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囚人  作者: 入魚ひえん
1/4


 なまぬるい空気をかきまわしている扇風機の音で、目が覚める。

 カーテンをかけ忘れた窓から、夜が見えた。

 欠けた月が、妙に冴えた色を放っている。


 俺は寝癖のついた茶髪を掻きながら、上体だけを起こした。

 べっとりとした感触が、全身にまとわりついている。

 寝汗を吸いまくった、買ったばかりのハーフパンツと、どこにでもありそうな黒いTシャツを脱ぎ捨てて、下着一枚になった。

 昼間よりは少し、なにかを食べようかという気になってくる。


 室内を見回した。

 あたりは天井も壁も床も、打ちっぱなしのコンクリートでつくられている。

 もともとはテナントの倉庫らしかったが、父方の祖父が所有しているものを借りて寝泊まりして、もう数年は経つ。

 今座っているソファベッドをはじめ、椅子とか、棚とか、テーブルとか、家具類は壁にも寄せずに置きっぱなしで、管理された空間からは程遠かった。

 家というにはあまりにも殺風景なので、俺はここを元倉庫と呼んでいる。


 テーブルの上には、ビール缶や空のカップ麺、食べかけのアイスプリンのカップが置かれたままになっていた。

 桃色のアイスプリンは半分くらい残っている。

 表面に白い気泡を立てながら液体になっていた。

 甘いものが食べたくなって、休日の真昼間から外に出かけた労力を思うと、なんだかまた変な汗が出てきた。


 ここは飲むべきか、廃棄するべきか。

 指を伸ばしかけたとき、ある瞬間が脳裏をかすめる。

 俺は手を止めた。


 駅前でアイスプリンを買った帰り道だ。

 俺の前を歩いてた、おそらく恋人同士であろう、隣の校区の制服を着た高校生を思い出す。

 背の高い男の隣にいた、色白で、長い黒髪の女の子の笑顔が、今見ている光景のようにはっきりと浮かんだ。

 思わず、手で口元を抑える。

 胸をぐしゃりと握られているように、息苦しくなった。


「あいつ、ナツだ……」


 ナツは一時期、夜中に家を抜け出しては、この元倉庫に入り浸っている子だった。

 親とうまくいっていなかったらしい。

 だから家から逃げて、ここを避難場所にしていたのだろう。

 俺はそれに、数えきれないほど助けられた。


 ナツはここに来ると必ず、俺の妹の樹里の相手をしてくれた。

 樹里は精神的にかなり不安定で、気に入らない事があるとヒステリーを起こしたり、理由を明かさないまま暴れたり、泣き叫んだり、殴ったり、また殴ったり、兄の俺でも結構へこたれるような子だった。

 そんな感じだから、樹里の友達なんてナツ以外はいなかった。

 だから俺は、ナツに感謝している。

 ナツが樹里に会いに来なくなって、もう随分と経った今でも。


 俺は深く息を吐く。

 駅前で見かけたナツは、あの頃のように、今にも泣き出しそうな顔で笑う女の子ではなかった。

 ナツは変わった。

 よかった、本当に。


 いつも調子の悪い蛍光灯が、音を立てて点滅した。

 室内のあらゆる影が、くっきりと浮かんでは陰る。

 テーブルの奥にある違和感は、そのせいかと思った。

 元倉庫の隅で、懐かしいセーラー服を着た女の子が、壁に背を預けて座り込んでいる。


「……樹里」


 以前と変わらない、刺すようなまなざしが、ただ見つめてくる。

 耐えられなかった。

 俺は笑う。

 笑いながら手を伸ばして、ソファベッドに転がっている携帯を取り、耳に当てた。

 呼び出しのコール音は、4回目で途切れる。

 受話器越しに、若い男の声が応えた。


「シン、どうかしたの?」


 俺はこみ上げてくる笑いを抑えながらも、明るく言った。


「ああ、どうかしたよ。俺はどうかしてる」

「確かに、あからさまな結婚詐欺に引っかかりかけたときは、そう思ったよ」

「俺の過去の傷を気軽に持ちだすな。なぁカイ、ナツ覚えてるか?」

「うん。ジュリの友達だった子だね」

「うわ、ひでぇ言いぐさだなぁおい。カイだって、ナツと仲良かっただろ」

「そうだっけ。ナツがどうかしたの?」

「ナツは楽しそうだったよ。元気そうだったし、背の高いイケメンと一緒だった。少しくらい身長わけて欲しいよな、本当に」

「ナツと会ったの?」

「いいや、炎天下の中では頭がゆだってたからさ、さっき溶けたアイスプリン見て思い出した」

「なるほどね。今日はいつも以上に、要領を得ない文脈だよ。暑さのせい?」


 俺は振り返る。

 振り返って、やっぱりそこに、樹里がいることを確認する。


「なぁカイ、会わせたいやつがいるんだ。今すぐ元倉庫に来てくれ」

「誰、ナツ?」

「会えばわかるから、来てくれよ」

「深夜に高校生を呼び出すのは良くないよ。それに俺、一応受験生。結構忙しいんだよね」

「でも俺、このままだと笑いを止められそうにない」

「愉快そうだね」

「逆だよ、逆なんだ。なぁわかってくれよ。これは、カイにしか頼めそうにないんだ」


 耳に当てた携帯から、深い息が吐かれた。


「今から向かうよ」



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