7. それぞれの場所、それぞれの想い
■ マサチューセッツ州ボストン湾近海 大西洋沖合
S.M.G社、大型洋上施設『GOFER』……
太陽の日差しがそこそこあるにもかかわらず、アメリカ北東部、ニューイングランドの風はひんやりとしていて肌を冷やす。それでも約二週間ぶりの陽光を浴び、ジャージ姿の世羅浜雪乃は満足だった。
海面から約一〇〇メートルの高さにあるデッキの上からは、見渡す限りの海であった。目をこらせば、遠くに霞むボストンの街が見えるのだが、雪乃の目でそれを見るのは叶わなかった。
先天性視覚障害者。
雪乃は生まれたときから視力は無い。しかし彼女に会った人は、そのほとんどが視覚障害である事を疑うほど、彼女はその他の五感を駆使した身体挙動を会得している。
それが生来の勘の良さと、今は無き兄譲りの天才的な頭脳が合わさった結果である事は明白だが、彼女の容姿と、その可愛らしい仕草がそれをあまり感じさせないのである。故に皆『本当に目が見えないのか?』と疑問を抱くのであろう。
デッキの上で、雪乃は軽くストレッチを始める。約二週間ぶりの身体の感覚はどことなく重く感じ、雪乃はそれを確かめるように身体の各部分を丹念に伸ばす。
(やっぱりDr.ミラノフの言う通り、連続ダイブは一〇日間ぐらいが限界だな……)
そんな事を考えつつ、雪乃はデッキの上を歩き始めた。
人間が仮想現実の世界を体感するためのインターフェイス、インナーブレインシステムの稼働状態、つまりニューロデジタリンク中の人体は、その機能のほとんどを生存に必要最低限の活動に抑えている。その活動は一般的に言うレム睡眠状態に近く、当然身体は動かない。
しかし人間の身体は直立歩行に非常に特化した形で進化している。直立歩行を前提とし、その他の器官も直立歩行をする事で機能するように出来ているため、長期間寝たままの状態は、いわば人体としては想定外の行為であると言える。
それ故、連続した接続状態、世間一般で言うところの『マラソンダイブ』や『チェーンダイブ』等の行為は現実の身体に少なからず影響を及ぼす。
数日間のダイブは、当然その間の栄養補給や排泄物の処理に加え、皮膚圧迫等からなる皮膚異常を防ぐための様々な処置が必要となるため、しかるべき規模の設備が必要となる。
それに加え、長時間の身体無可動状態による筋肉、各種臓器の機能低下や、骨格、関節への悪影響などが考えられる。ニューロデジタリンクにおける人体研究の第一人者と言われるナターシャ・ミラノフ博士によれば、連続的なダイブの限界はおおよそ一〇日間とされている。
雪乃は連続一二日の接続状態を維持し、昨日現実世界に復帰した。ニューロデジタリンク中に装着していたダイブスーツによって定期的に筋肉へ低周波刺激処置を施してはいるものの、検査の結果、若干の筋力低下と、僅かな消化器官の反応低下が見られた。そのためこれから約四日間は現実側でリハビリとトレーニングに費やすことになる。現に今もリハビリの一環で、デッキの上をウォーキングしているのである。
「よう、お帰り雪乃」
デッキを歩く雪乃にそんな声が掛かった。雪乃はその声のする方へ顔を向けるが、声が掛かった瞬間に相手が誰かわかっていた。
「ただいま、ギル」
雪乃はそれだけ言って、また歩き出した。声を掛けた本人、ギルバート・サザラーンは「やれやれ……」と肩をすくめ、懐から煙草を取り出し火を点けた。そして歩く雪乃の隣に並んで歩く。
「教授への帰還報告は?」
「一時間前、報告データと一緒に」
まるで軍人の戦果報告の様な雪乃の答えにギルバートはフッと苦笑する。
「は~ん…… で、教授は?」
