56:心から一言を
――カツン、コツン。
ロウソクの灯りだけの薄暗く狭い階段を、ジンは降りていく。
彼の前には大柄な男が一人。――いわゆる“親分のところへ案内する”係が、先を行く。
ジンは高鳴る胸をぐっと握った。
ここへは何度か来たことがある。だが、いつも同じように緊張するものだ。――今回はとくに。
痛い目を見ることは間違いない。しかし“今回は”、今回だけは直接あの男に頭を下げなければならない。
――仲間を守るために。
一番奥、突き当たりのドアが開かれた。
光と派手な音楽と男達の汚い騒ぎ声が階段に漏れる。
「入れ」
案内係が低い声で言い、ジンを部屋の中へ押し込むように入れると、即座にドアを閉じた。
「その汚ねぇクツをよく磨いておけ。床を汚すんじゃねぇぞ」
「…………」
男から渡された布で、言われたとおりクツをよく磨いてから、すでに真っ黒に汚れている石の床に足を下ろす。
天井に吊るされた燭台の灯りと、手回し蓄音機が鳴らす趣味の悪い音楽が満ちた小さな部屋。それだけでも気分は悪いが、さらに酒と葉巻の臭いまでもが鼻を突き、瞬間、吐き気をもよおす。
びっしりと酒が並ぶ棚横の丸テーブルでは、三人の男がカード遊びで騒いでいたが、入ってきたジンに気付くなりゲームを中断して、何がおもしろいのか不気味なニヤニヤ笑いを浮べ始める。
「よぉう、久しぶりじゃねぇか、ジン」
部屋の奥の黄ばんだソファに座る男が、人を見下す笑みをジンに向けている。
ジンは足がすくみそうになった。
「何だ、直接オレに“家賃”の支払いに来たのか?」
――黒いジャケットを着た幅の広い男だ。ヒゲヅラでオールバック、顔面に刻まれた大きな傷痕。一度見れば忘れない、恐ろしい顔だ。ここへ来て、ジンは逃げ出したくなった。
ここのボスらしい男は葉巻を灰皿で押しつぶし、改めてジンの怯えた顔を見る。
「――てなわけではなさそうだなぁ? 文句でも言いたそうなツラだ」
「……今更、家賃二倍だなんて言われても、オレにそんな金が払えるわけないじゃないですか」
「…………」
ボスは眉の一つも動かさず、視線も逸らさない。
先に逸らしたのはジンのほうだ。
「なぜ、いきなり……」
「……なぜ、だと? おうガキぃ、てめぇうちの息子から金スリ盗って、よくんな口が叩けるもんだなぁ」
「…………」
ジンはボスの後ろに目をやった。壁にもたれて腕組みをしているピアス男が、ニヤリと口元をゆがめる。
「何のことだか、オレには……」
「なあガキ、オレぁなあ、この辺りのチンピラどもをまとめ上げるボスとして、やつらに示しがつかんのだ。実の息子が、汚ねぇ小僧に金を盗られたと噂が広まってみろ、笑い話のネタにされらぁ」
「……だからオレには――」
「じゃかぁしわ!!! てめぇの言い分はどうでもいいんじゃ!! おう、きっちり金ぇ払わなけりゃ、てめぇの仲間がどうなるかくらい、前にも教えたよなぁ? 子供は金持ちに高く売れるんだぜ? てめぇが毎週稼いでくるはした金なんぞよりもなぁ! そこを見逃してやってんだ。文句を言われる筋合いはねぇ」
「……っ!」
ジンは唇を噛みしめた。
「金を盗ったことは、謝ります。どうか許してください」
膝を付き、両手を付き、頭を下げた。
「足りねぇなぁ、オレの前で土下座するんなら――」
ボスがジンの前に立ち、彼の頭を踏みつけた。
「床を舐めろや」
部屋中にチンピラ達のバカ笑いが響く。
「ハハハッ! しかたねぇ、息子の件は許してやろう。だから、今からお前に命令する。家賃二倍、これから死ぬ気で稼いできっちり払ってよこせ!」
「……っ!!!」
屈辱的な笑い声。
――耐えられない。
「ちくしょおおおおお!!!」
ジンはボスに突っかかった。
「ぎゃははは!! こいつ、ボスに牙を剥きやがったぜ!!」
「バカなやつだ!!」
「――うああああ!!!!」
かなうわけがない。それは目に見えている。
「あれ? 道に迷ってどこか妙なところに迷い込んでしまったー」
唐突に割り込んだ抜けた声。
いつの間にかエンドーが部屋の中にいた。
「……なんだてめぇ!」
「あら恐い人達。んー、だめよ弱い者いじめは」
「お前……!」
ジンは目を見開いていた。
「ちっ! デニムとヨーテは何をしてる!」
ボスが吠える。
「あー、あの見張りと案内係さん? もうちょっと腕の立つやつに任せることをおススメするよ」
「……っ!」
「――悪いけどおっさん、その子放してくれる? オレの知り合いなんだよね」
「あぁん? お前も廃墟のお仲間かぁ? ハハッ! 笑わしてくれる。多少はやるようだが、ここがどういう場所か、まだ知らねぇみてぇだ。おい」
ボスがあごでチンピラ三人に指示を出す。すると三人は嬉しそうにパキポキと拳を鳴らし、武器を構える。
「へー、三人がかり?」
「でぇやぁ!! ――ぐへっ!?」
すぐに一人がエンドーの背後から棍棒で襲い掛かるが、エンドーは振り向くこともせず短剣の柄頭でチンピラの腹を打ち、一撃で倒す。
