無垢な傲慢
その夜更け、朔夜は佐和姫に呼び出されていた。
側付きの侍女がピタリと姫の隣に座り、警戒の眼差しでこちらを睨み付けている。
「朔夜、このような夜更けに呼び立ててすまない」
手酷く突き放したことが余程堪えたのか、いつもの天真爛漫さを失った声と表情。それを見た瞬間に、朔夜は己で思う以上に動揺した。
辟易としながら、そのくせ彼女の無垢で遠慮知らずの心に癒されていたのだと、今、初めて気がついたのだ。
「朔夜よ、そなたは私のことが気に入らぬのか?」
そんな問いかけをされて、なんと答えれば良いのだと、ジロリと強く睨むと、いつもならば平気で笑い返す佐和姫が怯えたような表情を見せた。
チクリ、と胸の奥の方で痛みが走る。
けれど何の痛みなのか分からない。ただ針で突かれたように小さな痛みだ。
「朔夜、答えてはくれぬか? 私のことは、どう思うておる?」
その質問に答えるべき言葉はただ一つしかないことは、朔夜のみならず、側に付いている侍女だとて分かっているだろうに……
こんな問いかけを平気でしてくる佐和姫の無心の心が憎い。
(無垢とは、なんと傲慢で……そして翻弄してくるものなのか……)
朔夜は静かに平伏すると、感情のない声で告げた。
「家臣として、姫がつつがなく暮らせますことを願っております」
「そのような! そのような言葉ではなく――」
「他に何を言えと? 俺に何を言わせたい?」
佐和姫の言葉を遮り、顔を上げた朔夜は鋭く告げて、それから射抜くような視線を投げつける。
「忘れるな。あんたは姫だ。立場を忘れるな」
侍女が「なんと無礼な物言い!」と立ち上がりかけたけれど、朔夜はそれより早く立ち上がり二人を見下ろした。
いずれ、この無垢な姫も政略婚の手駒としてどこかへ嫁がされる。
その姫に情けをかけられるのも、かけるのも真っ平御免だと、朔夜は黙ったままで背を向けた。
「……前にも言ったが、俺には関わるな」
言い放った途端に、佐和姫はガバリと立ち上がり、侍女が止めるのも聞かずに叫んだ。
「そんな一方的に言い方に、この私が頷くと思わぬがいい! 朔夜、私はそなたを――」
その先を聞く前に朔夜は部屋を後にして、強く目を閉じながら駿河本城の長い廊下を急ぎ足で歩いた。
生ぬるい風をはらんだ、ひどく湿った空気の夜だった。