「霧雨」
「和尚、こいつは妖刀に取り憑かれているぞ」
朔夜の一言に、和尚の顔色が変わる。
「も、基晴! おぬし妖刀に操られておるのか? 義信を呼んで参れ!」
和尚の言葉に部屋で和尚の世話をしていた一人の僧侶が駆けだす。その僧侶を横目に見ながら西野はまるで跳ね上がるように跳躍し、何の躊躇もなく走る僧侶に一太刀食らわせた。
くぐもった呻き声を上げながら背中を切りつけられて僧侶が倒れてドシャリと嫌な音を立てた。その瞬間、血を吸って尚美しく輝く刀に向けて朔夜が叫んだ。
「やめろ霧雨! それ以上人を殺すな!」
ビクリを不自然なほど西野の身体が震えて強ばる。刀を握る右腕がぶるぶると大きく揺れているのを、抑え込もうと左手でおのが腕をつかまえようとした瞬間、右腕が振り上がり刃が西野の首筋を狙ってギリギリと持ち主の意志を無視して動いて行く。
「基晴!」
騒ぎに気付いた高時や義信が庭先に駆けつけたが、すでに刃が首に吸い込まれるところだった。
「ダメだ! やめろおお!」
縁から裸足のまま飛び降りた朔夜が西野の手の上から柄を握りしめて彼の首から無理矢理に刀を外す。力ずくで押しとどめようとするが引きずられるほどの力が抵抗をしてくる。
義信はその場に凍りついて動けないが、高時はすぐに駆けつけて朔夜の腕に手をかけて一緒に引っ張る。だがどんな力が働いているのか、ビクとも動かない。これ以上食い込んでは西野の首が危うい。
「ダメだ霧雨! 血に飢えているなら俺の血をくれてやる!」
言いざま、朔夜は己の手のひらで抜き身の刃を握りしめた。
「ぐうっ!」
手のひらに食い込んだ刃に苦悶の表情を浮かべ、それから叫んだ。
「これから俺がおまえを使ってやる! だからこいつから離れろ!」
渾身の叫びを朔夜が上げた途端、今までの力が嘘のように急に軽くなり、二人は一斉に尻餅をついた。
朔夜の手は血まみれのままで妖刀を握りしめており、当の西野はうっすらと首筋に血がついているが深く切れている様子はなく、ただ気絶しているのかその場に倒れ臥している。
「うっ……落ち着いたか、霧雨。欲しければ……俺の血を啜れ」
荒い息を吐きながら朔夜は刀を自分の方へと寄せて大切そうに抱える。その姿を呆然と縁から見ていた秀海和尚は、ゆるゆるとかぶりを振ると朔夜を見下ろした。
「朔夜よ、よく止めてくれたな。感謝する」
「別に感謝されるいわれはない。俺はこの霧雨を助けたかっただけだ」
「霧雨……」
「ああ、こいつの名前だそうだ。この男に取り憑いていた妖は逃げ出した」
「……朔夜よ、本当に刀の声が聞こえるのだな。それはあるあやかし者の持っていた刀で銘は『霧雨』だと伝えられている。そして多くの禍を呼び寄せるとも言い伝えられておる」
和尚の言葉に倒れている西野の様子を見ていた義信が青い顔を上げる。
「で、では、本当に妖刀なのですね? 早く再度封印を――」
「ダメだ。封印はさせねえ」
微かに震える柔らかな義信の声を割って朔夜が強く言い放つ。
「霧雨に約束した。俺が使い手になってやると。こいつは使ってもらえないことを悲しんでいる。こいつは俺が貰い受ける」
はっきりとそう宣言した時、霧雨の、朔夜の血を受けた刃がキラリと美しく光ったのを和尚も義信も見た。
それは禍々(まがまが)しくもあり、清冽でもあり、一抹の不安を秀海に抱かせた。
朔夜は宥めるかのように血を吸い込んだ刃を切れた手のひらで撫で上げて、小さな笑みを口元に浮かべた。
「心配ない。妖刀は俺が必ず制御してやる」
「朔夜よ……」
和尚の不安含みの声が高時の耳には長く残った。
鞘に刀を戻す小さな音だけが最後に残された。