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命の水

作者: くけここま

 おおきなザックを背負ったA氏は主に南アフリカを旅するジャーナリストである。

 彼は今、内陸の砂漠に面した村を訪れていた。

 取材の大半を終え、そろそろ隣村へ向かおうと腰を上げたA氏に知り合いであるアラブ系の男が声をかける。

「そうか、ついにここを発つのか。できれば隣村も案内してあげたいところだが、あいにく砂漠を超えるスキルを俺は持っていないんだ。行くなら専門の人間に頼んだ方がいいよ。もちろんそれなりの額を取られるだろうが、安全には代えられないだろう?」

 A氏は頷き、紹介されたラクダ乗りに連れられ村を発った。


 砂漠を歩くのは想像していたよりもずっと過酷だった。

 日中をテントの中で過ごし、日没後は歩き続ける毎日。寒暖の差が激しく、砂地の地面に足を取られて非常に歩きづらい。

 慣れない行軍にA氏の体は悲鳴を上げ、一週間を超えた辺りで体調を崩してしまった。

 隣村までもう少しという所で立ち往生してしまった事を謝るA氏にラクダ乗りの男は嫌な顔一つせずに看病してくれた。だがそのまま数日が経ち、手持ちの薬は効いてくれず、食料と水は減る一方。次第に彼も途方に暮れていくのがその表情から読み取れた。

 革袋を確認していた男はついに意を決して立ち上がった。

「このままでは共倒れになってしまいます。ここは一つ、私を信用して命を預けてもらえないでしょうか」

 真剣な表情で言う男にA氏は視線だけで問う。

「私が単身隣村へと向かうのです。ここからなら片道三日で着きます。医者と補給を手配して戻ってくるのに約一週間。残りの水と食料の三分の二を置いていくので、それまで一人で持ちこたえてもらえないでしょうか。大丈夫です。私は必ず戻ります。あなたを見捨てるような真似は決してしません」

 どうか私を信じてください、と頭を下げる男にA氏は弱々しく笑った。

 おそらく水の残量を確認してそれが最善の選択だと判断したのだろう。

 弱った体で広大な砂漠に一週間。正直なところ不安で仕方がないが、それでもこのままここで座して死を待つよりはマシに思えた。目前に迫った緩やかな死よりも起死回生の一手を選択するべきである。

 何より、この三日間看病してもらった恩がある。命と同等の価値がある貴重な水をこの足手まといに消費してもらったのだ。結果彼の命まで危険に晒してしまった。

「わかった」

 思ったよりもしわがれた声が喉から出たことにA氏は驚きながら小さく頷いた。その返事を受けて男はさっそく支度を始める。手早く荷造りをし、A氏の枕元に食料と水、毛布類を並べてくれる。A氏は男を頼もしく見上げた。

 やがて準備の整った男は出立する。彼の背中が陽炎に滲んで消えるまでA氏は体を起こしていた。A氏の孤独な戦いが始まる。


 最初の二日間は良かった。

 厳しい砂漠の環境と慣れない孤独な時間に苦しめられたが、それでもまだ体が動いてくれた。しかし三日目から急激に病状が悪化。五日目には熱に浮かされたように意識が朦朧とし、ほぼ寝たきりの状態になっていた。

 止めどなく流れる汗のせいで食料以上に水の消耗が激しい。意識的に節約したくとも耐え難い喉の渇きがそれを許さなかった。

 そして、六日目にしてついに水がなくなる。


 逆さにしても何も吐き出ない皮袋を投げ捨てた。もう言葉どころかため息も出なかった。じわりじわりと終わりに近づいていく時間がすっかりA氏を諦めさせていた。

 遠のく意識に身を任せて眠りたくとも強烈な喉の渇きがA氏を叩き起こす。ひりつく喉は焼けるように痛く、全身を掻き毟って血を啜りたくとももはや体に力が入らない。それはさながら生き地獄であった。

 暗い諦観に身を任せ、それでもわずかに残った希望に縋りじっと耐え忍ぶ。まぶたを閉じてひゅうひゅうと浅い呼吸を繰り返していると、ふいに久しく聞かない音がA氏の鼓膜を震わせた。

 サクッサクッという小気味よい音だ。

 それが砂を踏む音だと気づいたA氏は全身全霊を振り絞って声を張り上げた。

 かすれた、声にもならない声。

 時折咳き込み、口内に血の味が広がる。それすらも嬉々として飲み下し、尚も声帯を震わせた。

 A氏の願いが通じたのか、次第に大きくなっていく足音はついにテントの前で止まった。霞む視界に人影が映る。

 嗚呼。

 口内に流し込まれる液体をただただ夢中で嚥下する。

 不思議と胸中に浮かんだのは飛び上がるほどの歓喜でも自分が助かったという安堵でもなく、水を飲めるということへの感動だった。


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