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ポケットマンスター  作者: キヨタカ
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第五章 ヌビジムのたたかい!

 小金井公園。

 東京都の四市に跨るほどの大きさを誇るこの都市公園は、毎日多くの人で賑わいを見せている。アスレチックで身体を動かす子供、広大な芝生でキャッチボールをしている親子、サイクリングロードで自転車を走らせる大人、テニスコートで遊びに興じる若者など、来る人も様々だ。

 ゲートボールで交流を暖めている老人達も、もちろんいる。

 そこに、亜衣が近付いてく。

「ねえねえ」

 右手にマンスターボール、左手に何かのケーブルをグルグルと回しながら、老人達に話しかける。

「私のポケットマンスターと、勝負しな~い?」

「あんただ~れ?」

 ベンチに座っている老人三人組は、突然現れた若い女にこれといった興味は示さなかった。やはり胸が原因か。

「……」

 だいたい、老人達がポケマンを持っているとも思えなかった。亜衣に言われたとおり木陰に隠れて見守っていたが、俺は飛び出して亜衣の肩を掴むと、

「あ~ん」

 謎リアクションをする亜衣を引きずってその場から退却した。



「う~ん、ポケマン持ってる人少ないね」

 公園内にある四阿の椅子に座り、亜衣は難しそうな顔で唇を尖らせる。

 テーブルの上には、マンスターボールが乗ってある。

 あの日――聖が俺を置き去りにした日、マンスターボールを拾ってくれたのが亜衣であった。マンスターボールは捨てた瞬間持ち主が拾った人間に移行する、かどうかはわからないが、とりあえず今の俺のトレーナーは亜衣という事になっている。俺の中では。

 で、少しでも戦闘の経験を積もうといろんな人間に勝負を申し込んでいるのだが、今日まで一度もポケマントレーナーに出会った事はない。

「勝負するって大変なんだね~」

 亜衣が頬をテーブルにくっつける。亜衣は関係ないにも関わらず俺の為に頑張ってくれている。ありがたい以外の言葉はなかった。

「ねえ、光宙くん」頬をテーブルに付けたまま、視線だけでこちらを見て、「あれから、聖ちゃんから連絡は来た?」

「……いいや」

 そもそも連絡先の交換すらしていない。

 聖がジム戦の試合を放棄した後、俺と亜衣で聖を探したが結局は見つからなかった。戻ってくるだろうと思って濡美ジムの前で待ったりもしたが、彼女が現れる事はなかった。

 俺は完全に捨てられたのだ。

「そんな顔しないで」

 亜衣が起き上がり、俺の手を握る。

「聖ちゃんはポケマンを捨てる子なんかじゃないよ。きっとあの時は混乱して、光宙くんを忘れちゃっただけだと思う」

 忘れられたというのも結構ショックなんだが。

「絶対光宙くんを取り戻しに戻ってくるって」

「……そうかな」

「そうだよっ。それに……」

 亜衣がそこで言葉を切り、なぜかもじもじとし始める。

 頬も赤くなっている。

「亜衣ちゃん?」

「それに……」不思議がる俺に熱い視線を向けてくる。「もし、万が一聖ちゃんが本当に捨てちゃったんだとしても、私が代わりに光宙くんのトレーナーになるから。ううん、トレーナーになれなくても私……」

「亜衣ちゃん……」

 亜衣は真剣だ。俺に気を使ってくれてるわけではなさそうだ。それに、彼女の言葉には何か別の意味がある気もする。それがなんのものであるか、俺にはまだちゃんとわからないけれど。

「私!」

 やがて、亜衣が意を決したように声を上げた。

「一生、光宙くんの」


「お二人さん、邪魔するぜェー!?」


 突如。

 俺達の前に、ある人物が出現した。

 あえて隠す必要もないだろう。

「……岩瀬久男」

 先日初めて知った名を、俺は呟く。

 濡美ジムで対戦するまで、目の前の男は俺にとってあくまで「ポケマンになる前に喧嘩した岩のような男」という認識でしかなかった。

「なんだなんだ、湿気た面してんなァー!?」

 相変らずイントネーションがおかしい。孤威禁愚の小石のそれよりも更に一段階変だなと心の中で笑ったところで、俺は質問したい事を思い出す。

「なあ、岩瀬」

「なんだァー!?」

 俺は岩瀬久男に孤威禁愚の連中と戦った事とその経緯を説明した。岩瀬久男にとって孤威禁愚は舎弟という事らしい。だがあの場に岩瀬久男の姿はなかったし、それどころか孤威禁愚の連中も話題にすら出さなかった。その事が俺にはどうしても気になっていたのだ。

「なるほどなァー!?……」

 岩瀬久男は俺の話を聞き終えると、潰れた学生帽を目深に被って押し黙る。まずい事を聞きましたという雰囲気だ。やはり何かあったのだろうか。そうとしか思えない。

「言いたくないんなら、別に」

 日和った俺を岩瀬久男が手で制す。

「なに、馬鹿な話さ」

 あれ、普通に喋ってる。

「俺が全員破門しちまったのさ」

「破門?」

 亜衣も話に乗っかってくる。口調は置いておいて、今は岩瀬久男の話を聞こうと思う。

「あいつらは元々、俺の率いる威倭悪の構成員だった。だが俺はタケシマのポケマンになり、長ではいられなくなった。だからあいつらと袂を分かった。それだけさ」

「……」

 少しの間続きを待ったが、それ以上は話さないつもりらしい。そのまま黙ってしまう。彼にとってはあまり穿り返してほしくない過去なのかもしれないし、本当にこれだけなのかもしれない。

 ならばとばかりに、質問を変える。

「……岩瀬はずっとポケマンだったんよな?」

 当たり前だとばかりに睨みつけてくる。少しビビるがどうしても確かめておきたい事だった。

 俺はポケマンになる前、二度ポケマンと対決している。一回目は孤威禁愚の面々。二回目は岩瀬久男とだ。

 だが一回目と二回目では決定的な違いがある。

「お前にやられた時は脱糞しなかった」

 そう。

 ポケマン同士が戦えば、男ならば負けた時必ず脱糞してしまうはずだ。もう脱糞が普通になってしまっている事実がとても哀しいが、今はそんな事を言っている場合ではない。

 岩瀬久男と戦った時、俺は負けた。確実に負けた。

 だが保健室で目を覚ました時、俺は脱糞していなかった。

 という事は、負けても脱糞を免れる方法が何かあるのではないだろうか。

「ん?」

 しかし、岩瀬久男は怪訝な顔をし、

「お前を倒した後、俺が確かめた時には脱糞してたぜ?」

「……え?」

 予想外の返事が返ってくる。

「でも俺、起きた時には脱糞してなかったぞ」

「そんなの知るか」

 確かに岩瀬久男にしてみたらそうだろうが俺にとっては重要だ。俺はあの日の記憶を呼び覚ます。保健室で起きた時、尻に違和感を覚えた記憶はない。匂いだってするはずなのに、あの時臭いと感じた覚えもない。つまり岩瀬久男の見間違いだったという可能性もある。

 それにあの時保健室にいたのは俺だけではない。

「ねえ亜衣ちゃん」

 俺は彼女に確認する為顔を向け、

「……亜衣ちゃん?」


 顔を真っ赤にし、目を逸らしている亜衣を見た。


「……」

 そういえば。

 帰って着替えた時、履いていたトランクスがやたら新品っぽかった。

 まるでその日買ってきたような代物だった。

「……」

 俺はすべてを察した。

「それじゃあ……二人とも、行くぜェー!?」

 岩瀬久男が口調を戻す。テンション計りづらいからやめてほしいんだが。

「……てかどこにだ」

「決まってるだろォー!?」

 岩瀬久男が言う。

「濡美よ」



 最寄の駅から群馬にある濡美まで、鈍行電車で二時間半もかかった。埼玉を跨ぐのだから時間かかるのは当然だが、毎日マンスターボールで瞬間移動していた身としては余計長く感じる。

「電車の旅も結構楽しいよ?」

 楽しげに笑う亜衣は毎日のように電車で俺達のいる場所まで来てくれたのだと思うと、そんな事も言えなくなる。

 ちなみに電車の料金は岩瀬久男がすべて払ってくれた。助かる。

「……」

 電車を降り、俺達を連れどこかへ向かっている岩瀬久男の背中を眺めていると、どうしてもこの間の事を思い出してしまう。


 数日前、俺は岩瀬久男に負けた。

 完敗だったと言っていい。

 今思うと、俺達は甘っちょろい考え方をしていたんだと思う。孤威禁愚を倒し、更には蒼が既に濡美ジムのリーダーを倒していると知り、では俺達も、という空気に知らず知らずのうちになってしまっていたのかもしれない。

「お前が濡美ジムのリーダー、タケシマだな?」

 ジムに入った直後の聖は自信に満ち溢れていた。とても十数分後に俺を置き去りにして逃げ出すとは思えなかった。

「いかにも俺がこのジムのリーダー、タケシマだ」

 現れたタケシマはやはり上半身裸であった。そこらへんも油断するポイントの一つになっていたのかもしれない。

「悪いがタケシマ、ジムバッジをサクッといただきに来たぜ」

「ほう」

 タケシマは聖ではなく俺を見ていた。そして、余裕の表情を見せていた。この時気付くべき立ったのかもしれない。

 奴は俺達にある何らかの欠陥を見抜いていたのだ。

「行け、火影!」

 例によって例の如くマンスターボールから出ている俺が最初に戦闘に借り出される事はなかった。聖の中でエースポジションは火影なのだろう。

「では俺も出そう」

 タケシマがマンスターボールを軽く放る。すると煙とともに現れたのは……こんな形で引っ張っても、もうわかっているとは思うが……。

「……お前は」

 現れたのは、もちろん。

「おう、久し振りだなァー!?」

 岩瀬久男だった。

 この時は名前を知らなかったが。

「俺の名前は岩瀬久男」この時知った。「タケシマのポケマンになった男だ、よろしくなァー!?」

「……はあ」

 まあこの下りはどうでもいい。

「挑戦者よ」

 ジムの中は何個かの大きな岩が点在していて、その一つにタケシマは上がっていた。

「久男を倒せば、ジムバッジをお前に授けよう。ただし久男の前にお前の持ちポケマンが全員倒れた場合はお前の負け。それでいいな?」

「赤田聖」自信を漲らせた顔で聖は言う。「お前を倒す女の名だ、覚えときな!」

「俺に勝った時、その名を覚えよう」

 タケシマの細い目では彼が何を考えているのかわからない。

「望むところだ! 火影!」

 聖に名を呼ばれ、火影が音もなく走り出す。

 目的地は岩瀬久男だ。

「大文字攻撃だ!」

「了解」

 火影は走りながら岩瀬久男に向かって手をかざす。手のひらからはすぐに炎が噴出して、

「――覇ッ!」

 岩瀬久男の目の前で、炎をぶっ放す!

