第三章 ポケマンゲットだぜ!
「おい、鳩山」
「はい?」
聖が例によって無遠慮に声をかけると、前にいた鳩山と呼ばれた初老の男性がこちらを振り向く。出来の悪いサザエさんのような髪形にまん丸い目。高価なスーツに包んでいるその身体は痩せても太ってもいない。
なんだか、何代か前の首相に似ているような気がしなくもない。
声をかけた聖はその手に手帳ほどのサイズの四角くて赤い機械を持っていて、鳩山に向かってボタンを押すと、その機械が喋り始める。
『鳩山 はとポケマン 戦いは好きではない おとなしい性格で襲われても反撃せずに身を守ることが多い』
機械的な声である。
それを聞いていた鳩山がニヤリと笑い、
「いかにも、私はポケマンではありませんか」
自らをポケマンと認める。
そうか、俺達の総理大臣はポケマンだったのか……。
「私を捕まえるのですか? それはあんまりじゃありませんか」
「黙ってあたしのポケマンになりな!」
聖は乱暴にそう言うと俺の尻を思いきり蹴飛ばす。
「いけ、光宙!」
「……」
ちなみに亜衣はまだ駆けつけていない。いたら俺としても心強いのだが、彼女はポケマンではないので一瞬で移動することができないのだ。
俺は鳩山と向かい合う。凄く奇妙な画である。俺もテレビで彼を観ている頃は、まさかポケマンとして戦う事になるとは思わなかった。
まあ彼が首相であるという確証はまだないのだけれど。
そう思った矢先、鳩山が先に仕掛ける。
「まずは、政権交代!」
両手を広げ、ふわりと宙に浮かんだのだ。
「……」
俺達の首相、空飛べたんだ。
「光宙、電気ショックで応戦だ!」
その光景をただ眺めている暇はなかった。聖の命令で俺は右手に電気を発生させる。数mほどの高さで浮かんでいる鳩山めがけ走り、ジャンプ一番拳を振り込む。
「フンッ!」
もちろん俺は空を飛べない。
「届かないじゃありませんか」
両手を扇ぐと、鳩山は俺のジャンプをいとも簡単に避け本当の鳥のように空中を移動する。空を飛んでいる相手にパンチを当てられるはずがない。
「ムキーッ!」聖がいつもの短気を起こす。両手を振り上げ地団太を踏み、「役立たずなネズミめ! 十万ボルトか雷攻撃くらい簡単に使えるようになってろとあれほど言ったのに!」
「……ネズミはやめろ」
彼女が言ったとおり俺が今使える主な技は相変らず電気ショックくらいだ。
しかし喧嘩している場合でもない。。
「まずは、政権交代!」
そう言うと鳩山は両手を振り下ろし、強烈な風を呼び起こす。
「くっ!」
土や砂やらが顔を襲う。手で庇うしかなく、こちらからの攻撃を制限される。
そしてその隙を突き鳩山は俺達の方へ滑空してきて、
「政権交代! 政権交代! 政権交代! 政権交代!」
伸ばした腕で俺の顔や胸を何回も殴打する!
「ぐわぁ!」
歳を感じさせない若々しい攻撃に俺はたまらず尻餅をつく。やはり首相になる人間には強さも求められるのか……。政権が一年しか保たなかったのはきっと彼より強いポケマンがいたからに違いない。
「さらばじゃありませんか!」
「あっコラ! 待て!」
鳩山は空を飛んだまま背を向け彼方へと消えていく。聖が慌てて追いかけるが追いつくはずもなく、
「……逃げられたな」
誰もが見れば理解できる事を、俺は呟く。
「むむむ~っ……」
聖も誰もが一目見てわかるほどに不機嫌になっている。頬を膨らまし、腕をワナワナ震わせながら俺を睨みつける。
「……ごめんな」
自分自身もう少しうまく戦えた気はする。
「むむむむむむ~っ……」
顔まで真っ赤にした聖が俺に対して何を言おうとしているのか、俺は待ってやる。倒せなかったのは俺の責任だ。何を言われてもしょうがないし、小学生に何を言われても傷付かない自信がある。
「こ、こ、この……」
そしてすぐに、聖は俺に対して罵倒の言葉を吐き出す。
「このうんこマン!」
「……」
前言撤回。
ちょっぴり傷付いた。
聖がポケマンセンターで大鬼怒博士からポケマン図鑑を受け取ったのは、鳩山と対戦する数時間前の事だった。
『もう届いたかの?』
正しくは俺が受付まで郵送されたポケマン図鑑を受け取ってきて、聖に手渡したのだが。
「これ、どうやって動かすんだ?」
俺へのお礼も言わずに、ポケマン図鑑をしげしげと眺める聖。確かに図鑑というのは少し特殊な形をしている。
図鑑といっても本ではなく、機械だ。スマホほどの大きさで、色は赤。横っちょに白い三角のボタンが付いていて、それを押すとカバーが開き、中にある機会が露わになる。小さな画面といくつものボタン。十字キーなんかもある。
「……」
スマホの方がよほどハイテクな気がしないでもないが、俺は言わない。
『画面下にあるボタンを光宙に向けて押してみるのじゃ』
モニター越しに大鬼怒博士が指示をする。
「ここか?」
聖が言われたとおりにボタンを押してみると――
『――音島光宙 ネズミポケマン』
図鑑が喋った。
「うわっ」
驚いたのか、聖が図鑑を落としそうになる。俺が慌てて受け止めてやっている間も図鑑は機械的な声を出し続けている。
『頬っぺたの 両側に 小さい 電気袋を 持つ ピンチの時に 放電する』
「……おまえ、ほっぺに電気袋があるのか?」
図鑑が喋り終えた後、聖が恐る恐るといった様子で俺の頬をぺたぺたと触る。俺だって頬にそんなものがあるなんて聞いていない。というかそれより気になる事が。
「俺、ネズミだったんだ……」
『あくまでも喩えじゃよ』大鬼怒博士は陽気に笑い、『ポケマンにはそれぞれ特徴がある。それらの特徴をわかりやすく説明し、記録してくれるのがそのポケマン図鑑じゃ』
「……なるほど」
としても俺がネズミなのは納得が行かないが、今は腹に収めておくとする。
『聖よ』
「あんだよ」
聖はポケマン図鑑をあちこち眺めるのに夢中だ。
『覚えておろうが、ワシの願いは聖や蒼にそのポケマン図鑑でいろんなポケマンを記録してもらう事じゃ。先にコンプリートした者が正式にポケマンマスターの称号を得られる。サボる事なく、ポケマンを記録していくのじゃぞ』
ポケマンマスター。
その言葉は聞いた事がある。
――あたしの名前は赤田聖。ポケマンマスターを目指している者だ
彼女と初めて会った時に聞いたセリフ。
つまり、ポケマンマスターになるというのが聖の旅の目的であるという事らしい。関東中にいるジムリーダーを倒す他にやる事があったというわけだ。
「わかってるよ」聖はおざなりに答え、通信を切ろうと手を伸ばす。「じゃあな爺」
『おお、それとの』
大鬼怒博士はそれを許さない。
『もう一つ、伝えとかねばならぬ話があるのじゃ』
「話?」
聖が顔を上げる。なんぞ、また何か届けるつもりなのだろうか。
『光宙よ』しかし大鬼怒博士は俺の名を呼ぶ。『おぬし、戦ってみて何か疑問に感じた事はないかの?』
「……疑問ですか」
正直疑問だらけだが、それでもその中で特に気になる疑問というと……なんだろう?
