その名
廊下に出た途端に手を伸ばして朔夜の腕を捕まえたが、すぐさま乱暴に振りほどかれる。
「俺に触るな」
「ああ、悪い」
朔夜は寺に来た頃からずっと人に触れられることをとても嫌がる。
ぶつかるなら大丈夫なのだが、手を自分の方へと伸ばされるのがとても苦手なようだ。それを思い出して慌てて謝ったのだが、すぐに気を取り直して笑顔を浮かべた。
「立派な出で立ちだな、朔夜。見違えた。それに俺はお前に会えて嬉しいぞ」
「はっ、こんな着飾られてこっちは迷惑だ。お前には恩があるから仕方なくだ、仕方なく」
「恩? なにか恩を着せるようなことがあったか?」
きょとんとした顔の高時をちらりと見て、またスタスタと無言のままで歩き出す。
「無駄口叩いてないで早くお前の居城へ行くぞ」
ああ、と頷きかけた時、高時の背後から甲高い声で佐和姫が朔夜を引き留めた。
「朔夜! 本当に満願寺城に行ってしまうの? もうここには来ないの?」
姫様、とお付きの侍女が追いかけて来て窘めたが、気にせず真っ直ぐに朔夜を見上げている。
久しぶりに見た妹は、相変わらず無垢で愛らしいと高時は柔らかな目になる。
だが一方の朔夜は、呆れたような溜息と共に視線も合わさずに冷たく言い放った。
「そんなことは俺が決めることじゃない。……いくぞ、高時」
「朔夜、待ちなさい!」
叫ぶような声を上げた佐和姫に背を向けて朔夜はさっさと歩いていく。
末の妹に声をかけてやろうかと思った高時であったが、すぐに侍女が戻るようにと佐和姫を促したから、高時も背を向けると朔夜を追いかけた。
ここのところ、ずっと気になっていたことの一つ。
朔夜が度々この駿河本城に来ていることで、懸念があった。
それはこの佐和姫と常々接触していることだった。
朔夜は浮浪児であったが、それが気にならぬほど強く惹きつける何かを身の内に宿している。
もし佐和姫が朔夜を気に入り、互いに恋仲にでもなってしまったら、佐和姫を何よりも大切にしている父時則の逆鱗にふれてしまうことだろう。そうなれば朔夜の存在など髪一筋ほどの重みもないほど簡単に消されてしまいかねない。
そう思っていたから、高時は前を歩く朔夜の背中を見つめながら安堵の吐息を洩らした。と、その吐息が聞こえたわけではないだろうが、朔夜がちらりと振り返って口を開いた。
ああ、それから――と告げた言葉に思わずプッと吹き出した高時を、以前と寸分違わぬ鋭い刃のような瞳で睨み返した。
非難を含んだ眼差しに高時は慌てて言い訳をする。
「悪い。いや、驚いただけだ」
「驚いて何で吹き出すんだ」
「いや、あの和尚がそんな名だったとはと思ってな」
そんな高時の言い訳に、朔夜は憮然として長い廊下を足早に歩き、高時の方を一顧だにしないままだ。けれど高時は前を歩くまだ幾分子供らしさを残した背中を見ながら、案外似合いの名だな、などと考えていたのだった。
――それから、俺の名前だが――『姶良朔夜』だ。
そう告げた朔夜の瞳が少し戸惑ったような恥ずかしげだったのが意外で思わず笑ってしまったのだ。
高時に仕えるのならばもう浮浪児では無い。姓をやろう、と時則が用意したのは秀海和尚の出家前の姓、姶良。それを貰い受けたそうだ。
朔夜の名も和尚が付けた。山中で出会った日が丁度朔の夜(新月)だった為に付けられた安易な名に、朔夜は「坊主のくせに安直なことだ」と和尚に文句を言っていたのを聞いたことがある。それでも今聞いた『姶良朔夜』の名は、この孤高の獣に似合いの名だと思ったのだ。
それに、と高時は前を歩く朔夜の姿を見ながら思う。
少し見ぬまに一層人を惹きつける何かを帯びた。一種の艶のような華やかさ。側にいるとクラリと目眩さえ起こさせてしまいそうな気を放っている。それがおのが手に入ると思えば嬉しくて思わず笑みが零れたのだった。