「決まった!」

 俺は思わず叫ぶ。岩瀬久男はなぜか一歩も動かなかった。技を繰り出そうとする火影に対して避けようともしなかった。真正面から大文字を受けたわけだ。ダメージを受けていないはずがない。

 だが同時に既視感も覚えていた。

 この光景、相手は違えど見た事がある。

 それに、ダメージを受けるなら避けるはずだ。

「……フハハ」

 炎の中にいるはずの岩瀬久男は笑った。

「温いわァー!?」

 そして両腕で炎を払いのける。

 その分厚い胸板にも、丸太のような腕にも、こげ一つ付いていない。

「……やはりそうか」

 既視感の原因は、この間の火影対かめる戦にある。蒼が初めて俺の前に現れた日、火影が同じように大文字攻撃をかめるに浴びせた。だがかめるは傷を負うことなく、逆に火影を追い詰めた。

 その時と同じ事が起こったのだ。

「て事は、奴はかめると同じ水属性なのか?」

 聖が呟くがそんな感じにも見えない。

「違うよっ」観客席から亜衣も精一杯声を張り上げる。「岩瀬さんの属性は……」

「今度は俺から行くぞォー!?」

 亜衣の声を岩瀬久男が掻き消す。

「火影避けろッ!」

 聖が火影に指示を送るのに対し、タケシマは命令を出さず黙って腕を組んでいる。その様は実に不気味だが今は火影が心配である。

「check it out!」

 岩瀬久男が何事か言いながら火影に突進する。これはおそらく体当たりだろう。身体全体で向かっていくその姿はまるでトラックだ。食らったら一溜まりもないだろう。火影は聖の指示通り横っ飛びで避ける。その僅か数十㎝横を岩瀬久男が通過する。そのまま岩にでもぶち当たり粉々に壊して破壊力を見せつけるのかと思ったが、意外にも火影が避けた後すぐに足を停止させた。

 すぐにこちらへ向き直る。

 彼はまだ戦闘体勢を保ったままだ。

「火影! メガトンパンチ攻撃!」

 聖が炎系以外の攻撃を命令する。岩瀬久男に炎が通じないのは誰の目にも明らかだ。ならばそれ以外の技で攻める他ない。

 一方の岩瀬久男もこちらへと突進してくる。またもや体当たりだろうか。同じ技だが火影が向かってくるのを観察しての判断だろうか。

 しかしこの勝負ならば火影に多少の分があるはずだ。岩瀬久男が身体ごと向かってくるのに対して、火影はパンチを繰り出そうとしてる。腕一本分のリーチが火影にはある。このまま両者がぶつかれば、先に攻撃を与えられるのは火影のはずだ。

「覇ッ!」

 俺の予想通り、先にダメージを受けたのは岩瀬久男だった。

「ぬうゥー!?」

 突撃していった両者。岩瀬久男の体当たりは、火影のパンチによって防がれた。彼女の拳が彼の頬にめり込んでいる。この攻撃はさすがに効いている様子だ。

「よし」

 聖がガッツポーズをする。もちろんこれだけでは倒せないだろうが、手応えを掴んだのも事実だ。岩瀬久男を倒し、ジムバッジを貰えるキッカケを手に入れた。

 そう、俺も思っていた。

「油断しないでっ」

 ただ一人、亜衣だけが岩瀬久男の実力をわかっていたのだろう。

 なぜかはわからないが。

「イワー……くしゅん! 岩瀬さんの防御力は相当高いはずだよっ」

 防御力。

 その意味は、すぐにわかる。

「……フハハ」

 岩瀬久男は笑っていた。

 殴られながら、笑っていた。

「久男」この時初めて、タケシマが指示を出す。「締めつけろ」

「わかったぜェー!?」

「火影ッ」

 逃げろと聖は言いたかったのだろう。

 だが既に遅かった。

 岩瀬久男は両腕で火影の胴をガッチリと掴むと、

「check it out!」


 腰を折らんばかりに締め上げる!


「――!」

 火影が声にならない叫びを上げる。逃げようにも岩瀬久男の腕が彼女を離さない。火影は岩瀬久男の腕の中で身体をエビ反りにしている。それほど締め上げる力が凄まじいのだろう。

「……」

 パンチを食らっても、技を防がれても、平気で自分のペースで進行する。俺はこの時、岩瀬久男に恐怖に似た何かを感じていた。ポケマンになる前、一度戦った時は瞬殺された為何も感じる事なく終わったが、傍から見ていた方がよりリアルに恐怖が伝わる。

 これから俺はこいつと戦わねばならぬのだ。

 そう考えると、俺は岩瀬久男を直視する事ができなかった。

 俺が彼に打ちのめされ、聖に捨てられたのは、この十数分後の事であった。


「……」

 俺は岩瀬久男の背中を眺めている。

 数日前、俺を痛めつけた男の背中を。

「それで岩瀬さん」声をかけたのは亜衣だった。「これからどこに行くの?」

「着いてくればわかるぜェー!?」

 岩瀬久男は教える気がないようだ。こんな遠いところまで来させといていい気なものだ。だが何の理由もなく自腹を切って俺達と一緒に濡美まで来るというのもまたおかしい。

 進路的には濡美ジムへ行っているわけでもなさそうだ。

 この男は一体何を考えているのか。

「時に光宙よ」いきなり岩瀬久男の口調が普通になる。「貴様の主に、あの時何を感じた?」

「……えっと」

 質問の意味がよくわからない。おそらく聖が逃げ出した時の事を言っているんだろうと思うが、何を感じたかと言われれば、ショックだったとしか言い様がないが。

「そうじゃない」

 岩瀬久男はまるで俺の思考を読んだかのように。

「貴様はあの時、主に戦う覚悟を感じていたかと聞いているのだ」

 戦う覚悟。

「そして、守る覚悟だ」

 守る覚悟。

「もちろんあったよっ」

 亜衣が答える。頬がなぜか不機嫌そうに膨らんでいる。

「聖ちゃんはね、そんな弱い子じゃないの。逃げ出しちゃったのだってたまたまだよ。ジムリーダーだかなんだか知らないけど、あなたにそこまで言う権利あるのっ?」

 何か怒っている。俺には亜衣の気持ちも、岩瀬久男の気持ちもわからない。覚悟の有無がそんなに大事な事だろうか。あの時俺達は戦った。負けて、聖は逃げ出した。ただそれだけだ。そこにそんな深い意味なんてものはない。はずだ。

「誰かと戦うというのはそういう事だろう」

 岩瀬久男はこちらを振り向かず、ただ淡々と話す。

「しかもタケシマはジムバッジを賭けて戦っていた。ジムバッジとはリーダーの命であり、プライドの形だ。勝ち負けは関係ない。全力で戦い、負けるならそれもまた良し。前のめりに倒れたならば本望。それは挑戦者もまた然りであろう」

 そうなのか?

「それは……そうかもしれないけど」

 亜衣は納得しているようだった。この二人で会話が通じ合っている。一番の当事者であるはずの俺だけが理解できてない気がする。

「逃げ出すというのは覚悟なき証。例えたまたまであろうと、その一度の偶然を大事な局面で引き起こすようでは笑止千万。戦う者として失格と言わざるを得ん」

 岩瀬久男が聖に厳しい言葉を浴びせているのはわかる。小学生相手にそれは少し厳しすぎるのではないかという気もする。

「そ、それならっ」亜衣はなおも食い下がる。「タケシマさんには、その覚悟があると言うの?」

「ある」

 岩瀬久男は断言する。

「タケシマには戦う覚悟も、守る覚悟もある。奴にはその覚悟を守り抜く理由もある。光宙の主とは背負っているものが違うのだ」

「……それを今から見せてくれるというのですね」

 要するにそういう事だろう。

 でなければここでこんな話をするはずがない。タケシマの覚悟とやらを見せつけた後、何を言いたいのかはまだわからないが。

「見せてもらおうじゃないのさっ」

 亜衣は両手を腰につけ頬を膨らましてプンプン怒ってる。彼女は自分の友人である聖を馬鹿にされた事に本気で腹を立てているのだ。亜衣はそういう人間なのだ。

「フフッ」

 その様子を見て、岩瀬久男が笑う。決して馬鹿にしていない、微笑ましいものを見るかのような声。

「もうすぐだ。ほれ」

 そして岩瀬久男はある方向を指差す。

 指を差した方向にあったのは、一軒の民家だった。民家というよりは平屋と表現した方が正しいか。建築されてからそうとう建っているのがわかるくらいには古い概観で、屋根なのはトタンで出来ている。今時東京では見る事のない家であった。

