44:魔の森
――この先に何が待っている?
その疑問がマハエの胸に不安を残す。
マハエと宗萱が踏み込んだこの森は、とても山菜やキノコ狩りに出かける気になれるような場所ではない。
不安や恐怖を感じるのは、この先にほぼ間違いなく危険が待ち受けていることを知っているから、というだけではなく――。
森という場所は本来、生命にあふれた場所であるが、この森には虫の声も、鳥の声も、小動物の気配も感じられない。
「不気味だな……。自然の中が楽しくないと思うのは初めてだ」
マハエは落ち着きなくキョロキョロしている。
「魔力の働きはさまざまな感覚を研ぎ澄ましますからね。ですが注意してください。心をいつも平常に保っていなければなりません。戦場ではいつも冷静に」
「……冷酷に?」
「冷静にです」
――入り口の見張りをしている軍人が言っていたとおり、頻繁に人が出入しているようで、踏み固められた道が続いている。
途中、人一人通るほどの狭いトンネルに入る。
何の補強もされていない頼りないトンネルだ。ランタンの明かりに照らされた壁にはびっしりと木の根が這い、足元もでこぼこしている。
「このトンネルを抜けなければ森の奥へは進めません。ということは、全員がここを通り抜けているはずです」
「引き返そうと思えば道をたどって簡単に森を出られる……。このトンネルが崩れたって言うなら話は別だけど、通常は迷うことないよな」
「そうですね。となれば行方不明者達はどこかで身動きできない状況にあるか、すでに亡くなられているか」
「うん、冷静だ……」
しかし捜索に当たる以上、後者の可能性は考えてはならない。
この任務の第一は、遺体の捜索でも原因の特定でもなく生存者の捜索なのだから。
――トンネルを抜けても、そこはまだ何の変哲もないただの森だった。
いや、それは一見で、マハエ達の感覚からすれば“生命の感じられない森”が更に深刻になった場所だ。
そこには生命どころか、風の通り道すら存在しないようで、その不気味さに悪寒さえ覚えるほど。
――それだけではない。
「……何かさ、三百六十度に視線を感じるんだけど。気のせい?」
「いえ、わたしも感じますよ。しかし視線というよりは、何かに狙われている感じです」
「やっぱり、モンスターかな?」
ゴクリとつばを呑んで、短剣を抜く。
「お腹をすかせたオオカミの群れかもしれませんよ」
宗萱は「ふふっ」と笑いながら刀に手をそえる。
「あんたの冗談は毎回、オレの心臓をハンパなく握りつぶしてくれるねぇ」
「オオカミのほうがマシでしょう」
「いや、微妙だ」
――そのとき、背後の草むらがガサリと動いた。
二人は(マハエはビクリと)その方向に武器を構える。すると、白くて小さな影が一つ飛び出した。
「……ウサギさんかぁ」
マハエは安心する。一応生き物が存在していたことに。
ウサギは二人を一瞥すると、逃げるように跳ねていった。
――ガサリ。
今度は反対側の草むらが動いた。
そちらを向いた二人の目の前に、黒くて大きな影が一つ飛び出した。
「ぐがるる……」
と、とても可愛らしい声を発する大きな影。
「なんだ、クマさんかぁ」
マハエは安心――
「…………」
大きな影は鋭い眼をむいて二人を見ている。
「……クマに“さん”という表現は間違っていると思う」
立ち上がると三メートル近くある巨体、体重数百キロのケモノは、ランク上位のモンスターに匹敵する。
マハエは逃げの構え。宗萱は戦闘態勢。
だがクマには二人を襲うという気はないらしい。――というよりも、異常なほど、何かにおびえているようで、よく見ると全身傷だらけ。
――何かから必死に逃げてきたような。
それゆえ、目の前に現れた小さな人影など一瞬の警戒の後には気にも留めない。二人のそばを横切り、逃げていく。
「何におびえてるんだ?」
マハエは逃げ去っていくクマから目を離さなかったが、宗萱は違う。彼は逃げていくケモノよりも、そのケモノが飛び出した草むらの奥を凝視している。
「――来ます!」
宗萱が素早く刀に魔力を込める。
「え、何が?」
と口にしつつ振り向くマハエを、宗萱が押し飛ばす。
「――???」
わけもわからず地面を転がったマハエの目の前―― 彼らが立っていた場所の地面が、数本の線でボコボコと盛り上がって、まるで地面の下を複数の蛇が這っているかのように、クネクネと高速で“何か”が移動している。
その先には逃げていくクマの姿。
接近する気配にクマが振り向いたその瞬間、地面からその“何か”が姿を現す。
土を舞い上げいくつも現れたそれは、長細い触手のよう。
その触手は、クマの身体を縛るように巻きつき、巨体を持ち上げた。
「…………」
マハエも宗萱も言葉を失い、悲鳴を上げるクマと、それを高々と揚げて地面に叩きつける恐ろしい触手の脅威を、見開いたその眼に映していた。
蛇ではないのは明らかで。「何か?」と訊かれても、それに該当する生物など存在しない。
全体的に黒茶色で、うろこや表皮などはなく、頭もない。何かの“触手”だという考えにいたるわけだが、そんな分析は後回しにしたほうがよさそうだ。
思い出す。
先ほど感じていた、何かに狙われているような視線を。
――次はこちらに来る!
