降り始めた雨
城の幅広い廊下を歩きながら朔夜の心は乱れる。
無垢なあの佐和姫を利用しようとする高時が憎い。けれど同時にそれだけ求めてくれたことに血が騒いだ。
薄汚れている自分になど佐和姫は綺麗過ぎる。則之が高時から放たれる光に耐えきれずに自ら命を散らせた気持ちが痛いほど理解できる。
あの姫を手に入れたいなど欠片でも思ってはいけないことなのだ。それは互いに奈落への落とし穴でしかない。
心を落ち着かせるように霧雨にそっと手を添える。
伝わるのはほの暖かい気だ。戦場で感じる激しい高揚感は今はない。
静かな雨が降り始めた。
湿る土の匂いを濃く立ち上らせて霧のように細かい雨が空気を重くさせる。その重い空気を深く吸い込むと、土の匂いに誘われて思い出したくもない過去が甦る。
雨の日。
血の匂い。
草を打つ雨音。
重い空気。
暗い部屋。
激しく首を振って過去の思い出を払い除ける。
今は高時の命で探索に出ている垂水一族の志岐は、出会って以来時間を見つけてはしつこいくらいに朔夜を尋ねてきた。
どんなに迷惑な顔をしても一向に我関せずとばかりに豪快に笑いながら人の部屋で酒を飲む。無理矢理に朔夜にも酒を注ぐ。
昔から朔夜は人と飲食するのが苦手だ。
それは生きるか死ぬかの盗賊時代の名残であろう。油断していると自分の取り分などなくなり食いっぱぐれてしまう。素早く奪い、一人で隠れるように食べる。そんな習性が身についてしまい人と飲食するのを本能が拒む。
志岐といると朔夜は調子が狂う。酒を飲み、共に食べる。それが嫌ではなかった。
志岐がおもしろおかしく話してくれる忍びの話を聞いていると、不思議と気持ちが開いていくのを感じた。
自らの血の由来を知らない。
幼いころから人を殺めてきた。
そんな負の共通項が互いを近しいものとするのかもしれない。
その志岐が朔夜の依頼で調べてきてくれた事を頭の中で反芻していた。
『丹羽小次郎について』
丹羽小次郎が霧雨を奪おうとした時に、小次郎が己の血を吸わせた霧雨に残された気が同じだった。朔夜にははっきり分かった。
――龍堂時則の死去した部屋に残留していた気。
それと同じ気。はっきりと分かったのだ。
志岐が調べてきた報告によると、時則が死去した日、小次郎は小椋山城の遣いで駿河本城へと赴いていた。
時則と接見したのは確かだったが、死亡した時間にはもう本城を出ていた。小次郎と時則の死の因果関係まではつかめなかった。
だが朔夜は小次郎が何か関わっているのだと確信していた。
「本人に問いただすしかないか……」
思考はまたここに辿り着く。
時則の件はケリをつけてやる
この城で高時に約束した言葉だ。
一言も言わなかったが、高時は時則を厭いながらも憧れや尊敬を抱いていただろう。
急な父親の死に内心ひどく打ちのめされていたのを強く感じた。あれからずっと強く人を率いている高時だが、本当は続く身内の死が堪えていないはずはないのだ。
人一倍、人を大事にして心を晒して本気で付き合おうとする高時だ。身内を愛していないわけはない。
強く有らねばと見せる姿の裏が朔夜には見えてしまう。
それは自分にもある姿。だから分かっていた。高時に本当に応えてやらなければならない言葉は「ずっと共にある」、それだったのだ。だが朔夜には言えなかった。
せめて、と雨を落とし続ける鈍い色の曇天を見上げる。
ーーせめてお前の親父のことのケリは俺がつけてやる。
もう一度大きく雨の匂いを吸い込んで、草と土の湿った濃い香りに目を閉じた。