「……ここに何が?」

 近付いてみると、表札にはこう書かれていた。

 タケシマ。

「ジムリーダーの家?」

 亜衣が怒るのも忘れて首を傾げる。気持ちはまあわかる。ジムリーダーなら、もう少しマシな家に住んでいると思うのが普通だろう。ジムリーダーという職業がどれだけ稼げるのか知らないが。

「こっちだ。来い」

 家の中に入るのかと思ったら、岩瀬久男は裏庭に回り込む。思わず亜衣と顔を見合わせる。勝手に他人の裏庭に入っていいのだろうか。だが行くしかない。

「……」

 知らず知らずのうちに忍び足になる。なんだか悪い事をしている気分である。岩瀬久男が窓の前でしゃがみ込み、手招きをしている。いよいよ犯罪っぽい。それでも俺と亜衣は彼の元へと忍び寄り、促されるままに、窓から部屋の中を覗き込んだ。

 そこにはタケシマがいた。


 十七人の子供もいた。


「……なんじゃありゃ」

 口から声が漏れる。狭い部屋の中に子供がうじゃうじゃといれば、声を抑える事など難しい。

 小さい子供達は固まって絵描きをして遊んでいる。小学生くらいの男子三人は狭い部屋の中を騒がしく駆け回り俺と同い年くらいの女の子はそれを諌めている。他の子もそれぞれ好き勝手な事をしていて、部屋の中からいろんな声が聞こえるが、一斉に喋っている為聞き取りにくい。非常にカオスな空間だった。

 そしてタケシマはというと――料理をしていた。

 ジムであった時と同じく上半身裸であったが、どうやらエプロンをかけているようだ。これが本当の裸エプロン。自分の発想で危うく死にそうになる。なぜ俺はそんな事を思ってしまったのか。今後裸エプロンを見る度にタケシマの姿を思い出してしまうだろう。俺は絶望する。

 だが今はそんな事などどうだっていい。

「昼飯できたぞ~」

「「「「「「「「「「「「「「「「「わぁ~い」」」」」」」」」」」」」」」」」

 十七人分の声が重なる。ある者は食器を並べ、ある者は部屋の中を片付け、ある者はスプーンとフォークを持ってテーブルに陣取る。食べる場所すらそんなになさそうな空間で、タケシマと十七人の子供達は分かち合って座っていた。

「……」

 俺は困惑している。

 一体何の集まりなんだ。

 十八人の子供達が一つの空間にいるなんて、学校でもない限り異常だ。

「異常ではない」

 岩瀬久男がまた俺の思考を読み取る。

「あいつらは皆兄弟だ」

 兄弟。

「……マジで」

 十八人兄弟って。今時アフリカでもそんなに子供を作らないだろう。

 だが言われてみると十七人の子供はタケシマとどことなく雰囲気が似ている。目の細さとか。数はともかく、兄弟であると言われてからだとなんとなく納得できなくもない。

「タケシマのご両親は共働きでな、長男のアイツが下の子供達の面倒を見てやっているんだ」

 まあ、十八人も子供を作ったら面倒を見る暇もなかろう。

「タケシマもジムリーダーとしての稼ぎを全額家に納めてる。外では一切口に出さないけどな」

「ひっく……ひっく……」

「……亜衣ちゃん?」

 変な声が聞こえ視線を向けてみると、亜衣が泣いていた。涙を流し、鼻水まで垂らして嗚咽を漏らしている。

「だいべんだっだんだねぇ~」

「……」

 泣くような場面があったかどうかは別にして、亜衣はタケシマ兄弟に相当感情移入してしまってるようだった。確かに十七人もの弟や妹達を一人で世話しているのには同情しなくもないけれども。

「これがタケシマが戦う理由」岩瀬久男が静かに言う。「そしてその覚悟だ」

 タケシマは弟や妹、両親を支える為に戦っているというわけだ。

 それは、覚悟を持ってやらねば到底成り立つものではないだろう。それくらいはわかる。

「タケシマにあって、貴様の主にはないものだ」

「……」

 そう言われてしまっては、反論の言葉もない。

 亜衣も鼻をかむのに忙しくて何も言ってくれないし、完全に黙らされてしまった形になっている。しょうがないなという気持ちと、でも何か言ってやりたい気持ちが心の中で戦っているが、そうしているうちに機会を逃してしまう。

 岩瀬久男が俺に何かを手渡す。

 一万円札だ。

「これで帰れ」

「……あんたは?」

 そう尋ねるのと、岩瀬久男が立ち上がるのはほぼ同じタイミングだった。

「俺は……少し、用があるんでな」

 ポケットに手を突っ込み、歩き出す。かといって立ち去るというわけでもなく、姿が見えなくなったかと思うと玄関がガラガラと開く音がして、

「貴様らァー!?」タケシマの部屋の中に、岩瀬久男は現れたのだった。「この俺が遊びに来てやったぜェー!?」

「「「「「「「「「「「「「「「「「わぁ~、お兄ちゃんだ~っ」」」」」」」」」」」」」」」」」

 タケシマ家がまた一段と騒々しくなる。まるで遊園地のように、何もないタケシマ家の中が輝いて見えた。

 俺と亜衣は、取り残されたような気分だ。

「……帰ろうか」

「うん……」

 俺達は、帰りの電車の中で一言も喋る事がなかった。



『暑中見舞い申し上げます

 猛暑が続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。

 私はあの日の翌日からジム戦対策も兼ねて、近所の草むらで野良ポケマン狩りを始めました。ようやく勝負のいろはがわかり、敗北した時用に辞世の句を新調したところです。

 昨年にも増して暑さが厳しく感じられます。お体を大切にお過ごしください。

 炎暑酷暑のみぎり、光宙様のご健勝とご自愛をお祈り申し上げます。

平成二十六年 紀谷端とら』


「……なんだこれ」

 朝である。起きて、母親に促されるがままに新聞を取りに来たところでこの手紙を発見した。

 どうやらとらが俺に寄越した暑中見舞いであるらしい。こんなもの貰った経験がないのでよくわからないが、なんとも物騒な事がさらりと書いてあるのは理解できる。

「とらさんは律儀だね~」

 物珍しさで、一時間後に俺の家へ遊びに来た亜衣に暑中見舞いを見せるとこんな反応が返ってきた。確かに律儀な性格なのかもしれない。

「でも凄いね」何が? と聞く前に亜衣が続ける。「とらさん、あれから毎日自分磨きしてるんだ。一人でなんてなかなかできる事じゃないよ」

「……」

 亜衣の言うとおりだ。

 俺も亜衣と一緒に誰かと戦おうとしているが、やはりまだ対戦すらできていない。

 今までは誰かに対戦を吹っかけられるか聖がグイグイ引っ張ってくれたので戦う事ができていたが、ほわんほわんした亜衣とビビりな俺では、対戦相手を見つける事すら難しい。

 というより、岩瀬久男にタケシマ十八兄弟を見せられたあの日から、対戦申し込みすらできていないのが現状だ。

 その点とらは尊敬できる。弱気そうな外見をしているのにも関わらず、積極的に勝負を申し込んでいるというのだから。

「私達も頑張らなきゃねっ」

 そう言って亜衣は笑うが、俺はうまく笑う事ができない。

 聖同様、もしくは彼女よりもずっと、俺も覚悟が足りていなかったのかもしれない。

 とらの方が俺よりもずっとずっと痛めつけられ、辱められたというのに、とらは前を向いて努力していて、俺は何もしていない。男として情けない話である。

「それでねそれでねっ」

 亜衣は瞳を輝かせ、俺にグイッと顔を近付ける。

「思いついたのっ」

「……何を?」

 用もないのに亜衣が俺の家に来るのはいつもの事だが、今回はちゃんとした理由があるようだった。少しだけ興味をそそられる。

 亜衣は言った。


「光宙くんが岩瀬さんを倒す方法っ」


「……なんだって?」

 どういう反応したらいいかわからない。

 俺が岩瀬久男を倒す方法だって?

「その前に」亜衣が一拍置いて「この間、なんで岩瀬さんに勝てなかったかわかる?」

「それは……相性だろ?」

 そのくらいは俺にもわかる。あの時、火影の炎系の技が岩瀬久男には通用しなかった。

 それどころか、俺の電気技も。

「ジム戦でもそうだったけど、以前学校の前で対決した時も、岩瀬さんは電気ショックを受け止めていたよね」

 亜衣の指摘通り、岩瀬久男に電気技が効かなかったのはこの間が初めてではない。ポケマンになる前、まだ普通の人間だと思っていた頃の岩瀬久男も、俺の電気ショックを胸に受けてもけろりとしていた。

 要するに、相性。

 俺の電気技も火影の炎技も、岩瀬久男には効果がなかったのだ。

「岩瀬さんの使用する技のタイプは火影ちゃんの炎系ととらさんの虫系に強い。一方で光宙くん電気系、火影ちゃんの炎系の技は通用しない」

 相性悪いもいいところだ。

 だがそんな岩瀬久男のポケマンのタイプとは一体なんなのか。

 その疑問は、すぐに亜衣が解消してくれた。

「岩瀬さんは――岩タイプなの」

「……岩」

 見た目どおりである。それ以外はなかろうと言うほどピッタリだ。

 納得している間にも、亜衣の話は続く。

「ポケマンは相性勝負。相性がすべてを左右する。そんな中で、聖ちゃんは岩タイプと相性の悪いポケマンばかりを集めてしまった。相性というものを知らなかったみたいだからしょうがないんだけどね」

 ポケマントレーナーの聖が知らなくて、部外者の亜衣が詳しいというのもおかしな話である。

「だから、私は今まで考えてた」亜衣の瞳がまたもやキラキラ輝きを帯び始める。「形成を逆転するには、岩瀬さんが苦手なタイプを覚えればいい。だけど、電気や炎や虫タイプがそういう技を覚えるのは難しい」

