虫の音
雨上がりの夜は湿った草の匂いでみたされている。
秋の始まりは虫の音で気づかされる。今もうるさいほどにあちこちの草の中から歌うように鳴いている。少し夜風に涼気が混じっている。
妖刀霧雨が朔夜のものとなってから二年の月日が流れ、痩せてパサパサの髪をした浮浪児然とした朔夜の姿は、今は見違えるほどに成長していた。
日に透けると薄く茶色に見える髪の毛は柔らかく艶やかで、鍛錬を怠らない身体は細身ながらキリリと張り詰めた程よい筋肉がついて、未だ細くて貧弱な友三郎は羨ましくて仕方がなかった。
背だけはぐんぐん伸びて友三郎の方が大きくなったが、勉学の方も乾いた土が水を吸い込むように吸収していく朔夜と、張り合えるところが唯一そこだけとなっていた。
乱雑な言葉遣いもかなり良くなったが、誰に対しても敬語や丁寧語を使うことだけはしないままで、年上の者などからはかなり目を付けられていた。
半年程前に高時が満願寺城の主となるように命が下り、野間義信らを伴い禅林寺を出た高時であったが、明日は友三郎もいよいよ近侍として城に向かうことが決まっていた。
まだ幼いとの和尚の反対で残された友三郎であったが、この数ヶ月訴えに訴えて、ようやく高時の元へと伺候することが許されたのであった。
「朔夜! ここにいたのか」
奥の院へ向かう山道の中、朔夜が月の明かりの下で霧雨を振っているのを見つけ、友三郎が駆け寄ると、すぐに刀を鞘に仕舞った。
「どうした、友」
ちらりと友三郎を見やって、仕舞った刀をぐいと腰に挿す。それから息を整えるように大きく夜気を吸い込んで静かに目を閉じた。
月光の下で、まるでそこだけに光が集まっているかのように、その姿は崇高で美しく、友三郎は息さえ飲み込んで黙って見つめていた。
「用事か、友?」
穏やかに問いかける朔夜の声に、ハッとしてそれから笑顔を浮かべる。
相変わらず人嫌いなのか周囲の者と溶け込もうとせず、人と触れ合うことも極端に嫌う朔夜ではあったが、唯一友三郎にだけは親しく接してくれる。 どんなに年上であろうが呼び捨てにしてしまう朔夜だからこそ、こうして『友』と愛称で呼んでくれる事も特例中の特例であることを友三郎は知っている。
それがとても嬉しかった。
「私は明日、高時様の城へと出仕するから、最後に一緒に過ごそうかと思って探してたんだよ」
「そうか、明日だったな」
「そうだよ。ね、朔夜も一緒に行こうよ。高時様から朔夜も一緒にと言付かっているんだよ。だからもう一度考えてみてくれないか」
俯いたままで小さく笑った朔夜の横顔にささやかな月光が深い陰影を作ると、そこには一頭の美しい獣が佇んでいるかの錯覚を覚える。
しなやかな身体に細く長い手足は、今にも俊敏に動き出しそうで、一瞬も目が離せない。
(――あそこから一跳ねで人の懐に飛び込んで喉を食い破るんだ。そして山の神に人の肝を捧げるんだ。あ、今ならもしかして私が危うい状況?)
最近では時則の隠し子説を捨てて、山の神の子説に傾いていた。月明かりの下の朔夜で妄想している友三郎に気がつきもしないで朔夜は小さく頭を振る。
「……あいつには、そうだな。遠からず会いに行かなくてはならないだろう。だが今はまだ時機ではない。友、またいずれだ。その時までしばしの別れだ」
不可思議な言葉を残して朔夜は友三郎の横をすり抜けて庫裏へと戻って行ってしまった。呆然と見送る友三郎は知らず、小さく呟いていた。
「……時機?」
それから我に返って、慌てて朔夜の後を追いかけた。
驚いた虫たちが一時ふっつりと音をとめて、すぐにまた鳴き始めた。