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元倉庫を出てすぐの踊り場で、俺は軽い煙草をふかす。
さすがに下着一枚はやめておいて、ハーフパンツだけをはいただけの格好で、手すりに腕を乗せてぼんやりとした。
見あげる夜空は、町の放つ強い光でくすんでいる。
下から足音が近づいてきた。
ほっそりとした男が、片手にコンビニの袋を提げて、ビルの階段をのぼってくる。
四角い眼鏡をかけたカイは、細身のパンツとTシャツに気軽なベストを重ねただけの姿で、以前よりずっと大人びて見えた。
カイは俺と並んで立ち止まる。
今まで気が付かなかったが、俺よりだいぶ背が高くなっていた。
「シン、久しぶり」
「……久しぶりっておまえ、前に会ってから一か月しか経ってないだろ。突然、巨大化するなよ」
「巨大化はしてないけど、一か月って長いからね」
「学生卒業したら、一か月なんてあっという間だぞ」
「そうかな。ひと月生き延びるって、結構長いけど」
「逆だよ。人生なんてあっという間だ」
「時間の体感は、個人差があるからね。それと俺、合鍵まだ持ってるから、わざわざ外で待ってなくてもよかったよ」
元倉庫の合鍵を持っているやつは何人かいて、カイのは樹里が勝手に押し付けたものだった。
そのせいで、カイは昼夜問わず樹里に呼び出されることになったが、嫌な顔ひとすせず樹里の相手をしてくれた、かなり希少な人間だ。
カイはコンビニの袋を俺に渡す。
「シンは外なのに、俺に会わせたい人は中で待ってるの? 入るよ」
カイは扉を開けて元倉庫へと入っていく。
俺は煙草を足元に置いてある灰皿に押し付け、火を消してから後に続いた。
カイは入ってすぐのところで、立ったまま動かない。
俺はカイの背後から、中をうかがった。
樹里は先ほどと変わらず、膝を抱いて壁の隅に座り込んでいる。
カイに目を留める樹里の表情は、みるみるうちに潤んだ。
樹里は顔を腕にうずめる。
静かな夜に、扇風機の音と、すすり泣きが混ざる。
カイは動かなかった。
それとも、動けないのか。
「見える……のか?」
カイは顔だけを俺に向ける。
いつもの穏やかな表情だったが、眼鏡の奥は笑っていなかった。
「なんのこと?」
樹里の嗚咽が大きくなる。
俺はカイから顔を反らすと、声のする方を指した。
「聞こえるだろ」
「なにが?」
「……樹里の泣いてる声だよ」
カイの表情が急に優しくなる。
俺はぞっとした。
「シン、思い出してよ。ジュリはもう泣かない」
泣き声が一層強まった。
耳をふさぎたくなるような激しさに、俺は拳を握りしめて耐える。
「ジュリは泣かないし、苦しまない、恐怖もない。大丈夫だよ、ジュリの望んだとおりになったんだ」
そうだ、樹里は死んだ。
俺もカイも真っ黒な喪服を着て、俺の知っている樹里ではなくなってしまった、よく乾いた骨を箸で拾った。
あのとき、樹里があれほど望んでいた死が、ようやく訪れたのだと思い知った。
「でもそれなら、ここで泣いているのは誰なんだ?」
樹里は今もこの場所で、あの頃の姿のまま、身体を震わせて泣いている。
本当に、カイには聞こえないのだろうか。
懐かしい、この叫びのような号泣が。
カイは俺の背中を軽く叩いた。
「シン、よく見てよ。ここに泣いている人はいない」
「いるんだよ!」
なにかが弾けたように、俺は叫んた。
「樹里はひとりで、今もここで泣いている!」
指し示した壁に、樹里はいなかった。
俺は息を切らして立ち尽くす。
扇風機が首を振りながら、唸るような音を鳴らしていた。