33:雨に濡れた日
――雨が降る。
――赤い雨だ。
――雨が赤い?
――赤いのはオレ自身だ。
「――レッドキャップ……! レッドキャップが攻めてきた……!!」
見張り番の仲間が、真っ青になってテントに駆け込んできた。
そのあせり様はたちまち、周りに伝わり、テント内は半ばパニックにおちいる。
「レ、レッドキャップ!? 攻めてきたって―― な、なぜだ!?」
「んなことわからねぇよ!! ……おそらく窪井のやつが……!!」
オレは言ったやつの胸ぐらを掴み上げ、どなる。
「窪井が何だと!? バカなこと言うんじゃねぇ!! ケンが―― あいつがそんなことするわけねぇ!!」
「ほ、ほかに説明できるか!? あのデカイ組織がなぜオレ達を!? 窪井のやつがここを抜けてやつらに加わったのは数日前だぞ!!」
バシンッ! と拳が音をたてた。
オレは仲間を殴った拳をはらい、テントを飛び出した。
「待てや、タカ」
すぐ横からオレを呼び止める声。
木箱に腰かけ、足を組んでいる長身の男がいた。
「田島さん……」
『田島弘之』のリーダー、田島慎治。オレがこの世でもっとも尊敬し、信頼する人。
「タカ、お前、どうする気だ?」
「どうするって、決まっているじゃないですか。オレが直接たしかめて――」
「やめとけ」
田島さんは少しも慌てる様子を見せず、真っ白な短髪頭を掻く。そしてゆるりと立ち上がると、オレの肩に手を乗せた。
――その瞬間、オレの身体はその重みに支配された。この人には従わなければならない。この人はオレのすべてで、絶対的な存在だから。
「お前が行ったところで何になる? オレも、ケンがオレ達を裏切ったなんて、思いたくはない。それなら、信じるしかないだろう、あいつを。……やつらが攻めて来たのには、他に理由があるのかもしれん」
「…………」
「オレが行く。話し合いなんかで止まるようなやつらだとは思えないが、だめでも“おとり”としてはオレが最適だ」
「行かせませんよ田島さん。やつらがその気なら、戦うまでです! オレ達だけ逃げるなんてことは、できません!!」
――爆音と悲鳴が響いた。
野蛮な叫び声と、狂った笑い声が近づいてくる。
周りには仲間達が集まっていた。みんなの決意は同じだ。――例え死んでも、田島さんだけを残して逃げることなんかできない! 集まった三十数人、『田島弘之』の全員が、この人に救われた。行き場をなくした野良が人として生きていけているのは、この人が救ってくれたから。
田島さんはオレの横にいた男に顔を向ける。田島さんよりも一つ年下で、子分の中では最年長の男だ。
「赤瀬、タカを連れていけ」
「し、しかしボス!」
「お前らの気持ちはありがたい。だがオレには、『田島弘之』のリーダーとして、お前らの人生に責任を持たなければならない。……いいか、オレのために死ぬことは許さん!」
「…………」
――そんなこと関係ないと思った。オレなんかの命よりも、田島さんのほうが大切だ。『田島弘之』を率いていけるのは田島さんの他にいない。
「大林、逃げよう。たしかに、ここで全員が無駄死にするわけにはいかない」
「何言ってんだ赤瀬! 田島さんを見殺しにしろってのか!?」
「ボスは死なねぇ! お前はこの人を誰だと思っているんだ? お前が一番よく知っているはずだろ」
「…………」
田島さんがオレに笑いかける。――“初めて出会ったとき”と同じ、温かくてとても心地よくなる笑顔だった。
「……わかりました。田島さん、絶対に生きてまた会いましょう」
「ああ」
力強い声だった。
この人が死ぬはずはない。そう、思った。心から、思った。
――雨が降る。
――赤い雨だ。
――誰かが吠えている。
――吠えているのはオレだ。
三十数人いた仲間は、いつの間にか十人になっていた。
敵はすぐに追いついてきた。オレ達は戦って、戦って、逃げて、逃げた。
――田島さんが生きていることを信じて。生きて再会することを信じて。
ようやく敵が撤退した頃には、オレの周りは真っ赤に染まっていた。横たわる仲間、敵……。途中から降っていた雨で、赤い川のようになっている。
オレは赤い水を跳ね上げながら走った。叫びながら田島さんの姿を探した。立って歩く田島さんの姿を……。
「うぐっ!」
田島さんの悲鳴が聞こえた。
頭の中が真っ白になりながら、認識しているのは、ただひたすら走っている『自分』という存在だけ。
目の前に立っている人影を見つけ、反射的に足が止まった。
「……ケン……」
雨の音がやけに大きく聞こえた。
