3
気づいたときには、俺はカイと並んで元倉庫のソファベッドの端に座りながら、カイの質問に答えていた。
ぽつりぽつりと答えているうちに、自分から話すよりはずっと手際よく、カイを呼び出した経緯を伝え終える。
カイは「そういうのが見える知り合いもいるけど。俺自身はそういうの、あんまり信じないんだよね」と前置きした。
「シンにだけ見えるってのは、あるかもよ。シンは特別に妹思いだから」
「特別ってことはないだろ。兄として、妹が大切なのは当然だから」
「そうでもないよ。妹だから憎まれる人だっている。それにシンはジュリの頼みなら、『それはできない』『無理だ』って言いながらも、いつの間にか叶えている節があるし」
「うーん……そうだったか?」
「もちろん、今もそうだと思うよ」
特に思い当たることもなく、俺は頭を掻く。
カイは缶コーヒーに口をつけながら、扇風機の風で前髪を揺らしていた。
温風を受けるその横顔が、涼しげに映る。
目が合いかけて、俺は慌てて視線を足元に落とした。
「……でも、それなら。俺に樹里の姿が見えて、カイに樹里の姿が見えないのは納得だけどな」
カイは樹里の望むまま、恋人であることをを演じてくれていた。
それがなぜかは、俺にもわからない。
ただカイは、樹里がひどい八つ当たりをしても、泣きわめいても、感情のままに暴れても、コーヒーを飲むのと同じ顔で、あらゆることをこなしてくれた。
だから俺は、カイが樹里の知らないところでなにをしていても、咎めるつもりはない。
視線を感じて顔を上げると、カイはどこか楽しそうに目を細めた。
「シンには負けるかもしれないけど、俺もジュリが好きだよ」
「嘘つけ。カイはナツが好きだったんだろ」
カイは缶コーヒーを両方の手のひらで包み、コンクリートを仰いだ。
「俺にもさ、目を伏せたいことのひとつやふたつ、あるんだよね」
「それは残念だったな。鈍感だと散々コケにされていた俺でも、カイがナツのことをどう思っているのかはわかったな」
「俺が話しているのは、そうじゃないよ。俺には閉じ込めておきたい、汚物のように嫌悪しているものがある。時々それを、暴きたくて仕方なくなるんだよ。でもその正体が見えかけた瞬間、絶叫しそうになる」
「カイが叫びたくなるのか?」
「嘘だよ」
「おい、なんの話だ」
「つまりさ。俺はナツが好きだけど、シンの思っているような好きではないんだよね」
カイはたまに、理解しがたい話術で話をそらそうとする。
相変わらずさっぱり意味がわからなったけれど、会話のついでに、俺は今まで樹里の前では追求できなかったことを言ってやる。
「それならどうして、樹里の横でナツとあんなことになってたんだよ。マセガキが」
「あれは色々と間違えたんだ。反省してる」
「樹里のいないところで何人間違えてるのかは、この際置いておく。でもな、樹里の寝てる横ってのはどうなんだ? おかげで樹里は、ナツを刺し殺すところだったんだぞ」
「やっぱりシンは、ジュリが好きだよね」
「どうしてそこに繋がるんだよ」
「俺の中では主語が違うから。ナツが樹里に刺された、のほうが近い」
俺は言い返そうとして、やめた。
主語とか述語とか、言われたところであまり聞きたくないし、俺にカイをなじる理由がないのもわかっている。
カイがコンビニで買ってきた、もうぬるい麦茶を喉に流し込もうとして、むせた。
樹里がいる。
先ほどの壁際に、なにごともなかったような顔で、膝を抱いて座っている。
カイに背中をさすられ、渡されたティッシュで口や鼻から出た麦茶を拭いている間も、樹里の視線はまっすぐ俺を突き刺していた。
「いるの?」
カイに問われ、俺は頷く。
「それなら、どうしてここにいるのか、聞いてみたら?」
樹里に聞く。
動転していたとはいえ、なんて当たり前なことに、今まで気づかなかったのだろう。
俺は咳が治まってから、樹里を見つめた。
「樹里、どうしてここにいるんだ?」
樹里の口元が、ゆったりと動く。
──ナツ……。
樹里は呟きながら、悲しそうに顔を歪めた。
俺は昔と同じく、ヒステリーを起こした後の樹里に接するときの声で聞き返す。
「ナツが、どうかしたのか?」
懐かしい、少し早口で畳みかけるような声が、つっかえながら震えた。
──ナツ、どうして会いに、来て、くれないの。早く来てよ。早く、来て。
樹里は鼻をすすりながら、手元に視線を落とす。
なにか平べったいものを握り、それを愛おしそうに撫でた。
蛍光灯が点滅して、それは鈍く光る。
自傷行為をやめられなかった樹里が、枕元によく隠して眠っていたカッターだった。
──ナツ、早く来て。今度はしっかり、あたしの、お守りで刺して、あげるから。
暑さで汗をかいている全身が、氷を含んだかのように冷える。
樹里はそんなこと、言ったことなどない。
でも、おそらく、そうすることを願っていた。
今もあの頃と変わらず、屈折した愛情でナツを求めている樹里は、哀れだった。
俺はナツの横顔を思い出す。
傷つけてもらうことを望むように、樹里のそばから離れなかったナツは、もういない。
「樹里、ナツは変わったよ。おまえの知ってるナツは、もういないんだ」
カッターを撫でていた樹里は、俺にぎょろりとまなざしを向ける。
うつろな瞳に、暗い光が濁っていた。
──知ってる。ナツは、あたしのことなんか、忘れた。あれほど、生きることを投げ出し、たがっていたのに、ナツは生きている。どうして、あたしじゃなくて、ナツが生きているの。ナツが。ナツがナツがナツがナツが!
「シン!」
カイとは思えない、大きな声が耳を打った。
肩を揺さぶられていることに気づき、俺は目の前のカイを見つめる。
カイは冷酷にも近い、冷静な顔をしていた。
「シン、樹里はなんて言ってるの?」
今にも弾けてしまいそうな激しさで、心臓が全身を打っている。
俺は深く息を吸った。
暑さのせいではない、額に浮かんだ汗をぬぐっても、それだけだとは思えない嫌なものがまとわりついている。
答えを待つカイから、俺は目を伏せた。
なんとか押し出す声は、情けないほど弱々しい。
「樹里は……本当はカイと話したかったんだけど、話せなくてがっかりしてたみたいだ」
「ナツじゃなくて、俺なの?」
「……ああ、うん、そうだよ。でもカイに会えただけでもよかったって、喜んでる」
──嘘つき。
俺は顔を上げたが、樹里はいなかった。
「樹里?」
カイを振りほどき、あたりを見回しても、樹里は見当たらない。
「シン、ジュリがどうかしたの?」
カイの声に、俺は振り返れなかった。
「……ああ。樹里はカイに会えたから満足したらしい。だから、もういなくなったみたいだ。カイ、ありがとな」
俺の作り笑いが、じりりと鳴った蛍光灯と重なった。