「臭せぇ臭いがするから、便所かと思ってた」
「んの野郎!」
もう一人が正面から向かう。
そいつの棍棒を短剣で受け止め、もう一方から来る別のチンピラの棍棒も、身体をひねってかわした。
――ボスはジンを床に投げ捨てる。
エンドーは一人の腹に拳を数度叩き込み、ひるんだ背中に肘を叩き込む。
残った一人にも、腕を掴んで引き寄せ、渾身の頭突きを食らわせた。
「弱すぎるぞ」
床で悶えるチンピラ三人に、そう吐き捨てる。
「危ねぇ!」
ジンが叫ぶ。エンドーはとっさに腕を頭の後ろに構えた。
「――つっ!」
その腕に折りたたみナイフの先端が突き刺さる。
背後でナイフを握る息子のピアス男が、「へへっ!」と笑う。
「――痛っってえぇぇ!!!」
エンドーが振り向きざまに払った短剣を、ピアス男は飛び退いてよける。その後ろから――
「あっ!!」
ジンは目を塞いだ。
――バッサリ。
真っ赤な液体が噴出す。
エンドーは肩から横腹へ斜めに切り裂かれた。
「…………」
何が起こったのか理解できていないのか、斬られたエンドーは一つの呻き声もなく、倒れた。
長剣の一太刀だった。
「大人を舐めてっからこうなるんだ。あの世でよぉく覚えとけ。ハハハッ!」
ボスは長剣を横に振って、血を払い落とすと、切っ先を今度はジンの喉元に向けた。
「……そんな……」
目を見開いたまま動かなくなったエンドーを、ジンは震える眼に焼き付けてしまった。それが向けられた刃に移ると、次は自分の死んだ姿がその上に重なって焼き付く。
「さぁて、てめぇとこのガキの死体はあの廃墟にでも捨てるとしよう。なぁに、てめぇの代わりなら、あのクソ娘がいる。餓死する寸前まで稼がせて、高く売り払ってやらぁ。あの娘は磨けば上等な品になるだろうからなぁ」
「た、頼む……。お願いします……。ちゃんと、稼いできますから……、もう、文句言いませんから……」
「ハハハハハッ!! 最初からそう言やぁいいんだ。よぉし、家賃は三倍! 忘れるんじゃねぇぜ!!」
「……はい……」
ジンは涙を流しながらうなずいた。何度も、何度も。
「――おいおい、お前らこそ忘れるなよ?」
「……何だ?」
消えたはずの声が再びもどった。
それは彼らにとって、恐ろしい違和感に違いない。
――ドォンッ!
「ぐはあっ!!?」
ピアス男が爆発で吹き飛び、テーブルの上に転がった。
「な、なんだてめぇ……!?」
ゆらりと立ち上がったエンドーに、ボスは初めて―― まるでバケモノを前にしたような怯えを見せた。
「一つだけだ」
「――!?」
「お前らにオレが言っておくべきことは一つだけ」
エンドーは左手で長剣の刀身を掴んだ。
掌の中で爆発が起こり、長剣はポッキリと折れる。
「この子達に手を出すな。二度とだ!」
右の掌底がボスの腹で爆発した。
「ぐああぁぁ……!!」
仰向けに倒れたボスの胸部にエンドーは足を置く。
「一度でも、この子達に手を触れてみろ、そんときはオレが、お前らをぶっ潰す!!! わかったなぁ!!!?」
「は、はひぃ!!?」
「よし」
エンドーは短剣を納めた。
波の音が、ジンの体を心地よくすり抜けるようだった。
「――なるほど、あいつらに渡す金を稼ぐため、ギャンブルにのめり込んでいたわけか」
「……逆らえるわけがなかった。あいつらのために」
「家族のため、か」
「…………」
港の潮風が、二人の顔面を舐める。
「でも、これで一件落着だ。もうあいつらに怯えた生活をする必要はない」
「そうだな。……ありがとう」
ジンのお礼の言葉を、エンドーは笑顔で受け取る。
「……ところでよぅ、あんた」
すでにジンの視線はエンドーの血まみれシャツにあった。
斬られ、致命傷だったはずの彼の胴体に、傷など一つもない。裂けたシャツと、それを染める赤黒い血があるだけだ。
「オレをバケモノだなんて言うなよ」
「いや、そんなこと……」
動揺したのか目を伏せるジンを、エンドーは悲しい顔で見つめた。
「(たしかに“オレは”バケモノだ)」
そして自嘲気味に笑い、ジンの肩に手を置く。
「――今回のことは、お互い内緒にしてくれ。お前の家族にとって、お前はただの、ギャンブル好きのバカ。今日、オレとお前は会わなかった。な?」
「……ああ」
それを聞いて満足そうにうなずき、エンドーは肩に置いていた手をジンに向けた。
「じゃあな」
一言言って去っていくエンドー。まるでさっきまでの戦いなど忘れてしまったかのように、清々しい。
しばらくの間、ジンはただ棒立ちで、心に開いた穴を見つめていた。
――明日から何をして暮らせばいいのだろうか?
穴を埋めてくれるのは、その答え。
だがそのおかげで、心が軽くなった。彼がジンの心の黒い部分を取り去ってくれた。
何をするかなんて、その日に決めればいい。ただ、当分の間はスリで稼ぐ気にはなれないだろうと思う。
「ありがとう」
心からそう言った自分が照れくさくて、でもとても気持ちよくて、もう一度その言葉を口にした。