俺は一体どこで電気を作り出しているのか。
なぜマンスターボールで瞬間移動できるのか。
そもそもポケマンとはなんなのか?
だが大鬼怒博士が俺に聞いているのはそれではなかったようだ。
『負けた後、自身の身体に変化はなかったかの?』
負けた後……。
俺は今まで二回敗北を決している。
一度目は捕まえられた時、二度目はかめると戦った時。
その二回で共通している事があるかといえば……。
ある。
『そう、脱糞じゃ』
大鬼怒博士が笑顔で頷く。
そして次の博士の一言で、俺に衝撃が迸る。
『男のポケマンは戦いに負け気を失うと脱糞してしまうのじゃ!』
脱糞してしまうのじゃ! 脱糞してしまうのじゃ! 脱糞してしまうのじゃ! 脱糞してしまうのじゃ! しまうのじゃ! しまうのじゃ……。
「……」
頭の中に十万ボルトが直撃したような感覚を俺は覚える。まさかあの脱糞にそんな意味があったなんて。もう戦いたくないとすら思う。勝ったって特になにがあるわけでもないのに、リスキーすぎるだろポケマン。
「やーいうんこマンうんこマン」小学生らしく囃し立てている聖を気にしないでいると、彼女が突如我に帰り、「ん? 男ポケマンはって事は、女ポケマンはまた違った事が起こるのか?」
『そりゃそうじゃ!』
当たり前のように言うが、それは俺も気になる。男ならまだギリギリOKだが、女が脱糞してしまったらもう洒落にならない。これが例えば一つの小説であるならば、どこの新人賞にも送れはしないだろう。
『女ポケモンが負けて気を失うとの』
果たして大鬼怒博士が言う。
『全身が気持ち良くなり脱力してしまうのじゃ』
「……ん?」
全身が気持ち良くなり脱力する……?
「なんだそりゃ? 意味わからん」
聖は眉をひそめて腕を組む。本当にわからないのだろう。小学生だから仕方がないし、純粋なままいてほしいと願う。
だが近頃思春期に突入してしまった中学生がここにいる。大鬼怒博士が放ったそのワードだけで、その意味するところがわかってしまう。だから大鬼怒博士も遠回しな言い方をしたんだろう.。それが正解だ。小学生がいる前で、大人の男が直接的な発言をしてはいけない。
「なあ、それってどういう意味だ?」
気になるのか聖が俺の裾を引っ張る。残念だが教えてやれないのだ。
代わりに、優しい嘘を吐く。
「いや、俺もわからん」
『光宙もわからんか』
大鬼怒博士も微笑みながら、
『オーガニズムの事じゃ!』
オーガニズムの事じゃ! オーガニズムの事じゃ! オーガニズムの事じゃ! オーガニズムの事じゃ! 事じゃ! 事じゃ……。
「……」
この爺マジ信じらんねえ。
「おーが……なんだ?」
聖の目が点になっている。そうか、まだ小学生だから知らなくても当然か。大鬼怒博士はこれも見越して言ったのかもしれない。お茶目なお爺さんめ、ハハハ。
『オーガニズムとはな』
だが大鬼怒博士の口は止まらず、嫌な予感がする。俺は思わず電気を拳に注入すると、
『イ』
「――フンッ!」
パンチ一発、通信機を破壊した。
「わっ」
聖がひっくり返る。それもそのはずつい一瞬前まで大鬼怒博士の顔を映していたモニターには俺の拳がめり込んでいて、ところどころから煙も上がっている。機械の中に手を突っ込んでショートさせたのだから当然だ。
周囲がざわついている。
聖はビックリして言葉も出ない様子で、
「お、おま……」
「……聖」
俺は手を引っこ抜くと、聖を小脇に抱える。
そして走る。脱兎の如く。いや、都会の下水道で生き抜くドブネズミの如く。
「逃げるぞ!」
後悔はしていない。
純心は守られたのだ。
「――って事があったんだよ~」
お昼時。田際町の市街地から少し離れた場所にあるファーストフード店で、俺達は食事を取っている。
俺達というのは俺と聖だけという意味ではなく。
「私も大鬼怒博士って人とお話してみたいなぁ」
「ただのクソジジイですよ」
亜衣と、なぜか蒼もいる。
男一人に対して女の子三人(うち二人は小学生だが)で食事をするという状況は思春期真っ只中の少年であるところの俺としてはいささかむず痒いものがあるが、同時に喜びも感じる。知り合いや男友達はこの町にはいない。周りの目を気にする必要はない。
「蒼、おまえはポケマン図鑑貰ったか?」聖がニヤニヤしながら図鑑を見せびらかすようにより出す。「これはいいゾ~。あたしなんかもう三人も記録しちゃったもんねっ」
鳩山、俺、火影だろうけどな。しかも火影は図鑑を受け取ってから呼び出してないから実質二人だけどな。鳩山も捕まえてないから微妙だけどな。
「あたしの方がちょっとリードしちゃったかな~」
聖が少し鬱陶しいくらい上機嫌だ。わざわざ蒼を呼び出したのも自分の方が進んだと確信したからだろう。俺が小学生の女の子だったらこいつとは友達になりたくない。
「そうですか。私は明日貰う予定です」
蒼はこの前同様クールだ。優雅に紅茶、ではなくコーラをストローで啜って、小さな口でハンバーガーを咀嚼する。そこに慌てている様子は伺えない。
「なんだ? いやに呑気じゃんか」
聖が眉をひそめる。蒼の態度を不審に思ったのだろう。
蒼は食べかけのハンバーガーを置くと、
「お見せしたいものがあります」
脇に置いていたバッグから何かを取り出す。
その何かとは、四つのマンスターボール。
「それがどうした?」
聖が頭にクエスチョンマークを浮かばせているが俺は蒼がマンスターボールを取り出した意図に気付いている。というか気付かない方がおかしい。亜衣と顔を見合わせる。なになに? といった様子で目をパチクリする亜衣。彼女も気付いてないらしい。
俺の予想通りの答えを蒼が口にする。
「昨日までに捕またポケマンです」
「なにィ?」
本当に気付いてなかったようで、聖は露骨に驚いた顔を見せる。一方蒼は見せびらかすわけでもなくバッグにしまう。その行動一つでお互いの関係性が見て取れた。
「聖」蒼が聖に微笑みかける。そこには見下したような様子も、勝ち誇った感じもない。「濡美ジムのリーダーは強力なポケマンを所持していると聞きます。どんなタイプを出してくるかもわかりません。挑戦する気ならどんなタイプにでも対応できるよう準備しておかないといけませんよ」
「わ、わかってらぁ!」
