16:手を挙げろ
『ネーベル山』に踏み入ったグラソンとエンドーは、登山道に沿って進む。といっても、登山のための道などというものは名ばかりで、雑草だらけ、穴だらけのただの足場でしかない。
小さな山だ。わざわざ登山に訪れる者も少ないのだろう。荒れるのもしかたがない。
「登山口の場所を尋ねたとき、物好きだな、と言われたよ」
グラソンが苦笑う。
たしかに、こんな荒んだ山を登山するなんて、普通に考えれば物好き以外の何者でもない。
二人は足元に気をつけながら、狭い道をずんずん進む。
地面が悪いうえに、上り坂だ。まともに歩ける道に出たときには、エンドーはすでに息が上がっていた。
「この道……、また下るのかよ……?」
「他に道がないならな……」
「窪井組の連中、本当にこんな道を使ってるのか? ――ったく、舗装くらいしとけっつーの」
悪態をつくエンドーだが、グラソンがマイペースに先へ進むを見て、だらしない足取りで追いかけた。
だが、[ファイトー]と応援する案内人に悪態をつく元気はあるようだった。
――そんな調子で上り坂をクリアーし、平坦な道。
さすがに山頂は遠く、また先のほうに上り坂が見える。だが途中、雑草がなぎ倒されてできた、わき道があった。
「人が通った跡のようだ。手下は、登山道から外れた場所、とか言っていたらしいな」
「……ただのケモノ道だったらどうするよ?」
「行く」
グラソンは即答する。
「へいへい……。言うと思いましたよー」
ため息一つでエンドーは了解し、グラソンに続いた。
「うわっ……、やぶ蚊だ」
「騒ぐな」
――鳥の声に心を癒す余裕もない。
ガサガサと草を踏み踏み、わき道を進んでいくが、こういう場所で警戒しなければならないのは『トラップ』だ。罠を張るのにもっとも適した場所といえば、森の中だろう。
「そこだ。木の間に糸が張ってある」
草の中に巧妙に仕掛けてある『糸』。おそらく鳴子に繋がれているのだろう。グラソンはそれを慎重にまたぎながら、後ろのエンドーにも警告する。
「こんなものより、園長のトラップのほうがもっと恐ろしいぜ……」
トラップは人の心理を理解した上で仕掛けるものだ。どういう局面で、どんなスキができるかを読むのだ。
つまり、それを見破るには、仕掛けた人物の心理を理解するよりも、自分自身の心理を感じなければならない。
足元に張ってある三つ目のトラップをクリアーしたとき、エンドーは思い出した。
それは、いつか園長が言っていた言葉。
『人はスキをつくらないように警戒したとき、まったく逆のところで大きなスキをつくってしまう』
今までの糸は、すべて足元に仕掛けてあった。つまり、今もっとも警戒しているのは足元だ。
――まったく逆のところで、大きなスキができている……。
「……! グラソン、前……!」
その言葉に、グラソンはピタリと静止する。首のギリギリのところに細い糸が張ってあった。
「油断した……」
ゆっくりと体をもどす。
足元に警戒しすぎると、高い位置にある糸に気がつかない。施設で、何度か同じようなトラップに引っかかったことをエンドーは思い出した。
「助かったぜ、園長……」
二人は深呼吸して心を落ち着かせた。
やぶの中だと、早く抜け出したいという心理が働いてしまう。ここで重要なことは焦らないことだ。
「……帰りもここ、通るの?」
「他に道がないならな」
「…………」
――このトラップ、何か変だ。
エンドーがそう感じたのは、すべてのトラップを潜ってやぶ道を抜けたときだった。
「お前も気付いたか。たしかに、ここのトラップは妙だった。まるで、“侵入者に対して”仕掛けたトラップのようだ」
「ああ。単に人が近づくのを警戒していただけなら、あんな裏をかいた罠は張らない。できる限り怪しまれないよう、気付かれないように仕掛けるのが普通だ。つまり――」
