1. 彼女は僕をノラと呼ぶ
おこした火に掛けた鍋がコトコトと音を立て、同時に美味しそうな匂いを吐き出す頃、僕は濡れた手を拭き台所を離れる。窓から差し込む日差しは、もうそれなりに陽の高い事を示している。
台所を出た僕は、食台の向こう側の扉の前まで行き、ドアを軽く二、三度叩いた。
「お師さま、もうそろそろ朝食が出来ますから、顔を洗ってきてくださ〜い」
僕がそう言うと扉の向こうから「ん……あぁ〜い……」と、何とも間延びした小さな返事が返ってきた。しばらくして扉が開き、僕は絶句する。
「な、なな、なななな……っ!?」
綺麗な白銀髪には寝癖がつき、半開きで焦点の定まらない青い瞳と、ぷっくりとした柔らかそうな唇の端にはヨダレの痕……
まあ、此処まではいつも通り。しかし今朝はその首から下がヤバイ!
襟元がだぶだぶの上着は片方の肩下まで垂れ下がり、恐らく下着は着けていないだろう胸元は、その谷間をくっきりと望ませている。
が、決して巨乳では無く、それでいて小さすぎるというわけでは無く、ちゃんと谷間を形成してその正義を主張している。
ーーーーで、上着の裾下からは透き通る白い太ももが生えており、恐らくその上の三角地帯はショーツ、い、いちま……い!?
そんな彼女…… もとい、お師さまのあられもない艶姿に僕の頭は真っ白に、でもって逆に顔は耳まで真っ赤に染まっていた。
「ん…… ノラ…… おは…… んん……」
そんな片言の挨拶を残しつつ、僕の胸に額を押し付け、ズズズ……っと崩れ落ちつつ、再び睡魔に身を任せようとするお師さまを僕は慌てて抱きとめる。
(うっわぁ…… や、柔こい……!?)
抱きとめたお師さまの身体はフワッと…… いや、プニっ…… と言うかフニャと……
とにかく柔こい。抱きしめたらどんなにか心地良いだろうとか……
って、そんな不埒な事を考えている場合じゃ無い。僕は高名な賢者の如き鋼の自制心で未練たっぷりのお師さまの身体を引き剥がした。
「ちょ、まっ、お、お師さま、顔、顔洗って来てくださいよ。ご、ご飯ですよ、ゴ〜ハ〜ン〜っ!」
これ以上見ると、きっと目が潰れると思った僕は、無理やり天井に顔を向けてそう叫んだ。
「ん…… ふぁ……い」
お師さまはそう言うと、ヨタヨタとした足取りで流しの方へ歩いて行く。僕はそんなお師さまの後ろ姿を眺めつつ、相変わらずの寝起きの悪さに肩をすくめるが、しかし今日のはいつもより凄いと言うか、刺激的すぎて死にそうと言うか……
あ、よろけたっ! お、お師さま…… パ、パンツ見えちゃいますからっ!
