第1話 プロローグ
それはエヴァンがまだ小さい頃──6歳の頃の出来事だ。
「イレーン、早く来いよ!」
「もう、エヴァン、やめようよ~」
赤髪の少年エヴァンは、村はずれの山の獣道を、木々の太い根っこを飛び越えながらひょいひょいと進んで行く。
その後ろを、エヴァンと同い年ぐらいの金髪の少女イレーンが、乗り気じゃなさそうについて行く。
「この先はモンスターが出るから行くなって、お父さん言ってたよ」
「大丈夫だって。イレーンは怖がりすぎ」
「そういう問題じゃなくて……あっ、もう、待ってよ~」
イレーンが静止しても、冒険好きのエヴァンはひとりで先に行ってしまう。
イレーンは仕方なく、彼の後をついていく。
すると、前方を軽快に進んでいたエヴァンの足元が、突然崩落した。
「──おわっ!?」
その山道、エヴァンが踏み抜いた地面の下が実は洞窟になっていて、その洞窟の天井が崩れ落ちたのである。
その結果、エヴァンはその洞窟の中へと落下することになった。
「い、てて……」
「エヴァン、大丈夫ー!?」
エヴァンが見上げると、薄暗い洞窟の中、天井に開いた直径1mほど明るい穴からイレーンが覗き込み、心配そうにエヴァンを見下ろしていた。
天井までの高さは3mほどで、まだ身長が低いエヴァンにとって、かなりの高さだ。
「もう、だから危ないって──」
イレーンが小言を言おうとしたとき、さらにピシッと、穴の周辺に亀裂が走り、
「えっ……わああああっ!」
ガラガラガラッ!
穴を覗き込んでいたイレーンがいた場所も崩れて、彼女も穴の底に落下してしまった。
「痛っ、たた~」
「イレーン、大丈夫か!?」
「う、うん。ちょっとお尻打っただけだけど……」
イレーンは天井を見上げる。
天井の穴は直径2mほどに広がっていて、そこから薄暗い洞窟内に向けて、日の光が降り注いでいる。
天井まではエヴァンやイレーンが手を伸ばしても、その2倍もの高さがあり、ジャンプしても到底届かないし、2人で肩車をしても全然無理そうだ。
洞窟の壁を登って上がれるかと期待してみても、壁はつるつるごつごつとしていて、さらに天井付近は反り返っているわけだから、とても上までは登れそうにない。
「ど、どうしよう……」
イレーンが不安そうに呟く。
エヴァンはパンパンと自分のお尻をはたいて立ち上がると、周囲を見渡した。
灰色と紺色と茶色を混ぜたような色の、堅そうな土壁に囲まれた洞窟の一室で、広さは10m四方といったところ。
その一面から、幅3mほどの通路が伸びていた。
エヴァンはその通路を指さして、イレーンに言う。
「行ってみようぜ」
「えええええーっ!? あ、危ないよ。やめようよエヴァン」
「じゃあどうするんだよ。あそこまで登れないだろ」
「そ、それは……」
言い返せなくて口ごもるイレーン。
「で、でも! そもそもエヴァンが悪いんでしょ! ──あっ、もう待ってよー!」
1人で先行するエヴァンに、結局のところ、イレーンもついていくことになる。
しかし、その子ども2人の無謀な探索行も、すぐに行き詰まることになる。
通路を進んでいくにつれて、彼らの視界がどんどんと暗くなり、やがて真っ暗闇になってしまったからだ。
先の部屋では穴の空いた天井からの採光があったが、その明かりも、部屋から離れて通路の奥に進めば、すぐに届かなくなってしまうのだ。
「無理だよ、真っ暗だよ、やめようよエヴァン~」
イレーンが、エヴァンに引っ付きながら臆病な声をあげる。
エヴァンも、いい加減に限界を感じ始める。
もうほとんど、手探りでしか進めないような暗さだ。
そうしてエヴァンたちが、引き返そうと思ったその時。
暗闇の向こうに、何か生き物の目のように見える赤い輝きが2つ、現れた。
「いやっ、いやあああああっ!」
イレーンがエヴァンにしがみついて悲鳴をあげる。
エヴァンがごくりと唾を飲み込んで見ていると、その2つの赤い輝きは、エヴァンたちの方に向かって近付いて来た。
ほとんど真っ暗闇の中、薄っすらとだが、その輪郭も見えてくる。
やはり何か、生き物のようだ。
人のようなシルエットの、目の部分が、暗闇の中で赤く輝いているように見える。
「イレーン、一度部屋に戻ろう」
エヴァンの言葉に、イレーンが涙目でこくこくと頷く。
エヴァンは、イレーンの手を引いて、最初落ちた部屋まで戻った。
すぐに元いた部屋に辿り着く。
エヴァンは部屋の中央辺りまで駆けながら、部屋の中に何か武器になるものがないかと探す。
崩落した天井の一部、土塊が目に入った。
土塊と言っても、ほとんど岩も同然に見える。十分な凶器だ。
「──キシャアアアアアッ」
背後からの声に、エヴァンが振り向く。
エヴァンたちから少し遅れて、通路から1匹の生き物が姿を現していた。
それは、人間の子どもを醜悪にしたような姿をしていた。
身長や体格は、6歳の人間であるエヴァンたちより、少し大きい程度。
赤黒い肌に、ボロ布のような服を纏っている。
奇怪に裂けた口からは尖った犬歯が覗き、不気味に赤い光を放つ両目と、短く尖った耳。
その細い腕には、太い木の枝のような棍棒を持っている。
「ご、ゴブリン……!」
イレーンが、震えた声で言う。
エヴァンはイレーンを手で押して下がらせると、ゴブリンをしっかりと見据えながら、ごくりと唾を飲む。
ゴブリンは、棍棒を片手に、ゆっくりと二人に近付いてくる。
その距離が3mほどまで近付いたとき、エヴァンは足元の大きな土塊を両手で持ち上げて、ゴブリンに向かって突進した。
「うぉぉぉおおおっ!」
虚をつかれた様子のゴブリンに向かって、土塊を投げつけた。
ゴブリンはそれを、慌てて後ろに跳んで避ける。
バカンッと、地面に直撃した土塊が割れる。
「くそっ……!」
エヴァンは、次にはゴブリンに素手で殴りかからんと、再び突進していく。
すぐ近くまで駆け寄ったとき、ゴブリンの棍棒が振り下ろされた。
「うっ!」
エヴァンは、頭に強い衝撃と痛みを感じた。
前のめりに倒れてしまいそうになる。
しかしエヴァンは、倒れざま、ゴブリンの胴にがむしゃらにしがみついた。
結果、両者はもつれ合って、地面に倒れる。
地面で組み合いになって、上を取ったエヴァンは、拳でゴブリンの顔を殴りつけた。
「このっ! このっ、このっ……!」
バキッ、ドカッ、グシャッ!