絶対わかってなかっただろうが、蒼への反発心からか聖は声を張り上げる。蒼が言っている事は確かに正論だ。前回二人が対決した時、最初聖は水タイプのかめるに対し炎タイプの火影を出した。そして相性の悪い火影がかめるに倒される寸前まで追い込まれた。おそらくは同じレベル同士であろう二人の対決でもそうなったのだから、ジムリーダーとの対決ではちゃんとした知識を身に付けないと勝つのは厳しいだろう。
「ねえねえ蒼ちゃん」
ファーストフード店なのに自前の金平糖を食べている亜衣が蒼に尋ねる。
「ポケマンってどうやって見つけるの? パッと見ただけだと普通の人と見分けつかないよね?」
それもそうだ。蒼は四人も捕まえたというが、一体どこで探してきたのか。これは聖にも言える事だが、数多くの一般人の中から一握りのポケマンを見つけるのは至難の業に思える。だが俺は聖に見つかり、捕まえられた。どうしてなのだろう。
蒼はあむあむとハンバーガーを頬張りながら聞いていたが、
「そんなの簡単です」
「そうなの?」
「ポケマンは捕まえられていなくても、普通の方にはできないような特徴があります。髪の毛に炎が付いていたり」火影だ。「何もない場所から大量の水を噴射できたり」かめるだ。「空を飛べたり」鳩山元首相だ。「光宙さんだって、電気を使えたでしょ?」
「……」
俺が明確に電気を扱えるようになったのは捕まえられる数日前の事だが、考えてみればそれ以前から、静電気体質という形で予兆はあった。夏でも静電気が起こる男など町には俺くらいしかいなかっただろうし、一般人にはただの変わった人間程度にしか思われなくてもポケマントレーナーには一発で見破られていたのかもしれない。
「じゃあ、街に行ってそういう風変わりな人を探すの? それでも効率悪くない?」
「それも簡単です」
亜衣の質問に蒼が答える。
「ポケマンは目立ちますから、聞き込み調査などをするんです。何人かに聞けば大抵はその街にいるポケマンがわかります」
まあ髪の毛に炎付けている少女が目立たないはずはないな。
「では私はこれで失礼します」
蒼はいつの間にかハンバーガーを食べ終えていた。静かに立ち上がり、バッグを手に取り歩き出す。
「……濡美に行くのか?」
「もちろん」
彼女達が向かうとしたらそこしかない。
「聖」
蒼が立ち止まる。聖は返事をしない。
「今なら田際の森美術館などに行かれてはどうでしょう。私の情報ではその美術館によく訪れるポケマンがいるらしいですよ」
「そうなのか?」
代わりに俺が答える。聖の顔は今、ライバルに塩を送られている事への悔しさで歪みきり、ストローを噛み千切らんばかりで咥えている。小学生がする表情ではない。
「よければ、そちらへ行ってみてください」
最後にニッコリ笑って、こちらに背を向ける。彼女が店を出るまで俺は視線で見送る。
「……」
彼女は聖にヒントをくれた。涼しげな顔をしといて、彼女も本当は友達思いの良い奴なのかもしれない。
「……行ってみようぜ、美術館」
「ぐぬぬ……」
不機嫌な聖を立たせるのに三十分はかかったが、それでもなんとか一緒に田際の森美術館へ行く事になった。
田際の森美術館は俺達が昼食を取ったところから更に外れた、静かな場所にあった。駅からも遠く、どちらかといえば車で来るようなところにあるだけあって、外から見ても閑散としている。
「……本当にここにポケマンが?」
とてもじゃないがそんなものがいるようには見えない。まさか蒼に騙されたんじゃないだろうか。
「行くぞ」
それでも聖は構わず中へと入る。ここまで来たのだから中を確かめずに帰るのは愚かだ。入館料も無料らしい。
「私、美術館に入るの初めてかも」
亜衣が周りをキョロキョロと見渡しながら若干高揚した声を出す。俺も初めてだ。イメージどおり美術館の壁には様々な絵が飾られているが、美術的なセンスのない俺には何がどういう価値を持っているかなど当然わからない。絵を見に来たわけでもないので気にしない。
「聖ちゃん、どこかに行っちゃったね」
先に入った聖の姿は俺達の前にはない。おそらく今頃は美術館にいるかもしれないポケマンを探し回っているのだろう。奴にとって蒼に捕獲数で負け、しかもヒントまで貰ってしまったのは屈辱以外の何物でもないはずだ。なんとしてでもここでポケマンを捕まえたいに違いない。
どれ、俺も探してやるか。
そう思い歩き出そうとしたが、何かの力に引っ張られる。
引っ張られているのは俺の右手で、引っ張っているのは亜衣の左手だ。
「……どうしたの」
亜衣の顔を見てみると、なんだか、頬が赤い。
「ううん、どうもしないんだけど……」頬を赤らめたまま、亜衣が言う。「二人きりだな、って思って」
「……そうだね」
亜衣の様子が少しおかしい気がする。それに俺もちょっと変である。亜衣に手を握られて、潤んだ瞳で見つめられて、少し微笑まれたりしちゃったりして、心臓がいつもより鼓動している気がする。
なんだこの胸の高鳴りは。
「最近、二人きりでいられる時間があまりないよね」
「そう、かも」
亜衣の唇に目が行く。今はやたら艶っぽく見える。美術館という普段は行かないような特殊な環境もあってか、亜衣にいつもとは違う印象を受ける。
手の汗ばみを感じる。
「ねえ、光宙くん」
更に、亜衣が顔を近付けてくる。
「私達、まだ幼なじみだよね」
「まだもなにも……」
ずっと幼なじみである事には変わりない。それは亜衣もわかっているはずだが、それでも敢えて“まだ”と付けた、その真意はなにか。俺はそれをわかっているような気がする。
「……亜衣ちゃん」
「光宙くん……」
俺達は見つめ合う。しばらくした後、亜衣がゆっくりと瞳を閉じる。雰囲気に飲まれている事は自覚している。だがここで、今ここで、俺は退いても良いのか。ここで退いては亜衣に恥をかかせる事になりはしないか。据え膳食わぬは男の恥ということわざもある。It is time to set in when the oven comes to the dough.(かまどの方がパン生地の所へやってきたら、パン生地をかまどに入れてやる時だ)。
俺は左手を亜衣の肩へ置く。
亜衣の肩が少し震える。
「いくよ……」
「……うん」
そして俺はゆっくりと亜衣に顔を近付け。
自分の唇を亜衣の唇の方へと持って行き。
煙に包まれ。
何も見えなくなり。
煙が晴れた頃には目の前に亜衣はいず。
「……なにしてんだ、おまえ」
呆れた様子の聖が傍にいた。
「……」