 でもね、と亜衣は続ける。

「一つだけあったんだよ、光宙くんが覚えられる水タイプの技がっ」

「……」

 電気タイプの俺が覚えられる水タイプの技。

 確かに水タイプの技を覚えられれば、岩瀬久男には有効になるかもしれない。

「それでね、その技というのが……」

 亜衣が袈裟懸けにしていた小さなポーチから何かを取り出そうとする。

 その動作を、俺は制した。

「……いいよ、もう」

「え?」

 亜衣が虚を突かれたという風に動きを止める。

「何がいいの? 岩瀬さんを倒せる唯一の方法、見つけてきたんだよ?」

 きっと一生懸命探してくれたんだろう。亜衣の献身的な行動には毎度頭が下がる思いだ。無碍にしたくないという気持ちもある。

 だが。

「……俺にはもう無理だよ」

 本音を口にする。

「無理って……?」

 だんだんと顔を曇らせていく亜衣に、俺は言う。

「……俺にはもう、岩瀬達と同じフィールドに立つ資格がないんだよ。聖に戦う覚悟がないんなら、俺も同じなんだ」

 タケシマの十八兄弟を見てからずっと感じていた事だ。

 もしかしたら、聖に捨てられた瞬間から思っていたのかもしれない。

「岩瀬や、火影、とら、かめる、鳩山や孤威禁愚なんかも、ポケマンとして戦う覚悟がある。負けても、それをバネに努力して再挑戦しようという気概を持ってる。でも俺にはそれがない。もう諦めちゃってるんだよ。ポケマンとして戦う覚悟も、理由もないんだよ俺は!」

 俺はこれまで、ただ巻き込まれるばかりに身を任せ、自分では動こうとしてこなかった。受動的ポケマン、それが俺だ。俺には戦う理由がない。何かを守りたいという気持ちもない。すべてがないのだ。

 そんな俺が、あいつらと肩を並べる資格が果たしてあるのか。

「だから俺は――」

 諦める。

 そう口にしようとした、その瞬間だった。

 頬に軽い衝撃が走ったのは。


 亜衣が俺に平手打ちをしたのだ。


「……」

 俺が何も言えなかったのは、平手打ちがあまりに突然の事だったというのもあるが、それともう一つ。

 亜衣の瞳から、雫が流れ落ちていた。

 ぽろぽろと、小さな涙の粒が、頬に零れ、伝っていた。

「……ばか」

 亜衣の口から、小さい声が漏れる。

「ばか、ばか、ばかばかばかばかっ。光宙くんのばかやろうっ」

「……亜衣ちゃん」

 こんな亜衣を、俺は今まで一度も見た事がない。弱々しいとはいえ、彼女が暴力を振るうなんて予想だにもしていなかったし、俺の言葉で泣かせてしまったのもショックである。

「光宙くん」

 亜衣がキッと眉を吊り上げる。

 何かを言おうとしているのはわかるが、俺はもう、彼女の平手打ちで、目を覚ましている。

「いつもいつでもうまく行くなんて保障はどこにもないんだよっ!?」

「……そうだね」

 正直よくわからなかったが、亜衣の言葉なら素直に受け取れる気がした。彼女を泣かせてしまうなんて、自分はなんて愚かだったのだろうと思う。

 彼女はどんな時も俺を支え、応援してくれた。

 その気持ちに応えなければ男ではない。

 亜衣の暖かな手のひらが、そっと俺の頬を撫でる。

「それでも、光宙くんはいつでもいつも本気で生きている。私知ってるよ」

「……ああ」

 その通りだ。

 亜衣が言うのなら。

「やろう、亜衣ちゃん」俺は言う。「教えてくれ、岩瀬を倒す必勝法ってヤツをさ」

 心を決める。

 俺は絶対、岩瀬久男を倒す。

「うんっ」

 亜衣はにっこりと、向日葵のような笑顔を見せてくれる。それだけで俺の心も晴れる。だが俺の事など今はどうでもいい。亜衣がポーチから一枚のカードを取り出す。

「これなんだけど」

「……これ?」

 金色のカードだった。ところどころにひらがなと謎のマークがあり、カードの丈夫には青空をバッグにピンク色のサーフボードに乗った黄色い生物の絵が描かれている。

「これが、光宙くんが岩瀬さんを倒すたった一つの方法」

 カードの中央には、ひらがな四文字でこう記されてある。


 なみのり。


「さあ、行こう」

 文字をまじまじと見つめていると、亜衣が俺の手を引っ張ってグイグイ歩き出す。

「行くってどこに?」

 今からこの技を習得しに行こうというのか。それは別にいいが、カナヅチなのであまり良くはないが、しかしこれをどこで覚えればいいのか。東京北部の俺の街には当然海がない。と言って市民プールではサーフィンなどする事はできないだろう。というかそもそもサーフボードがない。本当にどこへ行こうとしているのか。

 その疑問を、亜衣が一言で解消してくれた。

「三更だよっ」



 三更。

 聖の地元であるという以外まったく知らない街だったが、亜衣に連れられるまま電車に乗ると、まず新宿に出て、そこから品川まで行き、熱海行きに乗り換え、神奈川の端まで電車に揺られた末にやっと辿り着く場所であった。下手したら濡美よりも時間かかった気がする。まだ午前中ではあるけれども。

「……おお」

 だがそんな思いも、駅から一歩出た瞬間に忘れてしまった。


 視界に太平洋の海が広がっていた。


「……海だ」

 東京北部の街で生まれ育ち、なおかつカナヅチであった俺には、縁遠い存在。それが海。

 その海が今、俺の前に実在している。

 これが興奮せずにいられるだろうか。

 答えは、否である。

「海だあーっ!」

 思わず海へ向かって駆け出す。言っても視界に見えるくらいの距離なので、実際行こうとしたら走っても十五分くらいはかかりそうだが、それでも俺は衝動を抑えられる事ができなかった。自分が泳げない事も忘れていた。まあ泳がなければいいだけの話だ。それに普通の人間で十五分だから電工石火で駆け抜ければ余裕余裕。

 と思っていた矢先に首根っこを捕まえられる。

「海にはもちろん行くけど」掴んでいるのはもちろん亜衣で、「その前に、行く所があるの」

「……行く所?」

 どこだろう。貸しサーフボード屋だろうか。でもそれこそ浜辺にありそうなものだが。

「こっちこっち」

 首を捕まれるままに、俺は移動する。今すぐにでも浜辺ではしゃぎたいくらいだが、亜衣の意見は尊重すべきなので文句は言わない。

 そもそもここに連れてきたのは彼女なのだ。

 そして、ここは聖の地元。

 連れて行く場所など一つしかない。

「……ここか」

 目的地には十分で辿り着いた。

 民家の前で、俺は表札を眺めている。

 そこには確かに、『赤田』と書かれている。

「聖ちゃんのお家だよっ」

「……なんで知ってんの」

 と聞いてみるがそれが意味のない質問であるという事もわかっている。一介の女子中学生である亜衣が個人情報を勝手に調べられるわけもない。きっと誰かに聞いたのだろう。

「火影ちゃんが教えてくれたんだ~」

 その答えは意外だった。火影が知っているという事はただの主従関係よりもっと深い間柄というわけだ。俺が初めて出会った時には既に信頼関係ができあがっていたように見えたから、もしかすると幼なじみか何かなのかもしれない。

「……」

 しかし、聖の家を訪ねたという事は。

 彼女がここにいる可能性があるという事だろうか。

「じゃあ押すね」

 そんな俺の逡巡も関係なく、亜衣がサクッとインターホンを押す。自然と身体が緊張する。もし聖が出てきたのならば、あの日以来の再会だ。どんな顔をして会えばいいのかわからない。俺は捨てられた側だから萎縮する必要がないといえばないのだが、それでも手のひらに汗をかき、心臓の鼓動が早くなる。ゴクリと唾を飲み込む。正直言おう、怖い。

 それでも時は待ってくれない。

 ドアの鍵が解除される音がする。

 そして、ドアがゆっくりと開かれ、

 家の中から現れたのは――。

「……え?」

 少なくとも聖ではなかった。

「光宙。亜衣」


 聖の家から現れたのは、火影であった。


「火影ちゃん、久し振り~っ」

 亜衣はわかっていたのか、動じる事なく元気に手を振っている。

 俺はといえば、状況に着いていけていない。

「……えっと、なんで?」

 目の前にいるのは、どこからどう見ても火影だった。赤毛に、ポニーテール。その先端に炎。見蕩れるほどの美貌。

「なんでって」ポーカーフェイスなのも本物ポイント高い。「ここ、自宅だから」

 自宅。

 ここは自分のお家ですよと火影は言っているのだ。

「……なんで?」

 もう一度表札を確認する。やはり『赤田』と書かれてある。ここが赤田家なのは間違いがない。という事はあれか、三更は赤田姓が異常に多かったりするのか?

