新着メール、0件
1
諒はベッドに横たわったまま、部屋の窓から空を見上げた。
宇宙まで見わたせるように澄んだ青空のうえを、淡い雲がゆったり流れている。
気持ちのいい秋晴れの、土曜日の午後だ。
――それだってのに俺は……。
昨夜から布団をかぶったまま、必死に悪寒と闘っている。
平日のあいだずっとくすぶっていた風邪が、週末になってとたんに悪化したのだ。
これを機に、積まれたままの本を読んだり、録りだめていたドラマを観ようとおもったが、苦痛が邪魔して、まるで集中することができない。ベッドのなかで寝返りを打つだけのつらい時間がつづいていた。
目をつぶっていても眠ることができず、諒は枕元においてあるケータイをひらいた。
待受け画面に、新着メールの通知はない。着信音が鳴っていないからわかるはずなのに、何分かおきに確認せずにはいられなかった。
小さくため息をついて、送信メール一覧をひらく。最後に送ったメールは、昨日の夜十一時三十二分。
『ゴメン。風邪がひどくなったから、日曜のデート延期でいい?』
いったい何回、この文面を見かえしては気分を落ち込ませたことだろう。
書き方になにか問題があったのだろうか。なにか気にさわるようなことを書いただろうか。
何度も自答するが、すくなくともこのメールの中には、要因はなにも見当たらない。
と、思う。
――あー、もう。なんで返事くれないんだよ。
木曜に電話で話したときに、金曜の夜は飲み会。土曜は仕事、そのあとまた飲み会。そう言っていた。
だから、忙しいのはわかっている。
でも、メールの一通くらい、返す時間あるんじゃないか?
諒の恋人である啓一は司法書士で、事務所を経営している。そのため、土日でも顧客からの要望があれば出向かなければならないし、接待の飲み会も多い。
会社員の諒には、一応土日の休みだけは保証されている。そのため、土日に啓一に仕事が入ると、仕方のないことだとはいえ、すこしがっかりしてしまう。
――会えないときはせめてメールとか電話とかで、連絡くらい取ってたいのに。
諒はぶすっと頬をふくらませて、頭からふとんをかぶった。
啓一は、男らしく、優しくて、とても頼りになる人物だった。
だが、どこかひょうひょうとしているというか、人間関係にかんして、達観しているような部分がある。相手の深くまで踏み込もうとせず、また、踏み込ませず、とにかく誰とでも良好な関係を保っていくことを最優先にしているようなのだ。
会話においても、どちらかといえば聞く一方で、あまり自分のことをしゃべろうとはしない。
そのため、付き合い始めてから半年たった今でも、諒には啓一の考えがわからないことが少なからずあった。
特に相違をかんじているのは、連絡の取り合い方についてだ。
諒は、恋人とはひんぱんに連絡を取りたいと思うタイプの人間だった。
そして、カップルといえばそうするのが当然だろうと思い込んでいた。
だが啓一は、いちいち着信履歴だのメールの返信だのを気にしない人間らしいのだ!
諒がメールや電話をしても、その日になにかしらの反応が返ってくるという保証はない。
翌日か、ときには何日かたってから、何事もなかったかのように、ぽんと返事がくることもある。
啓一を見ていて、自営業の大変さはある程度わかっていた。
連絡がないときは、仕事で時間がないか、疲れているのだろう。
それに、啓一はいまどき珍しいようなアナログ人間で、電子機器にめちゃくちゃ弱い。
まだ二十九歳のくせに、
「スマホはわからない。こっちのほうが安いし、機能も間に合ってる」
とかいって、いまだに二年前にでたガラケーをつかっている。 諒も何週間かまえにケータイを買い替えたが、啓一に触発されて、ふたたびガラケーを買ってしまった。
時間があっても、ケータイをいじるのが面倒くさいんだろう。
諒は、不安にかられそうになるたびに、そうやって自分に言い聞かせてきた。
「もうちょっと連絡ほしいな」
思い切ってそう言おうとしたことも、何度かある。
だが、一週間に一度は必ず会っているし、会えば愛されていることを実感できる。
啓一には啓一のペースがあるのだ。それを乱して、負担になるようなことは避けたかった。
それにしても……、
――風邪ひいたときくらい、すぐに返事してくれたっていいじゃん。