確かに聖には、右手を左手をおかしな位置に置き、顔を突き出し唇をすぼめている俺の姿は、とても滑稽なものに見えているだろう。
認めよう。
恥ずかしいと。
「……何の用だよ」
一応聞いてみるが、俺をマンスターボールで呼び出したなら用事は一つしかない。
「あれを見ろ」
言われたとおり、俺は聖が指を差している方を見遣る。
そこには、一人の少女がいた。
少女というよりは女性と表現した方が正しいかもしれない。俺よりは確実に年上に見える。高校生くらいだろうか。まず目を引くのは大きくて丸いメガネだ。緑がかった髪の毛はボブ状にカットされていて、髪にはこれまた大きなリボンを着けている。高校生だって夏休み中なはずだがなぜか制服を着ていて、胸の辺りがこんもり盛り上がっている。遠目から見ても巨乳であるとわかる。
女性はこちらに気付いてはいない。壁に飾ってある絵を、何も言わずに眺めている。
「……あの人がポケマン?」
「間違いない」
そう言うと聖は女性にポケマン図鑑を向け、ボタンを押す。
すると俺や鳩山に向けた時と同様、図鑑が機械的な声で喋り出した。
『紀谷端とら いもむしポケマン みどりの かみに おおわれている せいちょうすると いとをかけて サナギに かわる』
「な?」
「……」
図鑑が説明したって事は間違いなくポケマンだろう。紀谷端とらっていうのがあの女性の名前なのか。しかし芋虫て。ただの悪口にしか聞こえないが。
「じゃあ、あれが蒼の言っていたポケマンか」
蒼の名前を出した途端、聖の身体が強張る。よほど悔しかったのだろうがわかりやすい。
それでもなんとか口を開け、
「……無駄口叩いてないでいくぞ」
言うが早いが歩き出す。行動力だけは一流である。よくそんな思いきりよく知らない人間に近付けるものだ。仕方がなく俺も着いていく。
相手がポケマンで、俺が呼び出されたとあれば、これからやる事は一つしかない。
「紀谷端とらだな」
「え?」
聖が声をかけると、紀谷端とらと呼ばれた女性は驚いた様子で振り向く。まあそういう反応になるよなと思う。妙な親近感を感じる。
少しの間目をパチクリされていた紀谷端とらだったが、聖と同じ高さまで身をかがめると、
「どうしたのかな? 迷子?」
かがむとさらに胸が強調されるが、本人は気にしている様子がない。
「違わい!」昼からストレスが溜まっているからか、些細な事でも聖はキレる。「紀谷端とら、おまえを捕獲しにきた! ここで勝負だ!」
「私を?」
紀谷端とらはいまいちピンときていない。最初はしょうがない。かつての俺を見ているようだ。指の骨を鳴らす。せっかく亜衣と良い雰囲気だったのに邪魔されてまでここに来たのだ。紀谷端とらには悪いが、全力でいかせてもらう。
俺は一歩前に出る。
そして、聖はマンスターボールを掴み、
「火影、きみに決めた!」
マンスターボールを叩きつけた。
「……お約束か何か?」
ていうかだったら呼び出すなよ。
「あなた……」
煙の中から登場した火影を見て、紀谷端とらが息を呑む。まあ髪の毛に炎を付けている人間がいたら普通にビビるよな。火影はいつもどおりなんでもないようにボーっとしているが、所見の人から見れば一大事なのだ。紀谷端とらもきっとそういう風に感じているのだろう。
だが、紀谷端とらが次に発した言葉は俺の予想とは違った。
「あなた……ポケットマンスター?」
「……え?」
思わず声が出てしまったのは他ならぬ俺だ。
紀谷端とらはポケマンの存在を知っているらしい。
「そう」
火影が頷いているんだがいないんだがわからないほど小さく首肯すると、紀谷端とらの瞳が急に輝き、両手を合わせ、
「やっぱりそうなのね!」
「な、なんだこいつ」
さしもの聖も少々戸惑っている様子だった。
その聖の手を紀谷端とらが取る。
「いいわ、私を捕まえて」
「……マジで言ってるの?」
思わず尋ねる。自分からポケマンになりたがる奴なんて見た事ない。そもそもポケマン自体まだあまり見た事がないんだけど。
「ええ」力強く紀谷端とらが頷く。「私、前から誰かのポケマンになりたかったの!」
その目は本気だった。
火影は相変らずボーッとしていた。
今日は移動してばかりだ。朝にポケマンセンターで通信機を破壊し、午前中には鳩山と戦った。昼にファーストフード店でハンバーガーを食い、それから田際の森美術館で紀谷端とらと会い、
「ごめんね、麦茶しかないの」
「……あ、いえ、大丈夫っす」
客人が飲み物にケチをつけられようか。トレイで麦茶を運んできてくれた紀谷端とらに軽く頭を下げる。制服から着替えているが、なぜか緑に染め上げた和服を着ている。それについて何か聞けるほどの仲でもない。
周囲を見渡す。紀谷端とらの家に来て通されたのが今の客間だ。テレビに出てくるような広い和室で、そこから綺麗な庭園も見える。こんな場所来た事ない。厳かな雰囲気につい緊張してしまう。
緊張する理由は他にもある。
「……あのさ、火影」
戦闘中以外で初めて火影と一緒にいる気がする。それも今日はなぜか俺の右隣に座っていて、
「なに」
肩と肩が触れ合うほどに近い。ノースリーブの服を着ているからか彼女の柔肌が直接感じられる。美人が至近距離にいるだけでも困るのに、更に温かい肌、大きな胸が目の前にあるのは逆に拷問である。
「……いや、なんでもない」
この広い空間で、彼女はなぜこんなに寄ってくるのか。当人はいつもと変わらぬ無表情を貫いているが。
左隣には亜衣もいて、こちらはなんというかとても、
「むむむむむむむむ~……」
むくれている。
「どうしたの、亜衣ちゃん」
「ふーんだ」
小声で話しかけるが、目を合わせるどころか返事もしてくれない。さっきからずっとこうだ。そのくせ火影と同じく肌が触れるくらい近い距離に座っているから意味がわからない。亜衣が不機嫌な事など今までなかったのでどうしたらいいのかもわからない。
キスできなかったからだろうか。しかしそんな身も蓋もない事、面と向かって聞けるわけがない。
それにさっきから彼女は大きな携帯ゲームで遊んでいた。スケルトンのボディに面積の半分を占める大きな画面、十字キーに二つのボタン。
画面下にはGAME BOYと書かれている。
「それで、わざわざここに呼んだ理由はなんだ?」
客間の主賓席に堂々と座っていた聖が口を開いた。
「ポケマンになりたいって事と何か関係があるのか?」
――私、前から誰かのポケマンになりたかったの!
