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なまぬるい空気をかきまわしている扇風機の音で、目が覚める。
カーテンをかけ忘れた窓から、夜が見えた。
欠けた月が、妙に冴えた色を放っている。
俺は寝癖のついた茶髪を掻きながら、上体だけを起こした。
べっとりとした感触が、全身にまとわりついている。
寝汗を吸いまくった、買ったばかりのハーフパンツと、どこにでもありそうな黒いTシャツを脱ぎ捨てて、下着一枚になった。
昼間よりは少し、なにかを食べようかという気になってくる。
室内を見回した。
あたりは天井も壁も床も、打ちっぱなしのコンクリートでつくられている。
もともとはテナントの倉庫らしかったが、父方の祖父が所有しているものを借りて寝泊まりして、もう数年は経つ。
今座っているソファベッドをはじめ、椅子とか、棚とか、テーブルとか、家具類は壁にも寄せずに置きっぱなしで、管理された空間からは程遠かった。
家というにはあまりにも殺風景なので、俺はここを元倉庫と呼んでいる。
テーブルの上には、ビール缶や空のカップ麺、食べかけのアイスプリンのカップが置かれたままになっていた。
桃色のアイスプリンは半分くらい残っている。
表面に白い気泡を立てながら液体になっていた。
甘いものが食べたくなって、休日の真昼間から外に出かけた労力を思うと、なんだかまた変な汗が出てきた。
ここは飲むべきか、廃棄するべきか。
指を伸ばしかけたとき、ある瞬間が脳裏をかすめる。
俺は手を止めた。
駅前でアイスプリンを買った帰り道だ。
俺の前を歩いてた、おそらく恋人同士であろう、隣の校区の制服を着た高校生を思い出す。
背の高い男の隣にいた、色白で、長い黒髪の女の子の笑顔が、今見ている光景のようにはっきりと浮かんだ。
思わず、手で口元を抑える。
胸をぐしゃりと握られているように、息苦しくなった。
「あいつ、ナツだ……」
ナツは一時期、夜中に家を抜け出しては、この元倉庫に入り浸っている子だった。
親とうまくいっていなかったらしい。
だから家から逃げて、ここを避難場所にしていたのだろう。
俺はそれに、数えきれないほど助けられた。
ナツはここに来ると必ず、俺の妹の樹里の相手をしてくれた。
樹里は精神的にかなり不安定で、気に入らない事があるとヒステリーを起こしたり、理由を明かさないまま暴れたり、泣き叫んだり、殴ったり、また殴ったり、兄の俺でも結構へこたれるような子だった。
そんな感じだから、樹里の友達なんてナツ以外はいなかった。
だから俺は、ナツに感謝している。
ナツが樹里に会いに来なくなって、もう随分と経った今でも。
俺は深く息を吐く。
駅前で見かけたナツは、あの頃のように、今にも泣き出しそうな顔で笑う女の子ではなかった。
ナツは変わった。
よかった、本当に。
いつも調子の悪い蛍光灯が、音を立てて点滅した。
室内のあらゆる影が、くっきりと浮かんでは陰る。
テーブルの奥にある違和感は、そのせいかと思った。
元倉庫の隅で、懐かしいセーラー服を着た女の子が、壁に背を預けて座り込んでいる。
「……樹里」
以前と変わらない、刺すようなまなざしが、ただ見つめてくる。
耐えられなかった。
俺は笑う。
笑いながら手を伸ばして、ソファベッドに転がっている携帯を取り、耳に当てた。
呼び出しのコール音は、4回目で途切れる。
受話器越しに、若い男の声が応えた。
「シン、どうかしたの?」
俺はこみ上げてくる笑いを抑えながらも、明るく言った。
「ああ、どうかしたよ。俺はどうかしてる」
「確かに、あからさまな結婚詐欺に引っかかりかけたときは、そう思ったよ」
「俺の過去の傷を気軽に持ちだすな。なぁカイ、ナツ覚えてるか?」
「うん。ジュリの友達だった子だね」
「うわ、ひでぇ言いぐさだなぁおい。カイだって、ナツと仲良かっただろ」
「そうだっけ。ナツがどうかしたの?」
「ナツは楽しそうだったよ。元気そうだったし、背の高いイケメンと一緒だった。少しくらい身長わけて欲しいよな、本当に」
「ナツと会ったの?」
「いいや、炎天下の中では頭がゆだってたからさ、さっき溶けたアイスプリン見て思い出した」
「なるほどね。今日はいつも以上に、要領を得ない文脈だよ。暑さのせい?」
俺は振り返る。
振り返って、やっぱりそこに、樹里がいることを確認する。
「なぁカイ、会わせたいやつがいるんだ。今すぐ元倉庫に来てくれ」
「誰、ナツ?」
「会えばわかるから、来てくれよ」
「深夜に高校生を呼び出すのは良くないよ。それに俺、一応受験生。結構忙しいんだよね」
「でも俺、このままだと笑いを止められそうにない」
「愉快そうだね」
「逆だよ、逆なんだ。なぁわかってくれよ。これは、カイにしか頼めそうにないんだ」
耳に当てた携帯から、深い息が吐かれた。
「今から向かうよ」