魂が抜けたように立ち尽くしているケン。その手には血にまみれた太い剣が握られていて、剣先から赤い水が滝のように地面に流れ落ちて―― 赤い水の濁流に呑み込まれていく。
ケンが震える唇を動かして小さな言葉を発していても、雨の音にかき消されて聞き取ることが出来ない。
それよりも、流れる赤い濁流が気がかりだった。濁流はケンのすぐ足元の、誰かの肉体から流れ出ていた。
「……!!!」
わけがわからなかった。木にもたれて動かないのは長身の男だ。真っ白な短髪頭の男だ。どこかで見たことのある男だ。毎日見ている男だ。もっとも近しくもっとも信頼できる兄であり師であり自分のすべてである男だ。
「田島さん……」
頭の中は混乱と恐怖と怒りでごちゃごちゃで、でも―― 妙に冷静だった。
「ケン、お前が……」
自分でもわからくなるほど矛盾していた。気持ちは冷静だと思ったが、発した声はおそろしいほど怒りにまみれていた。
ゆっくりと歩み寄るオレに対し、ケンは一歩、一歩と後ずさる。必死に唇を震わせながら。
雨の音は完全に頭の中から消え去った。――そのおかげで、ケンの声が今度ははっきりと聞き取れた。
「――違う」
ケンは持っていた剣を投げ捨てると、一目散に走り去った。
「ケンッ!!!」
雨の向こうへ消えていくケンを、オレは追わなかった。田島さんが微かにうめいたのを聞いたから。
「田島さん!」
「……タカか……。無事、か……?」
「喋らないでくださいよ、田島さん! 出血が……」
腹部と背中から大量に出血している。剣に貫かれたのだ。――これではもう、助からない。
「……はは、は。約束……、守ること、できたようだ……。ままた……、生きてお前と……、あ会うことが……」
口から血が塊のようになって飛び出す。
「喋らないでください!! お願いですから……!」
「……いいんだ、ももうオレは、助からな……。いいいか、よく、聞け……。お前に頼みが……、ある」
「頼み……?」
田島さんは震えながら、ぎこちなくうなずくと、オレの肩をがっしと掴む。――その力強さに驚いた。
「二つだ……。声が、ふ震えるが、ちゃんと、き聞け……。一つは……『田島弘之』の、ことだ……」
「わかってます。あいつらのめんどうはオレが――」
「違う……。『田島弘之』は……、今日限りで解散しろ……。おお前達は、もう立派に……、人として生きていけるはずだ……。オレに縛られて生きていくのは、やめろ……」
「田島さん……!」
「二つ目は……」
また大量に血を吐き、咳き込む。傷口を押さえるオレの手の隙間からも大量あふれ出す。
「二つ目は……」
肩を掴む手に、さらに力がこもった。
数度呼吸し、田島さんは言った。
「ケンを、許せ」
時が止まったように感じた。
田島さんはまっすぐにオレの目を見つめていた。強い光を宿した眼だった。
最期に、ふっと“あの笑顔”を見せると、静かにゆっくりと、田島さんは力尽きた。
オレはしばらく立ち上がることができないで、温もりの消えていく田島さんにすがっていた。
自分もここで力尽きてしまいたかった。
「田島さん……」
――田島さんの最期の頼みを受け入れること。それがこの人の願い。……しかし――
「すいません……! オレには無理です……っ!」
――仲間の声がした。オレを探す仲間達の声。
オレは足を踏ん張ってどうにか立ち上がり、空に顔を向けて冷たい雨を感じた。
――『田島弘之』は死なない!
雨が真っ黒に変わり、オレの視界も闇に染まった。
「――ばやしさん……。おおばやしさん……」
暗闇の中で聞こえた声で、大林は現実に引き戻された。
「起きてください、大林さん」
宗萱だ。
大林は目を開けて起き上がり、彼の顔を目にして、ようやく夢から覚めたのだと理解した。
ここは宿のベッドの上だが、寝袋や固い地面で寝た後よりも、さっぱり疲れは取れなかった。
「大林さん、部屋の前にあなた宛ての封筒が落ちていました」
「……オレに?」
渡された白い封筒には、たしかに『大林鷹光殿』とあった。その上には、『大至急確認されたし!』という文字があるが、差出人の名前はどこにもない。
「中は見ていませんが、緊急性を感じましたので」
大林は封筒を開いて、中の手紙に目を通す。数秒後、封筒にもどして宗萱に言った。
「何でもない。気にするほどのことでは」
「そうですか。わたしはこれから任務で出かけますが、問題はありませんね?」
「ああ」
宗萱は軽く会釈をして出て行った。
窓の閉じられたカーテン越しに、外の明かりが微かに入り込んでいる。
大林は手紙を握りしめると、椅子にかけてあったローブを羽織った。