田際の森美術館で聞いたセリフだ。あの時の彼女の目は確かに本気だった。自らポケマンになりたがる気持ちはわからないが、紀谷端とらなりの理由があるのは察しがつく。
出会ってから現在に至るまで、聖はまだ紀谷端とらを捕まえてはいない。
「ええ」
全員に麦茶を配り終えた紀谷端とらは、聖の真向かいの席に腰を下ろす。
「私自身を成長させる為に、どうしても必要な事なの」
「成長?」
俺の質問に無言で頷いた紀谷端とらは、次に手のひらを俺達に見せる。何の理由もなくそんな行動は取らないだろう。俺も聖も首を伸ばして手のひらを見つめる。亜衣は火影にGAME BOYの画面を見せつけている。身体を乗り出してるしそのせいで胸が俺の肩に当たってるしドキドキするし凄い気になるからやめてほしい。チラッと見てみる。GAME BOYには誰かのセリフのシーンが映し出されている。指が一部の文字を隠しているが、こう読めた。
『ひとの とったら どろぼう!』
「……」
頬を不機嫌に膨らましながら画面を見せつけている亜衣と、見せつけられながら表情を崩さない火影の無言の対立はさて置いといて、俺はまた紀谷端とらに視線を移す。
「いきます」
ちょうど、紀谷端とらが何かを始めるところだった。目を瞑っている。何をやるかわからないが集中しているのだろう。俺も集中して見る事にする。亜衣はまだ俺に胸を押し付けている。亜衣の胸はあってないようなものなので集中すれば忘れられる。だが火影のとなれば話は別だ。
「これ」火影が一言呟き、亜衣同様身を乗り出す。「逆」
身を乗り出したという事は必然的に俺と身体が密着してしまうということになり、火影のたわわな胸が俺の顔に押し付けられる。弾力を感じる。俺が赤ん坊の頃、母親の乳房に顔を埋め乳を飲んでいた記憶が蘇る。
そうか、これは――母性。
「逆」
火影は俺に構わずGAME BOYの向きを逆にしている。
つまりは亜衣に、
『ひとの とったら どろぼう!』
を見せつけているわけで。
「がーんっ!」
亜衣がわかりやすく反応している。いや、そこはショックを受けなくてもいいだろう。というか何なんだこの諍いは。全然集中できない。頼むから紀谷端とらが何をしようとしているのか見させてほしい。もう無理矢理にでも見ちゃう。
再度紀谷端とらを見た俺は、そこで、
「♪~♪」
などと唱えている紀谷端とらと、
紀谷端とらの手のひらから出る細い糸を目撃する。
ただ出ているわけではない。どういった仕組みなのか、彼女の手から出る糸はまるで意思を持っているかの如く、テーブルの上に何かの形を作り上げている。そして瞬く間に一つの作品と言ってもいいそれを完成させていた。
「……これは」
テーブルの上に現れたるは、白い糸で作られた俺と亜衣と火影。
亜衣と火影が俺に覆いかぶさっているように見えるそれは、まさしく今の俺達の状況を表現したものだ。
「しゅ、しゅごい……」
「確かに」
気付けば亜衣も火影も、紀谷端とらが作った糸の集合体に目を奪われていた。そうされるだけの魅力がこの作品にはあった。
まるで芸術品である。
「これがおまえの技か」
一人冷静に眺めていた聖が、ニヤリと笑う。
「いもむしポケマンって評価も妥当って事だ」
「私の家はね」紀谷端とらが目を開け、顔を上げる。「代々、糸を紡いでこういったものを作ってきたの。お母様もお婆様も糸専門の芸術家。私もいずれそうなりたいと思っている」
糸専門の芸術家。
そんなジャンルがあるのか。
「それが誰かのポケマンになりたい理由ってわけか?」
聖の言葉に納得しかける。紀谷端とらの母親も祖母もポケマンであると見て間違いはないだろう。彼女もその代々伝わる紀谷端家の特性を活かして芸術の道に進みたい。そこまではわかった。
「でもそれって、誰かのポケマンになる必要あるんですか?」
ポケマンは捕まえられなくてもポケマンだ。逆に捕まえられるとちょくちょく戦闘に借り出されなくてはいけなくなる。時間を無駄に取られるのは芸術家にとって一番痛手であるように感じるけれど。
「あっ」亜衣が何かを閃く。「もしかして、誰かのポケマンになるのがこの家のしきたりなんですか? 野良ポケマンのままだと芸術家として認めてくれない~、とか?」
「……おお、なるほど」
それなら納得できる。いかにもありそうだ。さすが亜衣は勘が鋭い。彼女と目が合い、笑い合う。どうでもいいけどそろそろ少し距離を開けてほしい。
「ううん、違うの」
しかし紀谷端とらは首を横に振る。
「お母様もお婆様も誰にも捕まえられてはいない、野良ポケマンよ。先祖様も誰かに捕まえられたという記録はない。だから、これは私個人の意思なの」
違うらしい。理由としては一番もっともっぽかったのに。それ以外に理由があるのかという気もする。家のしきたりでもないのにわざわざ面倒臭い選択肢を取りたがる理由って、一体なんだ。
「気持ちわかる」
そう口にしたのは意外にも火影だった。
「理由は違うけれど、私も望んでポケマンになったから」
「……そうなの?」
初耳である。一緒に過ごした時間が少ないから当然と言えば当然なのだが、受動的に見える火影が自分からポケマンになったというのは少し信じられなかった。
そういえば忘れていたが聖に捕まえられる少し前、火影に似たような事を聞いた覚えがある。
――キミは聖の命令のまま動いているが、それはキミが望んでやっている事なのか? なぜ戦い合わねばならない。キミは何か弱みでも握られているのか?
火影は誰かと戦うのが好きなタイプにも見えない。きっと何か特別な理由があるはずだ。それに火影は言いかけていた。
――私は、聖の
「……」
あの時は結局聞き出す前に終わってしまったが、今なら話してくれるかもしれない。
「私は、進化したい」
だが理由を喋ったのは火影ではなく紀谷端とら。
細く白い手を、力強く握る。
「私はお母様もお婆様も、それに先祖様を超える芸術家になりたい。そうならなければ目指す意味がないと思っている。その為には、糸を出せる特性をもっと磨かなきゃならない。ううん、糸を出すだけじゃない。強くなって、進化できれば、もっともっといろんな技を使えるようになる。頑張ったら蝶になれるかもしれないわ。念力や様々な粉、超音波、光線なんかも出せるようになる。そうなれば芸術の幅がもっともっと拡がると思うの! だから、私は羽根を手にして、それから」
「あ、ちょっとすんません」
力説しているところ大変申し訳ないが、手を挙げて遮らせてもらう。
「進化って、観念的な意味ではなく? まさかそれもポケマンの謎の一部ってわけじゃないですよね」
初めは紀谷端とらの口にする「進化」を自身のセンスに磨きをかける的な意味で捉えていたが、どうやら少し違うっぽい。蝶になるとはどういった事か。確かに芋虫は成長すれば蝶になるが、紀谷端とらはいもむしポケマンであって芋虫そのものではない。自分を過剰に重ね合わせているのか、それとも進化というのがポケマンとして意味のある事なのか。
「ポケマンは進化をする」
答えたのは聖だ。
「進化の形はポケマンによって様々だが、とらの場合は」もう下の名前で呼び捨てかよ。「まず蛹になり、羽化して羽根と触覚が生えるだろう。ポケマンは能力的にも形態的にも進化できるんだ」
「……人間なのに?」
「人間なのに」
おかしな話だ。もう今更驚く事でもないだろうが。
「……」
俺は自分の手を見る。聖のいう進化がポケマン全体に言える事だとしたら、俺も進化できるという事だろうか。としたら、俺はどのような進化をするのか、またはしてしまうのか。進化した場合、俺はどうなるのか。
考えると、少し怖い。
