53:呼ぶ声
『医務室』のドアが開かれ、ハルトキはビクッと振り向く。
「…………」
「ヨッくん……」
マハエが歩み寄ると、ハルトキはとっさに、涙で腫れた目をそむけた。
「ああ、おかえりマハエ」
いくら顔を隠しても、枯れた声はごまかせない。
「彼の容体は?」
宗萱が医療担当のSAAPに訊く。
ベッドには全身包帯だらけの大林が、静かに眠っていた。生きているのか死んでいるのかわからない彼の状態は、眠るなどという安らかなものではない。
「現在は安定していますが、この先状態を維持できるかどうか」
ハルトキはずっと拳を握っている。
「……窪井にやられたんだ。ずっと意識が、もどらない……。ボクらが見つけたときには、もう……」
SAAPが言う。
「肋骨四本破損、右腕、右足首粉砕、筋肉損傷、打撲数箇所。内臓の損傷も見られました。自力で呼吸をし、生きていることが不思議なほどです。これまでも相当な無茶をされているようで、この方の古傷を見る限りでも、命があることに疑問を抱きます」
マハエは浴場で見た彼の身体を思い出した。
素人目でも、彼がどれほどの無茶をしてきたのかを理解していた。
「大林の友人、クリング・レックも、下の部屋で治療している。まあ彼の場合、左腕の骨折と打撲だけで命に関わる怪我ではない」
そう言うと、グラソンは大林を一瞥して医務室を出て行く。
「宗萱、仕事だ。任務の報告を頼む」
「ええ、すぐに行きます」
宗萱も最後に大林を目の中におさめてから、背を向ける。
「命があって本当によかったです。ですが、完治してもこれまでのように戦うことは出来ないでしょうね……」
「…………」
宗萱も部屋を出て行き、ドアは沈黙を残して閉じられた。
マハエ達三人は何も言葉を発することなく、しばらく大林の苦しげな寝息に耳をかたむけていた。
再び大林が窪井と拳を交えることはない。だが三人にとってはそのほうが良かった。もう彼が命を危険にさらすようなことはないと思ったから。――だが大林にとっては……、とても残酷なことなのだ。
「ボクさ、大林さんのこと、正直わからない。こんなにも身近にいるのに、この人の過去もよく知らない。この人の人生なんて、何も知らないんだ……」
ハルトキの拳に涙が落ちる。
――悔しくてしょうがないんだ、と。
エンドーが「ふん」と鼻を鳴らす。
「そんなもんだろ、普通は。そいつが背負ってる過去や苦しみを全部理解できるなんて、そんなわけはない。兄弟みたいに生きてきたオレ達だって、互いの事はよくわからない。……たぶん、親子でも兄弟でも親友でも、知らない事があるっていうのが重要なんだ」
「……うん」
ハルトキは涙を拭った。
医務室の外で、宗萱とグラソンはドア越しにその会話を聞いていた。
「“知らない事”が重要、ですか。それが人と人を結ぶ一つの絆なのですかね?」
「たしかにそうかもしれんな」
グラソンは微笑して歩き出す。
「もっとも、オレ達の過去なんて短く、ろくでもないものだがな」
「それでも、我々も“人”なのだと言いたい。意味のない人生など存在しません」
「オレ達の存在理由か……。戦いの他に意味があることを願うよ」
「そうですね。それが“『白剣』に込められた本来の思い”ですから」
――深夜。
城で活動しているのは見張りのSAAPだけ。
月明かりが窓から入り込む医務室では、大林がベッドに。そんな彼をずっと見守っていたのか、ハルトキがベッド横の小テーブルに突っ伏して眠っている。
大林は深い眠りの中、時々うめいて、もがくように首を動かし、また一時静まる。
呼吸が乱れ、顔から汗が噴き出ても、彼は目覚めない。夢の中で何かに縛られているかのように、必死に眠りから覚めようとする――
――大林は夢の中で戦っていた。
この世界に音は無い。
耳に入るのは“敵”の声。男の声。かつての親友の声……。
――空が激しく光った。
オレは風で目の前を揺れる髪を、片手で退け、まばたきもなしに対峙する窪井をにらみ続けた。
窪井は天候の悪化に表情をゆがめて舌打ちをする。
「ちっ、降ってくるな」
「とっととケリつけようぜ」
――オレは地面を蹴った。
身体が自由に動かない。三歩進んだつもりが、まだ一歩を踏み出したところ。
オレの拳と窪井の拳が衝突した。
オレの拳はやわらかな粘土のように、簡単に潰され、ちぎれ、風で飛んでいく。
――痛みは無い。
オレの脚と窪井の脚が衝突。
オレの脚は枯れた枝のように簡単に折られて、ちぎれ、風で飛んでいく。
――それでも痛みは無い。
だがオレは窪井に一つの技も決められずに、ただ壊されていくだけ。
「……タカ!」
懐かしい声が聞こえた。
オレの後ろに田島さんが立っていた。
「タカ」
「田島さん……!」
「ケンを許せ」
「何を言っているんです!? 窪井はあなたを――」
窪井が田島さんの背に現れた。
オレは手を伸ばしたが、切り裂かれて血だまりと化す田島さんをどうにもできない。
「…………」
「……大林、お前もいろんなもんを捨てたんだな」
――黙れ! 誰がオレをこんなに苦しめていると思っている!?
「――だが、オレのほうが、まだ強い」
窪井の身体が膨れ上がって赤く染まる。
“バケモノ”は低い声でオレに言う。
「お前にはまだ、捨て切れていないものがある。すべてを捨てたオレに敵うはずがない」
バケモノの巨大な拳がオレの身体を粉みじんに変えた。
オレはまるで水の塊だ。
窪井の声がこだまする。
「自由を求めて高みを目指す黒き魔物は、赤く染まった道を見上げながら、ひたすらに這い登る。その腹が汚れてもなお、また、自らの赤で染まりながらも、たどり着けない高みを見上げ続ける……」
――雨が落ちる。
オレは窪井の背後に確かに見た。
黒き魔物を。
――また、雨が落ちる。
「大林……、オレの邪魔をするな」
――雨がたくさん落ちてくる。
「おおあああぁぁぁっっ!!!」
オレは叫んだ。
すべてが闇へ沈んでいく中、最後に聞こえていたのは、何重にもエコーのかかった声。
「あばよ。これでまた、オレは“高み”へ近づく」
死んだのかどうなのかも、オレには理解できない。
――いや、きっと死んだ。
冷たい雨が、オレの魂を地の底へ沈めていく。天からの無数の刃のように。
「…………」
――オレは無力だ。死にたくない。強くなりたい。もっと強くなりたい。……力が欲しい!
『こっちだ』
――誰かがオレの腕を掴んだ。
『こっちへ来い』
オレは闇の中から引き上げられる。
少年の声だ。
……ハル? ハルトキなのか?
……いや、違う。誰だ?
大林は目を覚ました。
体を動かすと痛みが襲ってきたが、大林は無理矢理、上半身を起こす。
ここは本部の医務室で、すでに怪我が治療されていることに気付いた。
次に、ベッドの横で眠るハルトキに気付く。
「……心配をかけたな」
そっとハルトキの頭に左手を乗せて、彼の長めの髪を撫でてやる。
それから大林は片足で立ち上がると、脇に置いてあった松葉杖と壁にかけてあった灰色のローブを手に、ドアへ歩む。
「オレはこんなことで止まるわけにはいかない」
――誰かが大林を呼んでいた。
その声に導かれるように大林は部屋を出て、そして静かにドアは閉じられた。