「やだな~光宙くん」

 亜衣が俺の肩をポンポンと叩き、

「ここは聖ちゃんの家だし、火影ちゃんの家でもあるんだよ?」

「……つまりどういう事?」

 不意に過去の記憶がフラッシュバックする。

 火影と小金井公園で話した時の記憶。

 あの時の火影の言葉。


――私は、聖の


「……」

 一回、とらの家で聞こうとして逃してしまったが、今、答えはもうそこに出ているも同然だった。

 常識で考えれば答えは一つ。

 火影は――聖の姉なのだ。

「火影ちゃんはね、なんとっ」

 俺の中では答えが出たが、亜衣は何やら人差し指を立て、得意顔で俺に教えようとしている。そんな表情をされてはとてもじゃないがもうわかってしまったなんて言えない。必死にわかっていないような顔をする。驚く準備もする。人生には時に優しい嘘が必要なのだ。

 そして、嘘リアクションをする瞬間がやってくる。


「聖ちゃんの――妹なんだ~っ」


「マジでッ!?」

 目を見開いて俺は驚く。少し過剰だったかもしれないがうまく反応できたように思う。少なくとも亜衣をガッカリさせたりはしないだろう。まあ火影が聖の姉と気付いて驚いたのは確かだし、嘘の中にも真実は含まれている。しかしまさか火影が聖の姉だったなんてなあ。

「……ん?」

 妹。

 思い返してみると、亜衣はそう言ったような気がする。

 聖が火影の妹って言ったのかもしれない。と考えて、俺は自分を否定する。いや、亜衣は確かに聖ちゃん「の」と言った……ような気がする。人の記憶など曖昧だ。一〇〇%信じていいものでもない。

 だが。

「……妹?」

 わざわざそんな聞き間違いをするだろうか。俺は自分の聞いた言葉を確かめる為、ボーッと俺達を見つめている火影に尋ねる。聖は確か十一歳だ。胸もあり、背も高く、大人びた顔の火影がそれより年下だとは思えない。

「妹」

 火影は端的に答える。

 妹。

 今度ははっきりと聞こえた。

「……姉じゃなくて?」

「妹」

 先程と同じ答えを火影は口にする。

「本当は?」

「妹」

「からの?」

「妹」

 何階聞いても同じ答えが返ってくる。

 つまり、火影は聖の妹という事だ。

 胸があっても、背が高くても、大人びた顔をしていても、目の前にいる女は小学四年生以下であるという事だ。

 俺は言う。

「……マジで?」

 火影はこくりと頷く。

 覆しようもない事実のようであった。

「さあさあ、真実を知ったところでっ」亜衣が元気に声を張り上げる。「火影ちゃん、サーフボード貸してくれない?」

「わかった」

 事前に伺いを立てていたのだろう。火影がアッサリ了承する。

 ポニーテールの先端の炎が心なしか揺れる。

「……サーフボード持ってるの?」

 海の家で借りるかと思っていたが違うみたいだ。別にどこで借りてもいいのだが、火影が持っているというのは少し意外だった。

 だが無言で頷く火影の顔は、どこか熱が入っているように思えた。



 三更の浜辺はサーフィンスポットにでもなっているのか、波に乗っている人達がそれなりにはいた。大量の海水が寄せては返すその上を、板一枚で滑っていく様は無謀にも見える。

 その中で一際輝く人物が一人。

「……おお」

 感嘆の声が知らず知らずのうちに漏れる。

 水上でピンクのサーフボードを自在に操っているその女性こそが火影であった。飲み込まんとばかりに遅い来る波をものともせず、逆にその波を乗りこなす。最初はポニーテールの先端の炎が消えやしないか心配だったが、今はそんな思いはどこかに消し飛んでいる。彼女が着ているスクール水着だけがその空間の中で少し浮いているが、それもすぐに気にならないくらい美しい光景であった。

「火影ちゃんはちっちゃな頃からサーフィンやってたんだって」

 隣に立っている亜衣が説明してくれる。火影のちっちゃな頃ってどんなだったんだろう。年齢的には今もちっちゃい部類に入るけど。

「……てか」率直な疑問をぶつける。「あんなにサーフィンが上手いなら、火影に波乗り攻撃を覚えてもらった方がいいんじゃないの?」

 しかし亜衣は首を振り、

「火影ちゃんは覚えられないもん」

「え、だってサーフィンしてるじゃん」

「サーフィンが上手いのと波乗り攻撃できるかは関係ないの」

 関係ないらしい。

 まあ亜衣が言うのだからそうなのだろう。

「光宙さんはまだまだポケマンの知識が足りませんね」

 蒼が涼しげな声で話に乗っかってくる。

「拙者も知らんでござるがな~」

 実和が呵々と笑う。

「ポケマンにはそれぞれ覚えられる技と、そうでない技があるのじゃ。光宙が波乗り攻撃を覚えられるのは例外中の例外なのじゃよ」

 角刈りの白髪に白衣姿のお爺ちゃんもいる。

 大鬼怒博士だ。

「……あ、はじめまして」

 実際に会うのは初めてなので会釈するがそうじゃない。

「お前ら、なんでここにいるの?」

 いつの間にか三人が俺達の隣にいた。蒼は雛田ジムを攻めているはずで、実和はまあいいや、大鬼怒博士などはなぜここにいるのか検討もつかない。

 蒼がバツの悪そうな顔をする。

「濡美ジムはなんなく突破できたのですが……雛田ジムとは相性が悪くて、なかなか攻略できないんです。だから初心に戻る為に一度戻ってきたのです」

「わかる~」亜衣が何度も頷く。「私もゲームで行き詰りすぎてどうしようもなくなった時とか意味もなく最初の村に帰ったりするもん」

「拙者の話も聞いてほしいでござる~」

 実和は目に涙を溜め下唇を噛んでいる。

「実は先日、拙者のポケマンになる人物からエアメールが届いたのでござるが、世界旅行が楽しくなってきたからもう一周回ると……もうどうしたらいいかわからんでござるよ~!」

「へー」

 亜衣は興味ゼロといった様子で視線を火影に向けている。

「……博士は?」

 流れ上聞かなければと思い、俺は大鬼怒博士に話を振った。考えてみれば大鬼怒博士とはポケマンセンターで通信機をぶっ壊して以来の再会だ。少し気まずくもある。あの時通信機を壊したのは後悔していないし責任は大方大鬼怒博士にあると思っているのだが、それでも気まずいものは気まずい。

「ん、ワシか?」

 大鬼怒博士はニコニコ笑いながら俺の目を見る。とりあえず怒ってはいなさそうだ。しかしそれなら本当に何の用で来たのだかわからない。もしやポケマン博士として、俺達に何か重要なヒントでも与えにきてくれたのであろうか。俺達がここに来る事を見越して……。

「あれを見なさい」

 言われるがままに大鬼怒博士の指差した方向を見遣る。

 視線の先には火影がいる。

 やはり波乗りに関係した事なのか。大鬼怒博士はすべてを見越してここに来てくれたのだ。

 俺は大鬼怒博士を見直す。

「火影の……」

 そして大鬼怒博士は皆の視線を集める中、朗らかな笑顔で言う。

「スク水姿は犯罪的じゃのう」

「……」

 ちょっと何言ってるかわからなかった。もう一度言ってほしい。

「ほれ、パイオツがカイデーじゃろ?」大鬼怒博士の顔はどこまでも朗らかであった。「尻も大きいじゃろ? ありゃ安産型じゃのう。あれで小学四年生とは犯罪じゃ。それもスク水を着てるとあっては興奮するのう光宙よ。思わずはらま」

「博士」あえて言おう。俺は今ドン引きしている。「お帰りください」

「光宙さん!」

 急に、蒼がどこか切羽詰った声で俺に詰め寄る。

「私のポケマンになってはもらえませんか?」

「……え?」

 俺は困惑する。だがさっきの話を聞いた後では、その理由もなんとなく理解できた。

「光宙さんは雛田ジムのリーダーが持っているポケマンと相性が良いのです。ですから今フリーなのであれば、ぜひ私に協力を」

「ちょっと待ったァー!」

 実和が会話に割って入る。

「蒼殿はポケマンがいるからいいじゃないでござるか! 拙者はまだ一人もおらぬ! ならば光宙殿は拙者のポケマンとなるのが道理というもの。異論はござらぬな!」

「あなたは世界旅行から帰ってくるのを首を長くして待ってなさいな! この偽侍がっ!」

「おのれ言ってはならぬ事をー!」

 なんだかよくわからないうちに二人がいがみ合い始める。そもそも俺、どっちのポケマンになるとか言ってないんだけど。

「ちょ、ちょっと二人とも! 光宙くんはねえ」

 亜衣が止めに入ろうとするがまるで聞いていない様子である。お互い額をぶつけ合ってああでもないこうでもないと激しく罵り合っている。ううむ、フリーというのも悩みものである。だが喧嘩は収めなくてはと声をかけようとした、その時、


「だめ」


 誰かが発したその一言で、二人のいがみ合いはピタリと止んだ。

 火影が、気付かぬうちに浜辺へと戻ってきていた。

「光宙は私の仲間」

 スクール水着からは水が滴り落ちている。ガキの身体であればフーンくらいで済みそうな光景だが、これが火影だとなんだか少し……いやいや、俺は大鬼怒博士ではない。理性で劣情を押し止める。

「もちろんそうですが、ジム戦だけ助っ人で借りるくらいいいじゃないですか。明日、雛田ジムに挑戦し終わったらすぐに返しますよ」

 聖のポケマンに戻ると決意したが、一応フリーである今なら蒼の言うように助っ人で戦うくらいなら俺もやぶさかでない。彼女は一緒に孤威禁愚と戦ってくれた恩人でもある。

「だめ」

 だが、火影は首を立てには振らない。

 理由もなしに拒むような人間ではないと思う。

「……何かあるのか?」

 火影はいつもと変わらず表情をあまり変化させない。それでも何らかの含みを感じ、俺は火影に問う。本来ならば火影に拒否する権利はないはずだ。それがこれだけ頑ななのだから、何かある事は間違いない。

「濡美ジム」

 端的に、火影は答える。

「再挑戦する」

「また、タケシマさんと戦うってこと?」

 亜衣の質問に火影は無言で頷く。

 再挑戦。

 それが何を意味するか。

「……聖」

 あれから五日。

 聖はやっと立ち直ったのだ。

「聖ちゃんは、光宙くんについて何か言ってないの?」

 それは気になる。もし再挑戦するという話が本当でも、今のままなら火影ととらの二人で挑まなければならないという事である。果たして聖は俺を呼び戻そうとしているのか、それとも気にせず俺抜きで戦おうとしているのか、それは重要だ。

 火影は珍しく表情を曇らせる。

 そして、首を横に振った。

「聖は、あの日から光宙の名を口にしない」

「……」

 と、いう事は。

「気にしていないというわけではない」俺の表情を見て何か感じたのか、火影がフォローじみた事を言う。「聖は、聖なりにあの日の自分の行動を引きずってるし、後悔もしてる。でも、聖はああいう性格。弱音は吐こうとしない」

「……」

 聖は薄情な人間ではない。それは充分承知だ。

 彼女は粗暴のように見えて繊細な一面もあった。俺達に気を使っている部分も多少感じた。短気だが情緒深く、時には何も考えず行動して俺達を振り回す事もあったが、彼女は小学五年生で、故郷を離れ旅をしていて、この間大きな絶望を味わっただろうに実家に帰って親に泣きついたりもしない。

 見捨てられたというのは事実だ。

 しかし、俺は彼女を嫌いになる事は決してない。

「聖は絶対戻ってきてほしいはず」

 火影ははっきりと口にする。

「私も、戻ってきてほしい」

「……火影」

 火影はずっと姉である聖をサポートしていたのだろう。身体は大人でも心は小学四年生だ。辛くなかったはずがない。

 彼女もまた、強い人間である。

 男の俺が弱音を吐ける状況にはない。

「それで」蒼が口を挟む。「再挑戦はいつやるんです?」

「今日」

 即座に火影が答える。

 今日だって?