「大丈夫」亜衣が俺の左手を握る。「光宙くんがどんな進化しても、私は変わらないよ」
「……亜衣ちゃん」
「光宙」火影は俺の右手を握る。「一緒に進化すれば、怖くない」
「……火影」
俺は幸せ者だ。言っている意味はよくわからないけど。
「むむ? 火影ちゃん、それどういう事?」
「そのままの意味」
「だから~っ」
そしてまた始まる。俺の手を握ったまま。
「聖ちゃん、お願い!」
亜衣と火影の小競り合いを無視して、紀谷端とらが聖の前まで来て手をつく。
そしてあろう事か、五歳以上は歳が離れているであろう聖に向かって、頭を下げた。
俺が人生で初めて目にする、土下座だ。
「私をあなたのポケマンにして! 聖ちゃんが呼び出したい時に呼び出してもらって構わない、私はあなたに忠誠を誓い、従属するわ。あなたの役にきっと立つ。命を懸けたっていい! 私は本気よ。所持ポケマンになれなかったら芸術家の道を諦める覚悟があるわ。だからお願い」
顔を上げる。
その瞳は燃えている。
「私をあなたのポケマンにして」
「……いいだろう」
聖が返事したのは、少し間を取っての事だった。
「本当!?」
紀谷端とらの顔がパアッと輝く。聖は立ち上がり、少し歩いて、俺達に背を向け、庭園を眺める。
その背中は何かを言いたげだ。
「……良かったな聖。ポケマンゲットできたな」
褒めてもらいたいのだろう。他に誰も言わないので、俺が言ってやる。素直じゃない奴だ。それでもきっと、聖は喜んでいる事だろう。
だが聖から返ってきたのは、俺の予想とはまったく違うものだった。
「あたしが出す試験に合格したら、ポケマンにしてやってもいい」
試験。
なんだそりゃ。
「あたしのポケマンになりたきゃ行動で示しな!」
勢い良く聖は振り返る。
その顔は――楽しそうに笑っていた。
「……てか、試験って何だよ」
「おい、鳩山」
「はい?」
政治家を辞めたら暇なのかはたまたやっぱりそっくりさんなのか、鳩山は今日も田際界隈をうろついていた。午前中と同じように声をかけた聖に対して、午前中と同じような返事をしてくる。
「なんだ、またあなた達ではありませんか。また私を捕まえに来たのではありませんか?」
俺達へと向き直り、ぎょろぎょろした目で見つめてくる。笑ってんだか笑ってないのかよくわからない表情。ちょっと怖い。
「何度やっても無駄ではありませんか。私とあなたのポケマンでは実力が違いすぎるのではありませんか」
軽く挑発されている気がするが口調のせいであまり怒る気にもなれない。
それに、今回戦うのは俺でも火影でもない。
「戦うのはあたしのポケマンじゃない」聖は不敵に笑い、隣にいた紀谷端とらの尻を叩く。「この野良ポケマンさ」
「よ、よろしくお願いします」
またも制服に着替えている紀谷端とらは鳩山を前にして多少緊張している。それとも他の理由かもしれない。
なにせこれは試験だ。
「……どういう事ではありませんか?」
鳩山も野良ポケマンを紹介されて、面食らっている様子だ。
「ポケマントレーナーとならいざ知らず、なぜ私が野良ポケマンと戦わなければならないのでありませんか」
鳩山の反応は正しい。さっき対戦したポケマントレーナーがやってきたら、普通はまた捕まえに来たと思うだろう。第一野良ポケマンがトレーナーと一緒にいるのがおかしいのだ。俺もまだこの状況をあまり受け入れられてはいない。
それでも、聖は自信満々だ。
「これは試験だ」
「試験?」
鳩山が首を傾げる。
それに構わず、聖は大きな声で言いきる。
「紀谷端とらと鳩山! 勝った方をあたしのポケマンにしてやる!」
そう。
これが聖の思いついた“試験”の全容だ。
「ちょ、ちょっと待ってほしいではありませんか」鳩山が慌てたように両手を振る。「私はあなたのポケマンになりたいだなんてただの一度も」
「ええいうるさい! あたしがやるといったらやるんだ~っ!」
「……」
鳩山の気持ちは充分に理解できる。紀谷端とらの試験とやらに鳩山を巻き込む理由なんてまったくと言っていいほどにないからだ。戦わせたいのなら俺か火影でも良かったはず。それでも聖は鳩山を選んだ。その理由は俺にもわからん。
だが、今更喚いても仕方のない事だ。
政局同様、人生は理不尽なものなのだから。
「試験開始だっ!」
いきなり聖が宣言して、紀谷端とらが飛び出す。速攻をかけて主導権を掴もうとしているのだろう。
「♪~♪」
紀谷端とらは走りながら手を前にかざす。さっきも見たが手から糸がニュルルと出てくる様は、眉目麗しき女性が出しててもそれなりに気持ち悪い光景である。糸は瞬く間に鳩山のいる場所まで到達し、その身体に巻きついていく。
「とらさんいっけーっ」
隣で亜衣が腕を振り回しながら紀谷端とらを応援している。今は機嫌が良いようだ。しかも饒舌で、聞いてもいないのに解説してくれる。
「この攻撃、飛行タイプには効果があるよっ」
「……そうなの?」
会話している間にも糸は鳩山の身体にグルグル巻きついている。何重にも巻きつき、鳩山の腕や脚を拘束していた。
「ググッ……ではありませんか……!」
顔には巻きついてないが苦しそうだ。必死に腕を動かしているようだがほどけないらしい。これでは午前中のように空を飛ぶ事もできないであろう。その様子を見て俺は気付く。
「……糸が邪魔で飛べないんだ」
空を飛べなければ攻撃を繰り出す事もできない。
つまり紀谷端とらは相手の攻撃を封じたのだ!
「糸を吐く攻撃は相手の素早さを下げられる」亜衣は人差し指を立てながら、「素早さで勝負する飛行タイプのポケマンには、とらさんの糸を吐く攻撃はとてつもなく有効なはずだよ」
「……なるほど」
頼りの腕を封じられれば鳩山はただの老人と一緒だ。こうなっては外交にも行けない。
更に言えば、鳩山は動けなくても紀谷端とらは動ける。
「♪~♪」
紀谷端とらは糸で固定した鳩山にダッシュで駆け寄ると――
鳩山の腹部めがけてタックルをかます!
「体当たり、決まったーっ」
亜衣が指を鳴らし、聖がニヤリと笑いながら頷く。火影だけは表情を崩さない。まあ火影はこういう性格だからとこの時は見逃していた。
十数秒後、彼女の呟きをキッカケに形勢は一変する。
「効果は抜群だっ」
亜衣の言葉どおり、鳩山はタックルされたダメージか地面に這いつくばり悶えていた。植樹帯に転がっていってしまった為、自慢の高級そうなスーツも汚れてしまっている。冷静に考えると彼はいい歳なので、例え女子高生のタックルといえども身体に堪えるだろう。
「降参して下さい」紀谷端とらは鳩山の前に立ち、悠然と見下ろしている。「あなたにとってもここで退くのが得策のはず。数々の修羅場を潜り抜けてきたあなたならわかるでしょう?」
俺からは見えないが、おそらく今は理知的に丸メガネを光らせているはずだ。
彼女の言葉は正論だ。鳩山にはこれ以上戦うメリットがない。勝ったら聖のポケマンになれるらしいが、そもそも鳩山はそんな事を望んではいない。降参したって死ぬわけじゃない。常識的な人間なら、そのくらいはわかるはずだ。
「さあ!」
彼女の試験合格はもう目前まで来ていると言えた。
火影がポツリと呟いたのはこの時だ。
「――ない」
「……え?」
あまりに唐突だったので、火影が何を言ったのか聞き逃す。
火影が俺を見つめる。その真摯な眼差しに多少たじろぐが彼女は気にせず、
「彼の目は死んでいない」
「どういう事?」
尋ねたのは亜衣で、火影はそれ以上言葉を紡がなかった。
無視、したのではない。
「まずは――」
亜衣が尋ねた直後。
「――政権交代!」
鳩山が植樹帯の土を、縛られた両足で思いきり蹴り上げた!
