向いて剣をマントの中へ納める。
「む?」
――手を止めた。
気配を探るように、ゆっくりと目を動かす。その目は、前方の壁、床と直角に伸びる太いパイプへ。
「誰だ?」
そこに隠れている人物に。
「…………」
数秒してパイプの陰から姿を見せた。
――白い鎧の足。
「てめぇは……」
モフキスの表情が、再度喜びに変わった。