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薄暗くなっても、この季節はまだまだ暑い。
残業を終えた俺は、半額になったスーパーの弁当を買い込み、元倉庫へと向かう。
あれから数日が経った。
仕事から家に帰ったとき、風呂から上がったとき、ソファベッドに横たわったとき、ふとした瞬間に、樹里はやってくる。
樹里はナツやカイに会いたいと、ごねるようになった。
そのたびに、俺は樹里を説得する。
樹里の知っているナツはもういないけれど、それでナツが幸せに生きていることを喜んでやろうとか、カイももう受験生になったから、そんなに呼び出してばかりもいられないとか、俺は正論で勝負した。
相変わらず通じなかった。
樹里は昔のように暴れた。
あたりをめちゃめちゃにしたり、物を投げたり、壊したりするような狂暴な振る舞いをしたが、樹里自身の実体がないせいか、虚しいくらいなにも変わらなかった。
一通り暴れると、樹里は獣のように吠えて泣き崩れた。
それはいつの間にか啜り泣きになり、気づけば姿が消えている。
後始末もなくて、昔から見ると随分楽だといえばそうだったが、俺は打ちひしがれていた。
あの頃は、樹里がカイやナツの自由を縛っているのだと疑わなかった。
実際は逆だ。
囚人のように逃れられないのは樹里だけで、だから今も、ふたりを憎むように求めている。
そしてカイとナツは囚われることなく、樹里のいない生活を生きている。
当然だ。
樹里は死んだのだから。
歩いているうちに、元倉庫に着く。
鍵を開けようとして、逆にかかってしまった。
どうやら、鍵をかけ忘れて仕事に行ったらしい。
樹里にはよく、そのことを注意されていたから、もしかしたら今夜は怒られるかもしれない。
憎しみ以外の恨み言を聞ける可能性を期待しながら、俺は扉を開いた。
室内から外に、光が差しこむ。
疲労と暑さでぼんやりとした頭が冷えた。
誰かがいる。
俺は扉を開け放った。
家具の乱立する元倉庫の中心に、ブレザーの制服を来た男が立っていた。
振り返り、俺を直視するその顔が、得体の知れないものを前にしたかのようにひきつっている。
はじめて見るカイの表情に、俺は戸惑った。
「なんだよ……俺の顔に、なにかついてるのか?」
俺は言いながら、カイの背後に立つ、もうひとりの存在に気が付く。
カイと同じ高校の制服を着た、髪を肩の上で切りそろえた女の子だった。
少したれ目だという以外は、明日会っても思い出せなさそうな癖のない顔立ちをしているけれど、色づきのないグロスをつけているのか、薄い唇が濡れたように潤んでいるのが目についた。
なぜか嫌な予感がして、俺はカイに近づく。
「なぁカイ、おまえの新しい彼女を樹里に見せて、修羅場でもつくる気か?」
「違うよ、俺の同級生なんだ。彼女はね、生きていない人が見えるんだって」
「じゃあカイは、彼女に樹里を……」
カイの同級生はぼんやりとした顔で、室内の隅をじっと見つめている。
視線の先には、樹里がいた。
樹里と女の子が見つめあっている。
焦りが、俺の中で渦巻いた。
「待てよカイ。彼女を使って、樹里からなにを聞こうとしているんだ」
「シンが下手な嘘をつくから、彼女に手伝ってもらってるだけだよ。ジュリがどうして、ここにいるのかを知りたいから。それともそろそろ、シンが自分の口で言うつもりになった?」
「なに言って……俺に言えることは、前と同じだよ」
カイがすでに、いくつかの事実を聞いている可能性を思うだけで、自分の隠しておきたいものを暴かれたような、不快な怒りが突き上げた。
俺は怒鳴りそうになるのを抑えて、カイの同級生に言葉を投げつける。
「なぁあんた、樹里から何を聞き出したのかは知らないけど、本気にすることないからな。樹里は昔から、精神的に不安定なんだ。だから、俺が少しずつあいつの話を聞いて相手してやるから。これ以上、樹里のせいでカイに負担かけるのは悪いしさ。わかってくれたなら、早く出て行ってくれないか」
呼びかけた俺に、カイの同級生が俺に顔を向ける。
そこに、先ほどのカイが俺を見たときと同じ、ひきつった表情が浮かんでいた。
「シンさんは、なにを見ているの?」
なに、という言い方はさすがにひっかかった。
死んだとはいえ、樹里は物じゃない。
人だ。
そう抗議しかけた時、相手の濡れた唇が、少しためらうように間を開けてから、ぽつりと呟いた。
「ここにはなにも、いませんよ」
「は? どういうことだよ」
「どういうことと言われても……。つまり、生者も、死者も、ここにはいません。シンさんは、なにを見ているんですか?」
蛍光灯がぶちんと消えた。
なにかが俺の耳元をくすぐる。
樹里の声が、くすくすと笑っている。
──シンは、樹里が大好きだよね。
「……樹里?」
──あたし、持ってるの。シンが隠そうとしている本当の気持ち。
「おまえ、樹里じゃないのか。一体誰だ?」
──あたしはシンの気持ちを溜めている。あなたがひた隠しにしてきた本音を蓄えている。
「……なに言ってるんだ?」
樹里の声は、楽しそうに笑い声をあげた。
──シンはナツの笑顔を見たとき、ほっとしたよね。でも本当は、憎んであげたよね。
「違うだろ、俺は……」
声が上ずる。
違うと言っても、どこか嘘くさく聞こえてしまうのは、この暗闇のせいだ。
「俺は樹里の死を悲しんで泣き続けるナツを見るより、笑っているナツを見れてよかったよ」
そうだ。
俺は、そう、思っている。
でも一体、語りかけてくるこいつは誰なんだ?
樹里の声は、嫌な音で笑った。
──シンは、カイが樹里と恋人のふりをしてくれたとき、感謝したよね。でも本当は、憎んであげたよね。
「そんなこと、あるわけないだろ」
俺は、弱気になりかける自分に言い聞かせる。
「樹里の相手をするだけで、かなりの労力なんだ。カイだって人間なんだ。正直な話、どこかで力を抜かないと、心が持たないだろ? 恋人のふりだけでもありがたかったよ」
そうだ。
そう、思っていた。
それでいいじゃないか。
──ナツが樹里を見捨てたとき、これでよかったと思ったよね。でも本当は、憎んであげたよね。
「なぁ、やめてくれよ。……ナツが樹里を見捨てたなんて、考えたこともない。俺はこの前ナツの笑顔を見て、ナツが樹里に刺されてから元倉庫に来なくなって、本当に良かったと思ったんだから!」
俺はそう思っていたんだ。
それでいいんだ。
本心でどう感じていようと、俺は知りたくもない。
──カイも、ナツも、シン自身も、生きている人は変わっていくって気づいたよね。
「そうだよ、生きているんだから当たり前だ!」
声を張り上げ、俺は耳をふさいだ。
冷淡なささやきは、俺の鼓膜を直接震わせるようにはっきりと響く。
──だからシンは、樹里がもう変わらない事を悲しんであげたよね。
「妹失って悲しまないやつなんかいないんだよ! そうだ、俺の悲しみは本物だ。あんなに大切にしていたんだ、そのことを誰かに文句つけられるつもりなんて、ないんだよ!」
──だけど本当は、死んで良かったと思ってるよね。
俺は絶叫した。