思わず僕は目手で覆う。でも指の隙間からチラリと伺ってしまうのは仕方ないよな、実際。
この年頃の男の子相手に無防備過ぎる彼女は、僕のお師さま、名前はスノーと言う。ファーストネームもミドルネームもなく、ただ『スノー』との事。なんでも、彼女の故郷の言葉で『雪』という意味だそうだ。本当の名前は別にあるみたいだけど、「それは教えても意味が無いことだから」と教えてもらえなかった。いつかは教えてもらえる日が来ることを祈ろう。
って話が逸れた。こんな朝ボケをかましているが、彼女はそれはもう、頭に超が付くほどの凄い魔法を操る魔導師だ。
でもって僕は彼女の弟子、名前はノーラッド・トルマーニャと言うが、彼女は僕を『ノラ』と呼ぶ。一年ほど前、口減しで村を追い出され、森林をさまよった挙句に轟龍に襲われ、死に掛けていたところを彼女に救われた。その時ちょん切れた手足も魔法で治してもらって、そのまま弟子にしてもらったのだ。
お師さまがどれだけ凄い魔導師かと言うと、その前に魔法という物の事をちょっとだけ話そう。
魔法とは、通常の物理法則とは違った法則で事象を改変する力の事。通常の物理法則のみで生きる一般の人から見ればあり得ない現象、奇跡を引き起こす摩訶不思議な力の事で、それを操る存在を魔導師と呼ぶ。
魔法の種類はいろいろな系統に分かれており、更に系統ごとに何種類も存在し、その事象改変の大きさや範囲、行使の複雑さや用途、強弱等々により大きく一○段階のランク付けがされていて『魔法階位』で表される。
けど、現在世界でその行使が確認された最高階位はレベル六。それ以上は神話や、大昔の伝承などにその存在が示されている階位とされている。
ま、その階位がどんな魔法なのかは僕にはわからない。そもそもこうやってウンチクをのたまってる僕だって、この一年お師さまから教えて貰った知識で言ってるだけ。完全な受け売り状態だしね。
神話やお伽話にのみ登場する超高位魔法だけに、当然その存在を眉唾と思っている人も少なくない。けれど他の人と違って、僕はその存在を少しも疑ってはいない。なぜなら僕のお師さまはその超高位魔法…… もっともどの階位の魔法かまではわからないけど、少なくともレベル六以上の魔法を行使して僕を助けてくれたのだから。
ホント、お師さまは凄くて偉大な魔導師だ。しかも、ちょっと天然だけど超絶可愛い容姿を併せ持つ、まさに弟子自慢のお師さまなのです。
でもお師さまは、自らその超高位魔法をほとんど行使しない。僕が見たのも一年前に助けてもらった時に使った絶対冷却魔法の一回こっきりだ。
お師さまの話では、レベル一○の魔法まで使えるとの事だけど、そんな魔法が使えるなら、何処かの国に支えれば貴族の様な暮らしが出来ると思うんだけど、お師さまには興味が無いらしい。
お師さま曰く
「ワールドプログラムへの積極的な干渉に縛りがあるから……」
なのだそうです。
わーるどぷろぐ……ら……む?
う〜ん、何の事だかさっぱりわからない。
お師さまは時々、聞いたことも無い単語で、よく分からない事を言う。ま、萌え死ねるほど可愛いので何を仰っても基本オッケー。きっと難しい魔法研究か何かのお話しなんだろう……
あぁ…… 僕もいつかお師さまと対等にお話し出来る様になりたいなぁ。てか付き合いたいなぁ。
「顔を洗ったら取り敢えず何かに着替えて下さいね。その格好だと色々と困るので」
「……ん、りょーかい……」
僕の言葉に、未だに不明瞭な言葉で答えたお師さまは、バシャバシャと顔を洗い、子犬の様にブルブルと首を振っている。
いや、そこはタオルを使いましょうよ、お師さま……
◆◆◆◆◆
取り敢えずお師さまも着替えて席に着き、僕たちは朝食を取る。今朝は牛鹿肉と野菜のスープ。それと赤麦パンだ。うむ、我ながら中々美味しく出来た気がする。
「ふわぁぁぁ……」
お師さまは未だ眠そうだった。昨夜もかなり遅くまで何かやっていたみたいだから寝不足なんだろう。
「お師さま、昨夜はずいぶんと遅くまで起きてたみたいですけど…… ひょっとして魔法の研究か何かですかね?」
僕がそう尋ねるとお師さまは「魔法の研究……?」と呟きつつ僅かに首を傾げた?
「ううん、違うよ。不確定因子挿入時における可能性演算プログラムの動作確認…… いや、処理能力の検証かな。いくら高い次元で完成されつつあるって言っても、まだ実験段階である訳だから、色々と試してみないと……ね」
ーーーーうん、何のことやらさっぱりわからないや。そげな可愛く「……ね」と同意を求められても、コッチは引きつった笑いしか出て来ませんよ……
そんな僕を見ながら、お師さまはそう言ってスープを一口飲み、満足そうに「美味しい……」と呟いた。
「あ、あとノラ君の習得魔法階位についても色々と考察してみたよ」
「え? 僕の?」
お師さまの意外な言葉に僕はハッとなった。そ、そんな夜遅くまで僕の事を考えてくれるなんて…… ううっ、お師さまぁぁっ!