「さっき研究室に戻るってヘリで出てったよ。『Mainのバーガーが食べたい』ってぼやいてたから、たぶんボストンに寄ってからじゃないかな?」
雪乃がそう言うと、ギルバートは「あ〜のジャンクフードマニア……」と呆れたように笑った。教授のジャンクフード好きは有名で、陸の大学では生徒達から『ジャンク教授』などというあだ名まで付けられていた。
「雪乃は上陸しないのか? 久しぶりのリアルなんだし、わざわざこんな何にも無い海の上に居ることもないだろう?」
紫煙を吐き出しながそう聞くギルバートに雪乃は「少し離れてくれる」と言いながら煙を払う様に手を振った。
「しないよ。トレーニングが終わり次第また潜るから、上陸したら面倒だもん」
「はは、最近はあっちにいる方が長いんじゃね? 雪乃はこっちより居心地良いのかもな」
「う〜ん、そうかもね…… あっちじゃ目も見えるし」
半分冗談で言ったつもりだったが、雪乃のその言葉にギルバートは溜息をついた。
「やっぱり、あのご執心の彼かい?」
「ご執心…… う〜ん、まあ一年もかけたし、一応私の弟子だしね」
雪乃はそう言って、何かを思い出した様にクスっと笑った。ギルバートはそんな雪乃を見ながら、空に向けてフゥーと紫煙を吐き出した。
「彼ら…… マジで生きているんだよな…… あの世界で……」
ギルバートが呟く。それは彼が吐き出した紫煙の様に霧散していった。雪乃は「うん……」と頷いた。
「生きている…… だけど『生きてる』って定義はなんなんだろう? あれらは、果たして俺たちの『生きてる』って意味と何か違うのかな……?」
今度のギルバートの言葉には雪乃は答えず、黙々と歩いていく。
「昔さ、『仮想現実と現実の違いは情報量の多寡だ』なんて誰かが言ってたが、じゃああそこは…… あそこで生きてる連中と俺らの情報量にどれだけ差があるんだろう?」
波の音、風の音。そして歩く雪乃の唇から漏れる息遣いが、ギルバートの問いに無言の答えを返していた。
「俺は最近思うんだ。もし、魂ってのがマジで存在するのなら、彼奴らのそれは何処にあるんだ? ここか? それともあそこか? ……てさ」
ギルバートはそう言って空を指差した。そんなギルバートに雪乃は「さあ……」と素っ気なく答えた。
「私にはわからないよ、ギル。確かに私達は世界を創造している。でも、間違っちゃダメ……」
雪乃はそう言って立ち止まった。そして空を見上げ、フゥっと息を吐いた。
「私達は、神様じゃない」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
頭の中に邪気の様な物を感じて僕は叫んだ
「トモさん、新手ですっ! 前方に四…… いや、六っ!!」
初めにかけた探知魔法『コグニション』の効果がまだ続いているお陰で、僕の頭の中に敵の接近を察知するイメージが湧いていた。
「なに、また増えるの〜?」
トモさんは半ば呆れ気味にそう言うと、正面で手に持つ鉈な様な幅広の剣を振りかぶる『クローマ』と言う獣人型セラフの懐に飛び込み、横薙ぎに刀を振るった。
脇腹から派手に体液を撒き散らし、前のめりになるセラフの頭を蹴り飛ばし、その反動でトモさんは右手から襲い来るもう一体の頭上に跳ぶと、袈裟斬りにセラフの頭を両断した。
剣技と体術を融合させたトモさんの戦い方は、まるで黒いつむじ風の様だった。
「クロノスフォールっ!」
僕は接近中のセラフに杖に入れた魔法で時間遅延を施し、フレイアを入れる代わりにスロットから外した加速魔法『クロノスゲイン』の詠唱に入った。
(約一五秒、大丈夫、この距離なら間に合う計算だ。トモさんが三体目を倒して次の目標を相手にする迄、たぶん二、三秒の貯金ができるはず……っ!)
