出来ることを
高時の為に出来ること。
自分が貰って来た沢山のもの。
初めて握った不格好な握り飯。
過去の朔夜を問わぬと告げた言葉。
何の分け隔てもせず屈託無く遊びに誘って笑う。
よく響く声。
人の心を真っ直ぐに信じる強さ。
恩と言うものではない。言葉で言い表せない。
獣として生きてきた自分を拾ったのは秀海和尚だったが、人にしてくれたのは高時だった。
自分がどこから来たのか、どんな生まれなのか、何一つ記憶はない。
人買いに乗せられた荷車を覆う筵を捲り上げた盗賊の頭の顔が一番古い記憶だ。
掠われた恐怖のせいか、それ以前の記憶は何一つ持ってはいなかった。だから本当の名前も年齢も知らない。
殺しと略奪を覚えさせられて、容赦ない体罰や虐待を受けて来た。
ただ死なない為に生きるだけの獣であった。
初めて出会った時はきっと荒んだ目をしていたに違いない。『人』ではなかったのだから。
今も胸を張って『人』であると誇れはしない。だが餓えないために人を殺すことに何の疑問も痛みも覚えぬような獣ではなくなった。
そして人や、人の抱く想いを美しいと感じることが出来るようになった。
朔夜は胸に湧き起こる感情を、心の中で静かに抱きしめる。
高時の為に出来ることを。
本当は自分だって共に居たいと思う気持ちが無いわけではない。
だが近づきすぎるのは怖いのだ。
あまりにも純粋に人を信じ、己を信じるあの曇りのない魂が輝かしくて、側に居ればいるほど、自分の過去にある醜さや薄汚さが否応なしに照らし出されてしまう。どんなに近くにいても決して混じり合うことのない純と不純。
則之が自害した気持ちが朔夜には十二分に分かる。
光の側にあれば影が出来てしまう。
離れることもできない則之は、だからといって影で有り続けるには耐えられぬほど誇り高い男だったのだ。
雨脚が強まってきた。もう夏も終わりが近いのだと雨が告げる。
一雨ごとに秋を連れてくるのだろう。本格的に動き出すのはもう少し先になるが、高時ならばきっと夢を叶えるだろう。
どこまで一緒に駆けられるのか。
もう一度霧雨に手を触れる。
――俺を狂わせるなよ霧雨。幾多の血を啜れば安らかになれるのか。お前も、俺も。
少し先の廊下を曲がって人が来る。
振り向いた朔夜を見た途端、男が立ち止まる。朔夜は目を眇めながらその男から視線を外さない。
――丹羽小次郎……霧雨と話すことのできる男。
離れた距離にありながら二人の間は緊迫している。
小次郎も朔夜から視線を外さない。
幼く見える満面の笑顔や甘い声、ふわりと緩く癖のある髪。小次郎に抱く印象はきっと「可愛らしい、無垢な」そんなところであろう。だが、今の小次郎は常にない鋭い目でじっと朔夜を睨み続ける。
冷ややかな視線。
雨が庭に水たまりを作る。それを穿つ音が響く。朔夜は視線を緩めずに告げた。
「聞きたい事がある。ついて来い」
**
雨が降っているのに朔夜が小次郎を伴って城を出て行こうとしているのを見た友三郎は、何故か胸騒ぎがした。
一人で部屋に戻ってきた高時の様子もどこかおかしかった。何があったのか朔夜に聞き出そうとして探していた矢先だった。
「そう言えば……」
先程も朔夜は小次郎について聞いてきていた。
何か嫌な予感がする。それは単なる直感でしかなかったが、友三郎は気付かれないようにそっと二人の後を付けた。