馬乗りになったエヴァンが、ゴブリンの顔を、これでもか、これでもかと殴りつけていく。
「ハァッ……ハァッ……!」
エヴァンの手が痛くなるほど殴りつけた頃には、ゴブリンはもう動かなくなっていた。
「え、エヴァン……」
イレーンが後ろから、心配そうに近付いてくる。
「大丈夫……?」
「ああ、なんとか……っ痛ぅ!」
エヴァンがイレーンに答えて立ち上がろうとしたとき、忘れていた後頭部の痛みが復帰した。
エヴァンが手の平を後頭部に当てると、ぬるっとした感触があった。
見てみると、その手の平にはべっとりと血が付いていた。
「マジかよ……痛ってぇ……」
「え、エヴァン、それ、血が……」
「だな。くっそぉ……」
ここに至って、エヴァンもようやく危機感を持ち始めていた。
イレーンよりも少し遅れて、自分たちの死を意識し始める。
しかも、泣きっ面に蜂とでもいうように、さらに悪いことが2人に襲い掛かる。
物音や悲鳴を聞きつけて、ゴブリンの仲間たちが3匹、部屋に躍り込んできたのだ。
これには、さすがのエヴァンも、もうダメだと思った。
だから、怯えるイレーンを地面に倒して伏せさせ、彼女をかばうようにその上に覆いかぶさって、丸くなった。
「え、エヴァン……?」
エヴァンは、無駄なあがきとか、そういう先のことは考えずに、ただただ自分が亀の甲羅のようになって、イレーンを守ろうと思ったのだ。
自分は男なんだから、女の子は守らないといけない。
そういうシンプルな理念が、エヴァンを突き動かしていた。
倒された仲間を見て怒り狂ったゴブリンたちが、2人に襲い掛かってくる。
状況的に見て、2人の、少なくともエヴァンの命は、もはや風前の灯火であるように見えた。
しかし、次に断末魔の叫びをあげたのは、これもゴブリンたちの方だった。
「えっ……?」
何事かと思ってエヴァンが顔を上げて見ると、部屋には自分たちと3匹のゴブリンたちのほかに、数人の武装した人間の大人たちが現れていた。
エヴァンたちは知らないことだが、彼らは洞窟に棲みついたゴブリンの群れを、退治するよう依頼された冒険者だった。
彼らは別の入り口からこの洞窟に入り、こちらもゴブリンたちと同様、悲鳴や物音を聞いて駆けつけてきたのである。
そして彼らは、エヴァンたちが呆然としながら見ている中、ゴブリンたちを何の問題ともせずに、あっさりと剣や槍や弓矢で倒していった。
「す、すげぇ……」
エヴァンはそんな彼らの姿を、憧憬の眼差しで見ていた。
その場のゴブリンたちをすべて退治しきった大人たちは、エヴァンたちを心配して駆け寄ってきた。
「ちょっと、この子、頭に怪我してるよ!」
弓を持ち、革鎧を装備した妙齢の女性が、エヴァンの後頭部を見て言う。
「こっちの1匹、ひょっとして坊主が倒したのか? すげぇなお前」
槍と盾、鎖帷子で武装した青年が、エヴァンが殴り倒したゴブリンを見て驚いている。
「もう、囃し立てないの! 結構重傷みたい。治癒使うよ」
「ま、多少リスクになるけど、いいんじゃね? 多分大丈夫だろ」
仲間たちの了承を得た女性が、エヴァンの後頭部に手をあて、目を閉じて何やら複雑な呪文を唱え始める。
すると女性の手が光り輝き、その光に触れたエヴァンの後頭部の傷口が、みるみるうちに塞がってゆく。
これには、様子を見ていたイレーンが目を剥いた。
「す、すごい……治癒魔法、使えるんですか?」
「まあね。でも冒険者なら、嗜みみたいなところあるし、そんなに珍しいもんでもないよ」
女性がそう謙遜すると、先の槍使いの青年が割り込んでくる。
「そりゃあ、その嗜みを嗜んでいない冒険者である、俺たちに対する嫌味かね?」
「うん、そう。ま、あんたのオツムじゃ、習いに行ったって習得に何年かかるか知れたもんじゃないけどね」
「ぐぬぬ……おっぱい揉むぞこのアマ」
「最低。死ねば?」
そんなやり取りをする大人たちを見て、エヴァンは、
「冒険者……冒険者って、すげぇ……!」
さっきまで命の危機にあったことなどすっかり忘れて、ワクワクとした心を抑えきれずにいるのだった。