「警戒すべき人物―― オレ達がここを訪れることを、敵は知っているのかもな」
平然とグラソンが言った。
「やっぱり、逃げた手下が……?」
「それにしては警戒が早すぎる」
「うーん……、思い過ごしかぁ?」
疑問で脳の思考領域がいっぱいになり、膨らんでパチンとはじけたところで、エンドーは先を見た。
「とにかくだ。――あれが例の山小屋だな?」
彼が視線を投げかける先には、古びた木造の建物が。
だが、不用意に近づいてもよいのものか。
「ヨッくんも連れてくるべきだったんじゃない? 観察するなら、あいつの魔力は便利だぞ」
「心配はないだろう。あの山小屋から人の気配はしない。確認するのは、地下通路の存在だ」
エンドーは「は?」とグラソンを見た。
「それだけ?」
「それだけだが?」
「どういうことだ? もっと詳しく調べなくていいのか―― おい、待てよー」
用心する様子もなく小屋へ近づくグラソン。エンドーは、いやおうなく引きずられるようになる。
「落ちたな遠藤京助……。これじゃ、まるで忠犬じゃないか……」
独りで嘆いていた。
忠犬はご主人様と苦楽をともにする。
ご主人様がマヌケだと、犬もマヌケになるものだ。
――エンドーはこの瞬間ほど、グラソンという男の勘を本気で疑うことはなかった。
小屋のドアを開けたグラソンと、その後ろのエンドーに向けられる何本もの刃物。
いつの間にか背後も、ぐるっと囲まれていた。
「『ニュートリア・ベネッヘ』にようこそ」
手下の数は十数人。微塵でも抵抗する気を見せれば、『マル注R指定的芸術作品』の出来上がりだ。
「(う……、なんかデジャヴ……)」
――ホールドアップ。
その頃、『シラタチ』本部の休憩室では――
宗萱、マハエ、ハルトキが、のほほんと茶をすすっていた。
「静かだねぇ〜」
ハルトキが言うと、
「平和だねぇ〜」
マハエも言う。
「エンドーちゃんがいないと、空気が穏やかだねぇ」
ズズズ……。茶をすする音。
「今ごろ、登山を始めてるかな? いいなぁ、季節的にも最高の時期だし〜」
うらやましそうに宙を見すえるマハエ。
本部に残った四人は、完全にヒマしていた。
グラソン達の報告待ちなのだから仕方がない。
少なくとも茶をすする三人はそうなのだが、大林はテラスに出て自主トレーニングをしている。
そのうち、マハエが畳に大の字になり、つぶやく。
「それにしても―― 強敵との戦闘の後に、こうやってのんびりしちゃうと、なぁんもする気が起きないなぁー」
――だがそのとき、グラソンとエンドーにくっついて行っていた案内人が、報告のために帰ってきた。
[ただいまもどりましたー]
「よぉー、どうだった? 隠し通路とやらは見つかったのか?」
[はい、バッチリです。例の手下が言っていたとおり、登山道の途中にわき道がありまして、その先で山小屋を確認しました]
宗萱がうなずく。
「わかりました。――グラソンと遠藤さんは無事ですか?」
[無事ですよ。今は窪井の隠れ家と思しき建物の中で、助けを待っているところです]
「…………」
「…………」
沈黙するマハエとハルトキ。
宗萱だけは恐ろしいほど冷静に、空になった湯呑みを、トンとテーブルに置いて、これまた冷静な声で言う。
「捕まってしまいましたか」
[はい。]
「わかりました」
立ち上がる宗萱を、マハエが慌てて引き留める。
「ちょ、ちょっと待ってくださいな、宗萱さん。……なに、捕まったの? 彼ら」
「そのようです。ですが、心配はいらないでしょう。すぐに始末されることはないでしょうから」
微かに笑い、休憩室を出て行った。
残されたマハエとハルトキは、大きな疑問符を頭上に浮かべ、互いの顔を見合う。
「……まあ、大丈夫でしょ。“あの”エンドーとグラソンだよ」
そのハルトキの一言に、なぜか大きくうなずいて納得してしまうマハエだった。