「随分急だな」

 と言うが、別に今日突然決めたわけではないだろう。俺の始動が遅かったのだ。

 だが今日であればまだ間に合うかもしれない。波乗りを覚え、聖と合流すればあるいは。

「何時から勝負開始でござるか?」

「十二時」

 これまた即座に答える。十二時か。昼時にやるなんて腹減らんのかな。そう思った時、俺は亜衣に自宅から連れられてから今まで時間を確認していない事に気が付く。まあ夏休みだしな。そう一人ごちて笑いながら俺は腕時計を覗き見た。

 時計の針は、十二と、一を指していた。


 十二時五分であると、腕時計が無言で俺に告げていた。


「もう始まってる!」

 だが火影はまだここにいる。どういう事なのか。

 火影に顔を向けてみると――彼女はしかし、既に煙に包まれている。

 たった今、呼び出しが来たのだ。

「火影!」

 思わず火影に手を伸ばす。彼女はその手をしっかり握ってくれる。握ったところで一緒にワープできるわけではない。ここから濡美まで四時間はかかる。俺が参戦するのは不可能だ。だから、パワーだけでも送りたかった。

「光宙」

 だが、火影は首を横に振った。

「光宙が来るまで負けない」

 片手には、サーフボードを持っている。

 濡美まで来い、と言っているのだ。

「……火影」

「それと……」

 まだ何か言いかけていたが、もう火影の身体は煙で覆われていた。あと数秒もすれば握っている手の感触も、火影自体も俺の目の前から姿を消してしまうはずだ。そして待ったなしの状況で、岩瀬久男と対峙する事になるのだ。

 消える直前、火影は最後に一言だけ俺に言葉をよこす。


「みんなと待ってる」


「……」

 煙が晴れた後、やはりそこに火影はいない。

 火影の手の感触はまだ残っているというのに。

「光宙くん」もう一つの手が握られる感触があった。亜衣だ。「濡美に行こう」

「仕方ありませんね」

 蒼が涼しげに笑う。

「光宙さんの戦い、一番良い席から見せてもらいますよ」

「蒼……」

「せ、拙者も!」

 実和も慌てたように、

「見届けたく候!」

「実和……よし」

 俺は実和に手を伸ばす。彼女は多少面食らいながらもその手を繋いでくれる。すると蒼が実和に手を伸ばし、片方の手を握った。

「どれ、ワシも」

「帰れェ!」

 変態お爺ちゃんを一蹴した後、俺達は互いに顔を見合う。

 亜衣は柔和な笑顔を見せてくれる。蒼はいつも通り澄ましている。実和はなんだかぎこちなく笑っている。

 だが誰も、瞳の奥に宿すものは同じはずだ。

「みんな」俺は言う。「行くぞォ!」

「「「おうっ」」」

 声を合わせ、俺達は走り出す。

 サーフボードに結局一回も乗らなかったが、そんな事はどうでもよかった。



 とはいえ一回も練習していないのに波乗り攻撃ができるのかといえば、やはり不安でもある。

 それにもう一つ。

「……ジムにどうやって水を呼ぶんだ?」

 午後四時。濡美ジムの前までやってきた。屋根から煙が上がっている。火影の炎攻撃の痕跡だろうか。だがもう勝負はとっくに終わってしまったかもしれない。やっていたとして、俺が波乗り攻撃を使えなければ勝機はない。

 そしてその波乗り攻撃をどうやって出せばいいのか、俺は知らないのだ。

「大丈夫」亜衣が両手で俺の左手を優しく包み込む。「光宙くんが水を願えば、向こうからやってくるよ」

「……そんなスピリチュアルな感じでいいの?」

「光宙くんは今までどうやって電気を出してた?」

 亜衣の眼差しは真剣そのものだ。

「普通の人には電気を操る事はできない。でも光宙くんにはそれができる。火影ちゃんは炎を手から噴出させられるし、かめるちゃんはリュックから大量の水を出した。とらさんは糸を精製し、首相は空を飛んだ。つまり、ポケマンは技を出せる素質があればなんだってできちゃうんだよ」

「……」

 なんだか言いくるめられている気もするが……しかし、亜衣の言う事も一理ある。

 俺は今まで、自分でもよくわからないところから電気を放出していた。雨雲を呼び、雷を落としたりもした。超常現象であるが、ポケマンにはそれができるらしい。

 つまり、俺に波乗り攻撃の素質があるなら、ジムに水を呼ぶ事も可能なわけだ。

「行って」

 亜衣が俺の背中を押す。

「私達は観客席に行きます。フィールドに立っていいのは挑戦者と、そのポケマンだけですからね」

 背中を押す手に、蒼も加わる。

「武士の心得、とくと見させていただくでござる!」

 更には実和も。

「みんな……」三人に背中を押されては行かないわけにはいくまい。「……ありがとう」

 俺は勢いよく走り出し、ドアノブに手をかける。なんだかドアの向こう側から熱気が伝わってくる。中は相当暑いようだ。空調が故障しているのか? それとも単に夏だからか? 疑問が俺の脳裏を掠めるが今は別の事を考えている余裕などはない。

「……行くぞ」

 一人呟き、ドアを開ける。

「頼もうーっ!」

 そして俺は、すぐに目の前の光景に圧倒させられる。


 ジムの中は、四方が炎に包まれていた。


「……なんだこりゃ」

 壁も、天井も、まるで火事のように炎で覆い尽くされている。火事のようにというよりは、既に火事だ。とんでもなく暑いし、今にも屋根が崩れてきそうで大変怖い。

 そんな中、フィールドの中央に立っている人物がいる。

「来たか光宙ォー!?」

 背がやたらデカくて潰れた学生帽を被っていて筋肉隆々で岩みたいな顔をしている男。

 岩瀬久男だ。

「待ってたぜェー!?」

 岩瀬久男は多少の疲れは見て取れるものの、あまりダメージは食らっていなさそうだった。やはり炎系の技には強いらしい。俺はそれだけ確認すると返事はせず、視線を別の場所に移す。

「……」

 そこには三人の女の子がいた。

「光宙さん……」

 一番近くにいるのはとらだ。彼女は岩瀬久男とは正反対にかなり消耗している様子である。制服はところどころが破かれ、メガネも割れている。立つ事もできないのか、床にへたれて息も絶え絶えにこちらを見上げていた。二酸化炭素中毒じゃないのかこれ。

「……大丈夫ですか?」

 近寄るととらは弱々しく微笑み、

「私は大丈夫です、やる事もあるので」やる事ってなんだ。それを聞くよりも先に「それより……」

 震える手である方向を指差す。

 そこには――火影が倒れていた。

「彼女を頼みます」

「……火影」

 火影はバトルフィールド内にいた。俺達と浜辺にいた時と同じスクール水着を着ているが、こちらも岩瀬久男に受けたダメージで肩や腰の部分が破れとても扇情的、もとい痛々しい。

「火影!」

 駆け寄って抱き起こす。かなり衰弱しているように見えるが、意識はある。うっすらと目を開け、小さな声で、

「光宙……」

「……火影」

 彼女は四時間前俺に言ったとおり、耐えてみせたのだ。

 ボロボロになりながら、それでも倒れなかったのだ。

 俺は彼女を心から尊敬する。

「もう大丈夫だ、安心して休め」

 さあ、今度は俺の出番だ。

 と、思ったら火影がまだ何か呟いている。

「スク水……似合ってる?」

「……安心して休め」

 俺は彼女を抱きかかえ、フィールド外へ運んでいく。炎の中にいるはずなのに、不思議と普通に歩けるし息を吸えるし焼け死にそうにない。おそらく火影の炎なのだろう。なぜ周囲に火を放ったのかはわからないが、彼女ならきっと意図があるはずだ。炎の意味は聞かずに、フィールド外にそっと降ろす。

