夜の陣幕で
篝火が煌々と燃えている。
陣は緊迫した空気に包まれていた。
明朝、高時が直接敵の城へ向かうという仰天するような話題で持ち切りだ。ヒソヒソとあちらこちらで賛否の議論があがる。
「姶良、だったな」
一人離れて木にもたれていた朔夜は、背後から呼びかけられて面倒くさそうに振り返る。
篝火の灯りを背に受けて立っているのは則之であった。
ちらとその姿を瞳に捉えてから、また興味なさそうに顔を戻す。
「おぬし、本当に高時が生きて帰れると思っているのか?」
則之の問いかけにしばし沈黙が落ちる。
星空を見上げながら朔夜は小さく笑った。
「あんたは、あいつが殺された方が都合いいんじゃないのか?」
「なにっ?」
「あいつがいなければ、駿河はあんたのものになる。違うか?」
「私はそんな事は思っていない」
「……そうか」
でも、と続ける。
「俺はあいつを必ず守る。残念だろうが必ず生きて戻らせる」
もたれていた木から背を離して、則之に向き直ると、闇でも失われぬ鋭い獣の光を湛える瞳で真っ直ぐに見つめた。
則之は朔夜の瞳の強さに目を閉じた。
「私は……おまえがどう思っていようが、高時でなければ駿河は纏め上げられぬと思っている」
「敗北するのか?」
「敗北ではない、冷静にそう思うだけだ」
「そう考えるだけで、だが心はついていっていない。そうだろ?」
「おまえっ!」
いきなり則之は朔夜の胸倉を掴みあげると、背後の木に思いっきり押しつけた。切れ長の眦を釣り上げて、呻きながら首を締めあげる。
「貴様ごときになにが分かる! 分かったようなことを! お前はなんだ! 高時の何が分かるんだ! おまえごときが! おまえが……!」
「……や、め……」
息の出来ない朔夜が苦しげに則之の腕を掴む。
朔夜の手が則之の腕を掴んだ途端、その場に押し倒されて、さらに首を締めあげる。
「お前がいるから! お前など!」
何の感情の昂りなのか、もう則之にも分からないのかもしれない。締め上げている襟首を一気に引き裂く。ビリリと大きな音をさせて無残に布が引き千切られ、朔夜の胸が夜の中で露わになる。
程良く鍛え上げられた胸元に顔をうずめる。
「やめろ! おまっ! 何をする!」
朔夜の振りあげた腕を掴んで地面に縫い止める。則之の唇が首筋をかすめると、朔夜は怯えたように戦慄いた。
「やめ……、やめろ……!」
上手く声が出せないのか、掠れた声で朔夜が抗う。暴れようとする体にのし掛かる。木に立てかけている霧雨に手を伸ばそうとするが、その腕をさらわれ、頭上でひとまとめにされてしまう。則之の右手が腹をまさぐる。筋肉に沿って流れるようにその手が下へと伸びる。
「やめろ――!」
渾身の力を振り絞って、朔夜は纏められていた腕を振りほどくと、すぐに則之を突き飛ばして霧雨を掴んだ。
「おまえ! 何のつもりだ!」
突き飛ばされた則之は、ゆっくりと座り直しながら刀を構える朔夜を睨み上げる。
「いくさ場の習いだ。上が下を抱くのに何の不都合がある?」
「そんなものは他を当たれ」
「大将の寵愛だ、喜んで受け入れればいい」
「バカをほざくな。俺には必要ない」
座り込んだままの則之が頭を垂れながらくつくつと笑い出した。次第に笑い声が大きくなる。やがて天を仰いで笑いを収めた則之が、静かに呟いた。
「私は……お前たちのようになりたかった」
「……何のことだ?」
「おぬしと、高時……。多くを言葉にせずとも通じ合う。寄り掛かり合うのでなく守りあうでなく……。ああ、上手く言えない。欲しい、欲しいんだ。どうしても」
緩く頭を振りながら自嘲の笑みを口元に浮かべる。それを見下ろす朔夜が静かに問うた。
「忠誠を誓う家臣ではダメなのか?」
「……私が欲しいのは、おぬしなのだ。その瞳に囚われたのだろう。どうしてもおぬしが欲しい。高時から奪いたい」
最後は呟くほどの小さな声で、やがて項垂れる。
その背中が雄弁に語っていた。本当に欲しいものは――
「違う。お前が本当に欲しいものは、高時だ」
えっ、と驚いて則之が顔を上げる。真っ直ぐに見つめる朔夜の瞳は真摯だ。
「お前は高時の持つあの強い力を欲しているんだ。自分が持たぬ力が欲しいんだ。俺じゃない。手に入れるべきなのは俺じゃない」
そんなことを思いもしなかった則之だ。一瞬何を言われたのかさえ理解できずに呆然とし、だがやがて肩を揺らして笑い出した。
「は、ははは。私が高時を欲しているだと? 奴の力を? ちがう、ちがう。私はおぬしが欲しいのだ。おぬしのその強い瞳を欲している。それを独り占めしたい」
「俺を独り占めしたら、それで満たされるのか? お前の隣に高時が変わらずに並んでいても満たされるのか?」
急に黙り込んで、じっと自分の掌を見つめた。
美しい母に似た白く細い指。
この掌では掴めない光。年下のくせに大きな掌を持つ輝く弟。その手が掴んでいるもの。
それが欲しいのか。それを奪えば安楽を得るのか。それさえ奪えば安寧を得られるのか。
強い父が自分を選ばなかったこと。家臣が当然のように弟に従うこと。自信に満ちた顔で大将を預けると言ったあの顔。
奪い取ったところで消えるはずがない。心に焼き付いて刻印されてきた全ては、自分が生き続けている限り消えるはずもない。どこにも安寧はない。
(そうだろう、高時。私はお前のものが欲しいのではない。自分にはないことが、ただそれが――悲しいだけだ)
項垂れ、背を丸める則之を置いて、朔夜は音もなく静かに背を向けた。