「きゃあっ!」
ただの老人が蹴り上げたとは思えない、凄まじい量の土や砂が紀谷端とらに襲いかかる。植樹も剥ぎ取られたかのように土から飛び出す。彼女はたまらず手で顔を守るしかない。糸は手から出ている。
一瞬、縛りが緩くなったのだと思う。
「政権交代!」
鳩山が飛び跳ねるように立ち上がり、両手両脚を勢い良く広げる。
広げられたという事は即ち、巻きついていた糸がバラバラに破れ落ちた。
「砂かけ攻撃を使ったのね!?」亜衣も驚いている。「砂かけ攻撃は相手の命中率を下げる効果を持つの。でもまさか足を縛られながら砂をかけるなんて……」
それにも驚きだが俺にはもっと信じられない事がある。
「なぜです鳩山さん!」
聞かずにはいれなかった。
「あのまま負けても良かったはずでしょう!?」
その方がお互いの為に良かったはずだ。
だが、鳩山はフラフラとしながらも、まっすぐに俺を見る。
「決めたのではありませんかっ……!」
死んだ魚のような、しかし、決して死んではいない目で。
「私はもう諦めない……! 決して途中で投げ出したりはしないと! あの日、心に決めたのではありませんかッ!」
あの日。
それがどの日を指し示しているのか、俺にはなんとなくわかる。
「まずは、政権交代!」
鳩山は空を飛ぶ。
束の間の栄光、そして挫折した過去を振り払うかの如く。
「とらさん逃げてっ」
亜衣が叫ぶが、逃げる余裕など今の鳩山が作ってくれるはずもない。
鳩山は午前中俺と対戦した時のように、伸ばした腕で紀谷端とらへと滑空していき、ろくに防御も取れていない彼女に向かって攻撃を開始する!
「政権交代! 政権交代! 政権交代! 政権交代! 政権交代! 政権交代! 政権交代! 政権交代! 政権交代! 政権交代! 政権交代! 政権交代! 政権交代! 政権交代! 政権交代! 政権交代! 政権交代! 政権交代! 政権交代! 政権交代! 政権交代!」
何度も、何度も、鳩山は空中ラリアットで紀谷端とらを攻撃する。鎖骨、背中、胸、腰、脚。紀谷端とらは成す術もない。
「うぅっ……」
終いには、膝を突いてしまう。
「とらさん!」
思わず駆け寄ろうと走り出す。
だが、
「待て」
今まで黙って見守っていた聖が、手を挙げて俺らを制した。
「なんで止める!」
「助けるのはなしだ」
聖は至って冷静だ。その気持ちが俺には理解できない。あのままやられれば、とらは脱糞する代わりにオーガニズムに達してしまう。今日知り合ったばかりの女性のそんな姿を喜んで見れるほど俺は擦れてはいない。聖は平気なのか?
こうしている間にもとらは鳩山に空中ラリアットを食らっているというのに。
「ここで助けを請うようなら、とらは要らん」
「……聖」
彼女が彼女なりの筋を通そうとしているのはわかる。
しかし、このままではもう。
「政権交代!」
とどめの一発とばかりに空中ラリアットを見舞うと、とらはついにその場に倒れこんでしまった。まだ気絶してはいないようだが、制服はもうボロボロで、メガネはひび割れ、なんとか肩で息をしているその様は、文字通り虫の息と言ったところ。
俺も、亜衣も、声を出す事もできない。
「勝利とは、素晴らしいものではありませんか」
先程とは真逆の状況である。だがとらを見下ろす鳩山もノーダメージというわけではない。高級スーツはところどころが破れ、顔も汚れている。二人のその様子は激戦を伺わせた。
「では」鳩山が再度腕を広げる。それを見ても聖は動かない。「さらばではありませんか!」
ふわりと宙に浮き、腕をはばたかせながら飛び立っていく鳩山。俺が午前中見た光景と同じだ。鳩山が逃げていくが聖は追おうとしない。確か勝った方をポケマンにする試験じゃなかったのか。
捕まえないのならそれはそれでいい。
今気になるのは、
「……もう、とらさんのところへ行っていいか?」
戦いは終わった。鳩山が勝ち、とらは負けたのだ。彼女は一歩も動けない、それどころか起き上がれる事すらできないように見える。さすがに助け起こすぐらいしてやってもいいだろう。
試験に合格する事はできなかった。俺達の仲間にはならない。
それでも、俺達は友達になれた。
友達を助けに行くのは人間として当たり前の行動だ。
「行こう、光宙くん」
亜衣も同じ気持ちのようだ。俺の手を取り、頷いてくる。俺も頷き返し、二人で走り出す。
かけがえのない、友人のところへ――。
「ちょっと待て」
それを遮ったのは聖だけではなかった。火影も無言で俺達の前に立ちはだかる。
「なんでだ!」今度こそ俺の怒りが頂点に達しそうだ。「おまえらは友達を見捨てるのか!」
俺の行く手を遮るというのなら、たとえ女子小学生だろうと容赦はしない。納得の行く説明がなければ力ずくでも行く覚悟がある。
「光宙」
火影が俺に声をかける。今は彼女のいつもどおりの冷静さにも苛立つ。
「まだ終わってない」
「終わってない?」
とらを見る。倒れたまま動かない。どう見たって終わってる。それに、
「鳩山はもういないじゃないか。戦いは終わってるだろ」
「終わってないぞ」
聖までもがそう言う。いよいよ実力行使をするしかない。亜衣が心配そうに俺と聖を交互に見ているが、彼女にも俺の怒りを治める事はできない。
「落ち着け」それでも聖は笑っている。「よく見てみろ」
とらを指差す。どういう事だ。俺はとらを見てみる。さっきから何も変わった事はない。起き上がる気配もないし、もしかしたら気付かないうちにオーガニズムに達してしまったのか? だがオーガニズムの意味を知らなかった聖がそんな事に気が付くだろうか。
「まだ終わってないんだ」
聖がニヤリと笑う。その時、俺は気付く。
とらの右腕が、ほんの少しだが上がっている。
しかし、それだけだ。
腕が上がっているのがどうしたというのか。
「アレがどういう……」
その時。
とらが右腕を、まるで何かを引っ張るように後ろへと伸ばした。
そして。
「ぷぎゃっ!?」
鳩山が、叩きつけられるようにして地面に落ちてきた。
「うわッ」
目の前で人が落ちてきた経験など当然だが今までない。思わず声が出る。鳩山は漫画のようにうつ伏せに倒れたままピクピクしている。しかし奴はなぜ落ちてきたのか。
「……これは」
おそるおそる近寄ってみて、原因がわかる。
鳩山の足首には――糸が巻き付いていた。
そしてその糸は、とらの右手と繋がっている。
「攻撃、されている時」見るからに満身創痍だが、それでもなおとらは立ち上がる。「防御できない、代わりに、こっそり巻きつけて、おいたんです」
「なるほど、ではありませんか」
プルプル震えながら腕で身体を持ち上げ、膝を突く。目を逸らしたくなるような一人の老人の姿がそこにはあった。