 それに、今はもう一人の女の子と相対しなければならない。

「よう」

 小学生中学年くらいと思しき、ツンツンした黒髪に野球帽、露出度の高いシャツに半袖パーカー、ホットパンツという、ボーイッシュな格好をした女の子。

 聖に、俺は声をかける。

「……何しに来た」

 聖は俺の顔を見ていなかった。俯き、バツの悪そうな表情で床をジッと見つめている。

「あたしを笑いに来たのか? それとも……ぶん殴りにでもきたか?」

「……」

 捨てられた子犬のような顔。捨てられたのはこっちなのに。

 自然と苦笑いが出る。

 これじゃあ、怒るにも怒れない。

「……聖」

 近付いていくと、本当に殴られると思ったのか聖の肩が震える。俺はあえて何も言わず目の前まで迫る。

 そして、彼女の手を握り。

 ある物を、そっと手渡した。

 それは、上半分が白、下半分が赤の球体。


 マンスターボールだ。


「……光宙」

 やっと聖がこちらを見る。その目は、驚きで見開かれていた。

 何を驚く事がある。俺にとっては当然の行動であった。

「俺のトレーナーはお前だけだ、聖」

 優しく、彼女の頭に手を乗せてやる。

「そうだろ?」

「光宙……」

 聖の瞳が潤み始める。泣かれちゃ敵わない。彼女の頭から手を離すと、俺はクルリと回れ右をし再度フィールドへと足を踏み入れた。

 岩瀬久男はそんな俺を腕を組み笑いながら見つめていた。

「泣かせるじゃねえか光宙よォー!?」

「……」

 観客席を見る。亜衣達はまだ来ていない。観客口の方も炎が回っているのかもしれない。ポケマンの炎だから亜衣達に直接被害を及ぼすような事はなかろうが、それでもいつ屋根が崩れ落ちてもおかしくないわけで、普通の人間がジムの中にいるのは危険である。

 聖とタケシマは平然とここに居座っているが、それはトレーナーとしての意地かもしれない。

 特に聖は、もう逃げ出したくはないだろう。

 その思いには答えてやらなくてはいけない。

「……岩瀬」

 俺の左腕には、フィールドに足を踏み入れる前に手にしていた物がある。

 サーフボードだ。

「今からお前を一撃で倒す」

「ああん?」

 岩瀬久男が怪訝な顔をする。この間一方的にやられた相手がそんな事を言っても説得力はなかろう。実際口だけになってしまうかもしれない可能性も否めない。

 それでも、やるしかないのだ。

「面白いじゃねえかァー!?」

 俺に何らかの気配を感じ取ったのだろう。岩瀬久男がこちらへと向かってくる。走ってくるその姿はまるで戦車だ。繰り出してくる技はおそらく体当たり。まともに食らえばそれこそ一発で倒されてしまうかもしれない。

「……」

 俺はそんな状況で、あえて目を瞑る。

 この空間には存在しない、水を呼び起こす為だ。

 ――光宙くんが水を願えば、向こうからやってくるよ

 亜衣はそう言った。そんな奇跡のような戦い方でいいのだろうかとは思うが、今は何にでも縋りたい心境だ。

 俺は想像する。俺は今海にいる。サーフボードに寝そべり水を掻き分けている。いくつもの漣が立っている。鴎が泣いている。陽が照っている。肌がジリジリと焼ける。リアル感がある。そうか、火影が炎を放ったのはコレの為か。俺は微笑む。なるほど、豊かな想像力が技を呼び込むのだ。

 その時、俺の頭の中で大きな波が押し寄せてきた。

 俺の身長よりも遥かに高い。七、いや八mはあろうかという水の塊。飲み込まれればたちまちのうちに死に向かってしまうだろう。だが俺は待つ。波を待ち受ける。

 頭の中の波を。

 現実に呼び起こす!


「――フンッ!」


 瞬間。

 俺の頭の中で、何かが弾けた。

 同時に、足元から何かが湧き上がってくるのを感じた。

 間違いない。

 これは――波だ!

「……」

 そして俺は、ゆっくりと目を開ける。

 そこに波も、一滴の水もなく。

「……あれ?」


 突進してくる岩瀬久男だけが視界の中にあった。


「check it out!」

 衝撃。

 一瞬視界が真っ暗になり、身体中に痛みが迸る。吹っ飛ばされていたのだと理解したのは何mもの距離をバウンドした後だった。

「光宙!」

 聖の声を聞きながら、手足を投げ出して床に這いつくばっている自分を冷静に認識する。奇跡は結局起こらなかった。俺の想像力ではどうやら無理であったらしい。亜衣を責めているわけではない。単に俺の実力不足だ。

 岩瀬久男を倒す術は、今、完全に潰えた。

「悪いな光宙」

 岩瀬久男が俺を見下ろしている。真面目な口調で。

「だが俺達は、そう簡単に負けるわけにゆかぬのだ」

「……」

 岩瀬久男は笑ってもいなければ、哀しげな表情も浮かべてはいない。フィールド外にいるタケシマは、相変らず上半身裸で腕を組み一言も喋ろうとはしない。とても十七人の弟や妹と一緒にいる時の男と同一人物には思えないが、これが人間であり、ジムリーダーであるというわけだろう。彼らはプロフェッショナルなのだ。奇跡などには頼らず、ひたすら己の技術を磨いてきた。

 そんな彼らに、やはり俺が勝てるはずがなかった。

「久男、叩きつけろ」

 タケシマが指示を送る。

「これで終わりだァー!?」

 岩瀬久男が俺の頭を掴み持ち上げる。フィニッシュだ。この一撃を食らえば、間違いなく俺は倒される。そうなれば二度目の挑戦も失敗に終わってしまう。悔しいが、手立てがない。

 もう、終わりなのだ。

「――違う!」

「……え?」

 声が聞こえた。

 よく知っている声。

 普段小さい声しか聞いた事がないが。

「まだ終わりじゃない!」

 それは、火影の声であった。

「……」

 ボロボロの火影が、とらの助けを借りて立ち上がっている。脚は震え、肩はだらりと下がっている。とてもじゃないが立てる状態には見えなかったが、それでも火影の目はまだ死んでいない。

「光宙」今にも負けそうなこの状況で、火影はしかし諦めた表情など一切してはいなかった。「水がくる」

「……水?」

 わけがわからない――そう思ったのも束の間。

 俺は目にする。


 ジムの窓という窓から、大量の水が噴射される光景を。


「なにィー!?」

 岩瀬久男が目を見開く。俺だって驚いている。夥しい量の水が入ってきているのだ。おそらく俺がスピリチュアルな念で呼んだものではないだろう。では一体誰が、どうやって水を呼んだのか。

「呼べなければ、あっちから来る状況にしたらいいのよ」

 そう言ったのはとらで、彼女の右手には携帯電話が握り締められている。

 それを見た瞬間、俺は気付く。

「……そうか」

 これは――消火活動だ。

 火影がジムに炎を振りまき、とらが一一九番通報をし、駆けつけた消防車が水を撒いているのだ。

「準備は整った」火影の声量が元に戻る。「後は光宙の仕事」

「……ああ」

 二人が繋いでくれたチャンス。

 モノにしないわけにはいくまい。

「――フンッ!」

 水がある今なら波乗りも不可能ではない。俺はこの身に精一杯の力を込める。するとどうだろう、炎に向かって噴射されている大量の水が、渦巻きながらこちらに集まってくる。

「な、なんだとォー!?」

 俺は今、岩瀬久男を圧倒している。俺自身何が何だがわかっていないがとにかく水を俺の周りへと集める。電気ショックを繰り出す要領だ。技を出そうとするポケマンには、それに必要なものが自ずと集まってくる。

 俺と岩瀬久男の周りを取り囲むようにして、大量の水がグルグル回っている!

「久男! 早く叩きつけろ!」

 タケシマが声を張り上げる。危険を察知したのだろう。それは岩瀬久男も同じで、

「check it out!」

 俺を一番高く持ち上げ、そのまま地面に叩き付けんとす。

 ここだ。この一瞬が勝負だ。

 何もしなければ、数秒以内に岩瀬久男の手で地面に沈められるだろう。その前に水を凝縮させ、波乗り攻撃によって彼を倒さなければいけない。サーフボードは近くに転がっている。できない事はない。

 今が勝負だ!

 俺はこれ以上ないまでに力を込める。

 地面が揺れる。

 ゴゴゴゴゴゴ……地鳴りも聞こえる。

 周囲にある水を集めようとしているだけなのに、やけに大げさである。

 まるで――地下水脈が昇ってきているような感覚。

 岩瀬久男に体当たりされる前に感じた、足元から何かが沸き上がってくる感覚と同じものだ。

 まさか、と俺は床に視線を落とした。

 その瞬間であった。


 床が、壊れた。


「○×△□……!」

 何かを言ったはずだが、自分でも何を言ったかわからない。

 一瞬のうちに俺は何かに飲み込まれていた。口から泡が吹き出す。今自分がいるのが水の中だとわかる。先程俺が念じて呼び寄せようとしていた、水だ。

 どうやら奇跡が通じたらしい。今になって。もう通じなくてもよかったのに。

「……」

 火影ととらが空を飛んでいるのが見える。水に飲み込まれる前に避難できたらしい。できれば俺も助けてもらいたかったが、それは無理な相談というものだろう。

「……」

 岩瀬久男は近くにいた。足を動かし、水の上に出ようとしていた。彼はどうやら泳げるらしい。遠くで浮いている男もいる。タケシマだろう。

「……」

 聖は――見えない。

 というより、これ以上探せない。

「××……☆○ッ!」

 聖の名を呼ぼうとした時、口の中から泡が一気に放出される。息が苦しい。必死にもがくが身体はどんどんと沈んでいく。俺はカナヅチなのだ。水中で浮く方法すらよくわからない。だがこのままでは確実に溺れる。いや、もう既に溺れている。せっかく奇跡を起こしたのに。岩瀬久男を倒せるだけの水量を手に入れたのに。自分で呼んだ水に溺れて死ぬというなんとも情けない最期を、俺は迎えようとしている。

「……」

 嗚呼、俺はこのまま死んでしまうのか。

 意識が薄れる。

 水死は、死ぬ間際にとても気持ちよくなれるという。そんな知識を今ここで実践したくはなかった。俺は死にたくない。まだ遣り残した事がたくさんある。亜衣とキスをしていない。火影の笑顔をもっと見たい。とらが芸術家になったらサインしてもらわなければいけないし、蒼とかめるコンビにリベンジしていない。実和のポケマンとやらにもお目にかかりたい。