僕は戦況を見つつ、頭の中で敵目標との交戦順位を秒刻みで計算する。
トモさんと組む様になって、後方から戦域を俯瞰できる余裕が出来たため、その辺りが計算できる様になった。これはそうやって自然に覚えた、僕独自の戦闘方法だ。
「トモさん、加速させます。準備を……っ!」
「了解っ!」
トモさんは三体目を斬り伏せ、独楽の様にクルンと回って地面に片膝をつく。
(よし、ぴったり。計算通りだ)
トモさんは刀を逆手に持ち替え、屈めた軸足に力を溜めている。その姿はまるで、引き絞られた弓の様だ。僕はその姿を認め、杖を掲げてトモさんに向けて魔法を放った。
「クロノスゲインっ!!」
その瞬間、トモさんの身体を縁取る様に青く輝く。続いてトモさんが、溜めていた軸足の力を一気に解放し地面を蹴った。
疾風……!
トモさんの一瞬の最大加速に空気が震えた。元々高速戦闘が信条のトモさんに、更にスピードがプラスされ、凶悪な刃を持つ黒い竜巻となって、トモさんがクローマの群れに襲いかかった。
思った通り加速魔法はトモさんとすこぶる相性が良い。獣人のちっさい脳みそなら、速すぎて斬られた事すら理解出来ないだろう。
トモさんはあっという間に五体のクローマをバラバラにして動きを止めた。残りの一体は腕を斬り飛ばしたにとどまり、遠吠えの様な声を放って立ち上がった。そこに、僕がフレイヤを放った。クローマは赤とオレンジの炎に包まれ消滅していった。
「ふぅ…… この後接近するセラフは?」
「えっと…… 大丈夫です。周囲に接近する者はありません」
僕はコグニションの探知を使い周囲に意識を集中させるが、何も感じられずそう答え、僕もフゥと息を吐いた。戦闘終了だ。
「今のはかなり良かったんじゃない? あたし達」
「ええ、良い連携だった気がしますよね」
一緒に探索する様になって二週間程だけど、トモさんの技とか、戦闘の癖とか、目標の順番の好みとか、その辺りが何となくだけどわかってきた気がする。それに併せて僕も戦闘を『組み立てる』事ができるように成りつつある。もちろん、まだ完璧に読むことは出来ないけど。
「でも、ノラ凄いよ。ノラの予測ぴったしじゃん。そのお陰であたしも凄く立ち回りやすい。魔法のタイミングもバッチリだったし。ノラは指揮っていうかさぁ、軍略とかの才能があるんじゃない?」
そうトモさんが嬉しそうに言うと、僕もちょっと照れてしまう。あまり人に褒められる事なんて今まで経験無いからなおさら照れまくりだ。
「いやいや、トモさんの速攻こそ賞賛ものですよ。加速した後なんて目で追えないですもん」
「あたしも自分が風になった気がして具合が良いよ。第一階位の時間魔法なんて時間稼ぎのしょぼい魔法だとばっかり思ってたけど、使い方一つでこんなにも有効だったなんて驚きよ~」
そんなトモさんの言葉に僕も同意で頷く。魔法は使い方一つで様々な有効性が生まれる。それはお師さまが僕によく言っていた言葉の一つだった。う~ん、やっぱりお師さまは凄い、萌える、抱きしめたいっ!
……と、それはともかく、僕たち、だいぶ息が合ってきている。このまま良いコンビになりそうな気がする。そんな事を思っていたら、少し口許がにやけていたみたいだ。
「……? どうしたの? 急ににやけたりして」
そんなトモさんに僕は「いや……」と頭を掻きながら答える。
「なんか良いなぁ、仲間って…… とか思っちゃって。あ、い、いや、僕はまだ仲間だなんて言えないんですけど……」
するとトモさんは少し遠くを見るような目で僕を見つめ、その後微笑んだ。
「そうね、良いよね、仲間って……」
優しく微笑みながらそんな風に呟くトモさんに、僕はまた顔を赤くしていた。
でも、そんなトモさんの笑顔に、何故か僅かに違和感を憶えた。この数日間、何度も一緒に戦い、そしてたくさん笑い合った。
そう、いつもの素敵なトモさんの笑顔のはず……
なのに何故僕はこの時、トモさんの見せた笑顔が寂しそうに感じてしまったんだろう?