「ですが、まだ私も立てるではありませんか」
鳩山がゆっくりと立ち上がる。鼻血が出ているが拭こうともしない。その目はまるで猛禽類が如くとらを睨みつけている。
「お互い体力はほとんど残ってないではありませんか」
とらは微笑む。
「そうですね。おそらくは、あと一撃」
次の一回で勝負は決まる。
「潔くいこうではありませんか」
鳩山が構える。
「はい」
とらもそれに続く。
「なんかもうポケモ……くしゅっ」亜衣が小さくくしゃみをする。「……じゃないみたい」
「セルフカバー」
火影が呟く。
「……」
俺はもう、固唾を呑んで見守る事しかできない。
「まずは、政権交代!」
目の前の光景が、スローモーションのように再生されていく。
「♪~♪」
両者がそれぞれ叫びながら、相手へと向かっていく。鳩山は両手を広げ顔を前に突き出し、とらはラグビーのように全身でぶつかりに行こうとしている。二人はもう老人でも、女子高生でもない。戦士である。ウォーリアーであるとここで宣言させてもらいたい。
どちらが勝ってもおかしくない。
また、どちらが負けても恥ずかしくない。
これぞ真剣勝負。これぞ戦い。
この戦いを間近で見れて、俺は幸せ者だ。
「政権交代!」「♪」
そして、二人の影が重なり合う。
ぶつかり合う、ほんの一瞬。
次の瞬間には、お互いの攻撃でお互いが吹っ飛んでいる。
同じタイミングで、二人が倒れる。
「どっちだ!?」
誰が言ったのかわからない。多分俺だとは思う。
どちらも倒れたまま動かない。
「……この場合どうなる?」
「え」俺達と一緒に固唾を飲んで見守っていたのか、聖がビックリしたように俺を見ると、「さ、先に起き上がった方が勝者だ。何当たり前の事聞いてんだっ」
おまえ今考えたろと言いたくなるが俺は謹んで彼女に尻を蹴り飛ばされてあげる。
「とらさん起きてっ」
亜衣が叫ぶ。その声に呼応するかのように、とらが腕を地面に着く。俺も彼女を応援したい気持ちもある。だがこの戦いを通じて、俺の中にはある感情が芽生えていた。
「……鳩山」
鳩山もまた、起き上がろうとして腕で上半身を上げている。腕は震え、もう体力など少しも残っていないように見えるが、それでも立とうとするその姿に、何も思わないはずがない。
「鳩山!」
「とらさんっ」
二人同時に、片膝を着く。
同時に立ち上がれれば、試合は続行されるのだろうか。
そんな心配は、杞憂に終わる。
なぜなら二人同時に立ち上がった瞬間。
「とらさんっ……」
片一方が、前のめりで倒れこんだからだ。
「とらさんっ」
亜衣が急いで駆け寄る。試合はもう終わったから問題はない。火影もゆっくりと歩いていく。聖も追随する。
紀谷端とら――試験に合格した彼女の元へと。
「私……勝ったのね」
気が抜けたのか、とらは亜衣に支えられて辛うじて立っている状態だ。
「ああ、合格だ」
聖の瞳は潤んでいた。小学生だからその場の雰囲気に流されやすいのだろう。謎の熱戦だったから仕方がない。火影も心なしか喜んでいるように見える。ハッピーエンドだ。
「……」
それでも俺は、鳩山のところへと向かった。
前のめりに倒れたまま動かない彼の元へと行き、抱え起こす。尻の方を見ると、やはりもっこりしていた。
だが、鳩山は笑っている。
搾り出すように、声を出す。
「我、悔いは無し」
「鳩山……」
鳩山が薄目を開ける。土と鼻血だらけの顔。それでも、その顔が凛々しく見えてしまうのはなぜだろう。
「全力で戦い、全力で負けた。だから、脱糞すれど悔いは無し」
その言葉を最後に、鳩山は気絶した。
そして俺は彼を抱きながら、気付けば滂沱の涙を流している。これほど潔い脱糞姿が、かつてあっただろうか。誰が彼を笑えよう。まさに漢。漢の中の漢。
「鳩山ァ!」
俺は彼の雄姿を一生忘れる事はないだろう。
サンキュー、フォーエバー。
「とらさん!?」
俺を除いて試験合格を祝っていたとら達の方から突如、素っ頓狂な声が聞こえた。鳩山をその場に優しく置いて声がした方を見遣る。
そして俺は今から、驚愕の光景を目にする事となる。
「光が……」
気付けば呟いていた。とらを囲うように祝っていた亜衣達も、一歩後退っている。聖は驚いたように目を見開きながらも、それでもなお楽しそうに笑いながら、
「あたしも初めて目にするぜ」
とらの身体が謎の光に包まれている。
「よく見ておけよ」
聖が言う。
「これが進化だ」
「……」
虹色の発光体と化したとら。彼女の中からかどこからかわからないが、デン、デン、デン、デンデン、デデン、デデン、デデン、デデデーン。聞いた事もないような音が聞こえてくる。儀式のように見えなくもないその光景に、俺はただただ唖然とするばかりだ。
彼女は大丈夫なのだろうか。
彼女は一体どうなってしまうのか。
とらへの不安や疑問は、すぐに解消される。
「とらさん……」
虹色の光が消え、音も消え、残ったのは彼女一人。
正しくは、彼女だと思うものが一つだけ。
彼女は、大きな蛹になっていた。
緑色の殻に覆われ、彼女本体を見る事はできない。唯一メガネだけが空の上に掛けられている。声も聞こえないので、本当にいるかどうかすらわからない。近寄り殻を触ってみる。硬い。
本当にこれがとらなのか?
「とらはこの中にちゃんといるぞ」
そう言って、聖はポケマン図鑑を殻に向ける。
すると、やはり機械的な声が、
『紀谷端とら さなぎポケマン 硬い 殻に 包まれている 中身は 柔らかいので 強い 攻撃には 耐えられない』
紀谷端とら。
ポケマン図鑑は、確かにそう言った。
「じゃあ本当に……」
それでも信じられず、とらの痕跡を探そうと探し始めた。
その時。
「出合え出合えーっ!」
その声はとらでも、聖でも、亜衣でも、火影でも、鳩山でも、この場にいないはずの蒼やかめる、もちろん俺のものでもなかった。
知らない女の子が、そこにいた。
手には真剣、頭にはハチマキ、青い法被に長い袴、靴の代わりに草履。
どこからどう見ても時代を間違えている。
そんな事をまったく気にせず、良く通る大きな声で彼女は言う。
「拙者、姓を青山名を実和を申す! 赤田聖殿に挑戦しに遠路遥々馳せ参じた! いざ尋常に勝負勝負ゥ!!」
真剣をこちらに向ける彼女の眼差しは、真剣そのものだった。
「……」
聖を見る。確かさっきこいつの名前を呼んだ気がするが、なぜか聖は知らぬ存ぜぬといった風に目を逸らしている。火影はボーっとしている。亜衣は目をキラキラさせながら「わ~っ、名刀村雨だ~っ」って言っているが多分名刀村雨ではない。とらは蛹になっている。
誰も何も青山実和という少女に対して返事をしない。
しょうがないので、俺が聞いてやる。
「……え、今?」