 何より。

 聖を勝たせてやりたかった。

「……」

 だがもう無理だ。俺はこのまま溺れて死ぬ。

 諦めたくはないが、瞼が自然と閉じていく。

 さようなら、みんな。

 薄れゆく意識の中で、こちらへ向かって泳いでくる小さな女の子を見ながら、俺はそう思う。

 小さな女の子は、とんでもないスピードで泳ぎ俺の腕を掴む。

 そして、その身体に見合わぬパワーで俺を引き上げていく。

「……×××」

 俺は呟く。


 聖が、俺を水中から引き上げていた。


「――ぷはっ!」

 一気に視界が開ける。呼吸もできる。サーフボードに捕まっている為もう沈む事もない。

 死ぬかと思った。

「シャキッとしろ、光宙!」

 目の前で一緒にサーフボードに捕まり、俺を叱咤しているのは、見間違えようもなく聖だ。

 聖が、危険を顧みずに助けてくれたのだ。

「ありがとう、なんて言われてる暇はないぞ」

 聖が俺の向こう側を指差す。振り向いてみると、十mほど離れたところに岩瀬久男も浮かんでいて、

「光宙ォー!?」

 俺の場所まで泳ごうとしている。近接戦に持ち込まれれば泳ぎながら戦わなければいけない。即ちそれは俺の敗北を意味する。とはいえ攻撃するにも水の上を滑らなければいけないのだが。

 そして俺はサーフィンの練習を一回もしていない。

「大丈夫だ」聖はそう言いながら、サーフボードの上に寝そべる。「あたしが乗せてやる」

「……どういう事?」

 まさか、これに二人で乗るというのか。

「いいから来い!」

 腕を引っ張られるがままにサーフボードに上半身を乗っけられる。サーフボードは子供二人でも立たなければ二人乗りできないくらいの広さである。こんなところに果たして立てるのか不安だ。

「あたしを信じろ」

 聖は俺をまっすぐと見据えている。

「お前はあたしのポケマンだ。あたしのポケマンならできる!」

「聖……」

 聖が立ち上がる。

 俺の手を掴みながら。

「……わかった」

 聖はなんでもないように立ち上がったが、揺れる波の上、泳げない俺にとっては至難の業だ。

「お前を信じる」

 だから波の上に一回で立てるのはこの先一度だってないだろう。

「さあ波を呼べ、光宙!」

 岩瀬久男があと数mの距離まで来ている。

 やるなら今しかない。


「――フンッ!」


 一切の事は考えず、俺は立ち上がる。

 おそらくこれきりであろう、サーフィンを楽しむ。

 正面から、大きな波がやって来るのを見ながら、俺はそう思う。

「行くぞぉー!」

 聖が叫ぶ。俺も声にならない声で叫ぶ。

 俺の声は聖の声。俺の技は聖の技だ。

 俺達は二人で、大きな波に向かっていく。岩瀬久男を波が飲み込む。俺達も少しバランスを崩せば、たちまちの内に飲まれてしまうだろう。だが不思議と恐怖は感じなかった。カナヅチな俺が怖さを感じない理由は一つだ。

 俺は聖のポケマンで、聖は俺のトレーナー。

 二人で戦えば、どんな荒波だって怖くない。

 襲いかかる怪物のような波をものともせず横滑りしながら、俺は聖と目を合わせ――。

 一瞬、笑い合った。



「光宙くんっ」

 炎も水もすべてが消え、試合が終わり、タケシマに濡美バッジを貰っている聖を眺めていると、突如後ろから誰かに抱きつかれた。

「……亜衣ちゃん」

 亜衣に蒼に実和、ジムに入ってくる時にはいなかったかめるもこの場にいる。

「入ろうとしたら炎で邪魔されたのでかめるを呼んだんです」蒼が涼しげな顔で説明する。かめるが俺に向かって二カッと笑いピースをしている。「まさかその後に消防車が来たり、中から水が湧き上がってくるとは思いませんでしたが」

 彼女達にしてみたら、状況がまるで理解できなかった事だろう。

 亜衣などは今にも涙を落とさんばかりに瞳を潤ませていて、

「波乗り、ぐすっ、成功したんだね?」

「……うん」

「しゅ、しゅごいよ光宙くん。私、私……うえぇ~んっ」

 泣かれても困るが、まあ俺の為に泣いてくれるのならばこんなに幸せな事はない。

「光宙」

 なぜか火影まで抱きついてくる。彼女はまだスクール水着姿で、勝負で敗れた部分から見える胸や腰が、その柔肌から目が離せない。これで小学四年生というのはやはり嘘に違いない。

「火影ちゃんっ」亜衣が泣きながら怒っている。「何度も言ってるでしょっ。他人のポケモ……んん~っ」

 火影が亜衣の口を押さえる。なんだこのやり取り。

「フハハ! モテモテだな光宙よォー!?」

 岩瀬久男が豪快に笑って俺の肩に手を置く。とても先程まで脱糞して倒れていた男とは思えない。

「光宙よ」

 かと思えばいきなり真面目な口調になり、

「今日は今までで一番楽しい勝負だったぞ。貴様が良ければまた戦おう」

「……おう」

 岩瀬久男。豪快にして善人でもあった。俺も今日の勝負を一生忘れる事はなかろう。

 一方すぐ傍では聖が瞳を輝かせながらしげしげとバッジを眺めていた。廃工場で蒼に見せられた物と同じく、真ん中に「濡」の文字が刻印されている。

「認めよう。君は本物のポケマントレーナーだ」

 上半身裸のタケシマが細い目で聖を褒めている。

「へへっ。ま、それほどでもないけどな~」

 聖は明らかに嬉しそうである。小学生なら、褒められれば喜ぶのは当然の反応と言える。中学生だって喜ぶのだからしょうがない。

 だがタケシマはただ褒める為に言ったわけではないようで。

「赤田聖、お願いがある」

 聖に突然頭を下げ、


「俺を君達の仲間に入れてくれないか」


 とんでもない事を言い出した。

「俺はまだまだ未熟だと、今日の勝負で思い知った。君達と旅をすれば、もっと強くなれるかもしれない。だからお願いだ、俺も旅に加えさせてくれ」

「……」

 あまりに突然な事に俺は何も言えない。それはみんなも同じなようで、火影はボーッと見つめているし、とらはメガネを光らせている。亜衣はなぜだかウキウキしながら「次はカスミねっ」とかちょっとよくわからない事を言い出すし、みんなよく考えればいつも通りの反応で、混乱しているのはどうやら俺一人のようだ。

 だが、タケシマが仲間に加われば戦力としては申し分ないのも事実だ。

 十七人の弟や妹はどうするんだとも思うが、それは家庭の事情であって俺達が心配すべきところではない。

 それに、決めるのは聖だ。

 聖はすぐに返答する。

「断る」

 きっぱりと、聖は言い放った。

「あたしの旅にこれ以上のお供は必要ない。強くなるなら一人で強くなりな」

「フハハ! タケシマよ、お主振られてしまったのォー!?」

 断られて何も言えないタケシマを、岩瀬久男が容赦なく首に腕を巻きつけ頭をワシャワシャ撫で回す。むさ苦しい男二人のそんなやり取りなど見たくはないが、岩瀬久男なりの気遣いである事には違いない。

「残念だが、しょうがない」タケシマが搾り出すように言う。「君には、素敵な従者が着いているようだからな」

「従者じゃないぞ!」

 聖が俺の腕に抱きつく。

 そして俺を見上げ、愛くるしい視線を向けながら、聖は言った。


「あたしの、お兄ちゃんだ! な、お兄ちゃん?」


 お兄ちゃん。

「……」

 俺は聖を見つめる。聖は期待感溢れる笑顔で俺の返答を待っている。俺はそんな聖を見つめている。

 自然と言葉が零れる。

「……え?」

「え?」

 オウム返しのように聖が言う。

 俺は戸惑っている。

「お兄ちゃん……って?」

 一体どういう事だろうか。俺が聖のお兄ちゃんであった事実はないはずだ。実は戸籍上はそうなっているのだろうか。それとも「お兄ちゃんのように愛しい存在」であるという事だろうか。謎は深い。

「……覚えてないのか?」

 聖の表情が見る見る曇り出す。

「……ごめん」

 俺は素直に謝る。覚えていないものはいないのだ。嘘を吐いても仕方がない。

「ぬぬぬ……」

 聖の顔が赤くなっていく。おそらくは恥ずかしさと怒りとが混じり合った表情だ。これはまずいと第六感が告げている。しかしもうどうにもならない。

「こ、こ、この……ッ!」

 聖が俺の腕を離す。キッと睨みつけたその目には涙が浮かんでいる。なんだか申し訳ないなという気持ちと、聖は笑顔より怒った顔の方が似合うなという気持ちが俺の中で交錯する。何はともあれ、怒りは素直に受け止めるしかない。

 そして聖は罵声を浴びせる。


「――うんこマンッ!」


 ぷりぷり怒りながら、聖はジムを出て行こうとする。亜衣が「私もお姉ちゃんって呼んで~」と言いながら追いかけていく。その後を火影がボーッと、とらがなんだか楽しそうな表情で着いていく。蒼は涼しげな顔で、かめるはヤンスヤンスと、実和は状況をよく理解していないのかキョロキョロ俺達を見回しながら続いていく。

 しんがりは俺だ。

「……」

 ポケットマンスター。

 不思議な不思議な生き物。

 略して、ポケマン。

 不思議な奴らと、不思議な俺。

 怒られた事などとうに忘れ、俺は前を歩いている女の子達を眺めながら、なんだかとても楽しい気持ちになるのであった。

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