先ほどと同じように、地面の下を這って触手が二人を狙う。
地面から出現した触手を、巻きつかれる寸前で飛んでかわし、二人は攻撃に移る。
魔力を帯びた宗萱の刀が、伸びてくる触手を一瞬で切断。マハエの『壊波槍』に巻きついた触手が、槍から放たれた衝撃波で弾け散った。
しかし、それで終わらない。二人を捕獲すべく、次々と触手が現れる。
「真栄さん、ここはいったん引きましょう!」
「ああ! ――って……!?」
二人は背中合わせで立ちつくす。
――すでに囲まれていた。地面から突き出た触手に包囲されていた。
「くそ……」
斬り進むしかない。しかし逃げ切れるのか……。
――そのとき、どこからか人の声が飛んできた。
「こっちだ!」
二つの火の玉が触手に突き刺さる―― 火に包まれた投げナイフだ。
熱に驚いてか、触手が暴れながら引っ込んだ。おかげで包囲を抜けた二人の前で、一人の男が松明を振っている。
グリーンの服に黒のジャケット。グリーンのズボンに黒のブーツ。一般人らしからぬ服装ではあるが、それはさておき、どうやら助け舟らしい男のもとへ二人は走る。
男は腰のナイフ入れから布を巻いた投げナイフを取り出すと、松明の炎で火を付ける。布に油がしみ込ませてあるらしく、すぐに引火し、すかさず“ファイアナイフ”を、追ってくる触手へ投げ放った。
ナイフは一直線、正確に目標に突き刺さり、動きを阻止する。
「走れ!」
男が片手を振る。マハエと宗萱は男の後を走った。
――三人が逃げ延びて来たそこは、森の中でも少し開けた場所で、案内した男が設置したらしいテントが一つと、その前では夏だというのに焚き火の炎がパチパチと燃えていた。
「……助かりました。ありがとうございます」
全力疾走の息を整えて、宗萱とマハエが頭を下げる。
「いや、よかった。人の悲鳴が聞こえたから間に合わないと思ったよ」
「それはたぶん、クマの悲鳴かと」
「ん? そうか。いやしかし、救出できてよかった」
男は笑って、松明の火を消すと焚き火を正面にあぐらをかいて座った。
二十代前半。歳はそんなところだが、ほんの一分前の状況で現在の冷静さは、若さに相応するものではない。
「……いや、生き残るかどうかはこれからだ」
男がつぶやく。焚き火を前に、鮮やかな茶髪を暑そうにかき上げて。
「…………」
異様な空気と熱気でマハエは近づけない。
「おいおい、もっと火に近づいたほうがいい。“捕食”されるぞ」
「え?」
「やつは動物の体温を感知して獲物を襲うらしい。だが、やつの弱点は火だ。強い熱には近づかない」
「……やつ、とは? あなたはあの“触手”の正体を知っているのですか?」
宗萱の質問に男は微笑する。
「あれは触手じゃない。……“根”だ」
「根? 根っこのこと?」
男はうなずく。宗萱も何か確信を得たように数度頷いていた。
男も感じたのだろう、この二人の落ち着いた雰囲気から、只者ならざる気配を。
「あんた達、『シラタチ』か?」
その言葉に驚かされたのはシラタチの二人だ。
「そうですが、なぜそれを?」
「オレは軍人なんだ。特殊部隊『イチリン』のチーム『ウルフ』、副隊長の『青葉シマ』。よろしくな」
「特殊部隊『イチリン』……。たしか、軍のエリート部隊でしたね。その副体長がなぜこの森へ? 軍はこの件に手を出さないはずでは?」
男―― アオバは立ち上がる。
「個人的な事情だ。それよりあんた達、いつこの森に入った?」
「つい先ほどですが」
「もしかして、トンネルから?」
二人がうなずくと、アオバは表情を固くして言う。
「来てくれ」
人数分の松明に火をつけ、それを一本ずつ持たせて先に歩き出す。
「どうしたんですか?」
マハエが訊くが、アオバは「いいから」と一言だけ。
それ以上は何も訊かなかったが、マハエの中では一つの疑問から、ある不安がにじみ出てきていた。
――なぜアオバはこの森がとても危険な場所だと悟った時点で、森から出て応援を呼ぶということをしなかったのだろうか。
数分後、まさに、その疑問の答えとなる光景が彼らの目の前に現れる。
アオバが案内したのは、二人が抜けてきたトンネルの前だった。
マハエはあ然とし、宗萱は「やはり」と言うようにため息をついた。
トンネルの中には、まるで無理矢理詰め込まれたようにびっしりと木の根が―― ゆいいつの出入口が完全に塞がっていた。
「……えーと、つまり?」
「完全に閉じ込められた、ということですよ。この“魔の森”に」
「……そう、だね」
苦々しく言うマハエには、ため息をつく余裕もなかった。