「うん、報告書作ってて考えが詰まっちゃったから、気分転換と言うか、ついでにね」
ああ、さいですか……
所詮気分転換のついでレベルな訳ですねほんとうにありがとうございました。少しだけ感激した二秒前の僕に肩を叩いてあげたい。
「ノラ君が一年経っても未だ第一階位、つまりレベル一の魔法しか習得出来ない件について、私なりに考察してみたの」
「あ、ああ…… はい」
「これはあくまで私なりの考えなのだけれど、恐らくノラ君はもうこれ以上レベルは上がらないと思うの」
「ーーーっ!?」
なん…… だっ…… て……っ!?
お師さまの言葉に、僕は思わず絶句してしまう。たぶん今の僕の顔は蒼白だろう。びっくりして立ち上がった足の膝が笑っている。
「そ、そんな…… お師さまは経験を積めば強い魔法が習得出来るって…… この一年、牛鹿や飢鬼をたくさん狩りましたよ? この前は炎猪も! なのに何故……!?」
「う〜ん…… 所詮アモーやコボルだものねぇ……」
お師さまはそう言って少し困った顔をしながら、小さくパンをかじった。
あ、あぁぁぁ……
あれに似た顔を見た事がある。口減らしで村を追い出される前日の、村長さんの、あの困った顔に似ている。
ぼ、僕は捨てられるのか……
そんな事を思って沈み込む僕に、お師さまは声をかけてきた。
「あっと…… ごめんね。言葉が足りなかった。『此処にいたら』ってつけるの忘れてたよ」
「……へ?」
「だからつまり、ノラ君自身、この辺りのフィールドレベルを超えちゃってるんじゃないかって事。だからこの辺りのしょぼい怪物をいくら狩っても、君の総合性能にはほとんど昇華されないんだと思うんだよ」
「それって……」
「私も自分の事が忙しかったからうっかりしてた。でもそうよね…… 一年もかけて、底辺クラスの化物狩り続けるなんて、普通やらないもの……」
お師さまはそう言って肩を竦めつつため息をついた。なんだかよく分からない単語がチラホラ出て来たけど、つまりはどういうことなんだ?
「もっと強力な化物を狩らないと、システムが『経験値』として評価しないんだと思う。ノラ君にはもっと大きな『試練』を乗り越える必要があるんだよ」
「な、なるほど……」
お師さまの言葉に僕はホッとしてヘナヘナと席に座った。そんな僕の姿を見ながら、お師さまはパンを齧りつつ首をかしげる。
「い、いやぁ…… 僕はもしかしたらお師さまにいらない弟子だと思われて、捨てられるんじゃないかって思って……」
僕がそう言うと、お師さまはキョトンとした顔をして、それからゆっくりと微笑んだ。
「馬鹿ねぇ。私がノラ君を捨てる訳ないじゃない。君みたいに超平凡なキャラはモデルケースとしては最適な素材なんだよ? 一年掛けて育てた素材をそう簡単に捨てるなんて勿体無いわ。まだまだ君には、システムとして検証しなければならない事が沢山あるの。だからノラ君、これからも私に付き合ってね」
「うぅっ、お、お師さまぁぁぁ……」
知らない単語だけど、何だかそこはかとなく、心の奥底を抉られるような感じがするのは気のせいだよねたぶん。
涙目で傍に縋り付く僕を、お師さまは「よしよし」と僕の栗毛を撫でてくれた。
やっぱりお師さまは優しい、可愛い、結婚したい。
「ーーーーというわけで、ノラ君、お引越ししよう!」
頭を撫でられる僕に、お師さまはニッコリ笑ってそう宣言した。