心細さにかられた今は、そう思えてならなかった。
2
電気ストーブを最大にして点けているのに、まるで冷たい石を抱かされているように、身体が冷える。
ひざを折り曲げて、ふとんのなかに全身をうずめていると、急激にのどの渇きにおそわれた。
けだるい身体を必死におこす。
長いこと曲げていた関節を伸ばすと、熱のこもった痛みがはしった。
壁に手をついて、めまいと闘いながら、のろのろと歩をすすめる。
アパートのワンルームだが、冷蔵庫までの道のりが果てしなく遠かった。
やっとの思いでキッチンまでたどり着き、冷蔵庫をひらく。
買っておいたスポーツ飲料は、ペットボトルの底に少ししか残っていなかった。あとで買ってこなければ、と憂鬱に思いながら、最後のひと口を飲み干した。
――あいつに、そばにいてほしいな。
たかだか風邪くらいでこんなにも気弱になる自分のことが、情けなくなる。
社会人になると、体調をくずすのは自己管理ができていないから、の一言で片づけられるのが常だ。
心配してほしいなんて、甘えた考えなのはわかっている。
――でも、もし逆だったら……。
もし啓一がつらい思いをしていたら、きっと自分は、心配でたまらなくなるのに。
重い足をひきずってベッドに戻り、ふたたび毛布にくるまった。
――啓一は、俺のこと、ほんとに愛してくれてるのかなぁ。
ふいに、そんなことが、ぼんやりと頭に浮かんだ。
普段、こういう疑念に陥りそうになったときには、無理やりにでも何かして、気持ちを切り替える。
しかし、身体を動かせない今、その方法はつかえなかった。
――ああ、ダメだ。ほかのこと考えなきゃ。
だが、すでに手遅れだった。
思考は迷路にまよい込んだように、ぐるぐると同じ個所をさまよい始めた。
風邪のつらさに、胸を押さえつけられるような重苦しさが加わる。
――もしかしたら、今頃ほかのだれかと……。
もちろん、そんなことをする奴じゃないと信じてはいた。だがときおり、このようなマイナスの想像をしてしまう。
なにせ、啓一はモテるのだ!
長身。男性的でくっきりとした輪郭と目鼻。落ち着いていて、いかにも頼れそうな雰囲気。
男の諒から見ても、啓一は完璧に思えた。
共通の知り合いの女性から、啓一に恋人はいるのか、と何度きかれただろう。
まさか自分がそうだともいえず、そのたびに「いるらしいよ」と曖昧に答えてきた。
詳しく話そうとしないが、過去の恋愛遍歴をきいても、啓一が異性から人気があったことは明白だった。
諒も啓一も、同性の恋人はお互いがはじめてだった。
誘惑されて、やっぱり女のほうがいいな、なんてことがないと言い切れるだろうか。
飲み会については、「別におもしろくない。仕事」と言って淡々とこなしているようだが、もしかしたら、諒に気を遣ってそう言っているだけかもしれない。
――そういえば、今日のお客って、あそこの不動産屋だよな。あのすげえ美人の子がいる! 彼女、啓一に気があるかんじだったよな。てか啓一に魅力を感じない奴なんていないだろうし。あの女、啓一に飲ませて、酔わせるんだろうな。それで、女にしか使えないようなあの手この手で、啓一を口説くんだ。飲みすぎてわけわかんなくなった啓一の手を取って、「啓一さんの手、あったかくておっきぃ」とかなんとか言って。そのままホテルに……。くそー、甘えた声だしやがって。見え見えじゃんか! 啓一のやつ、なんでそんな手に引っかかっちゃうんだよ!
熱でもうろうとした頭のなかに、自分でもおどろくべき勢いで話が練りあげられていく。
あまりにも悲痛なシナリオに耐えるために、諒は枕をぎゅっと握りしめた。
窓のそとを見やると、空は夕焼けに変わっていた。壁の時計を確認する。
――そろそろ六時か。仕事が終わって飲みに行くころかな。
諒は、うぅ、と絶望のうめき声をあげて、目をつぶった。
3
半醒半睡のまま、押し寄せては消える暗いイメージのなかをさまよった。目をあけて時計を見ると、たった一時間しかたっていなかった。
ほとんど無意識に、ケータイに手が伸びる。
待受け画面には、一件の新着メール通知があった。
諒はハッとして、ケータイを両手で握りしめた。否応なしに期待がふくらみ、顔が火照った。
胸を高鳴らせながら、通知ボタンを押した。
『男のメールマガジン №86. 今イケてるパンツの柄は……、写実的なキリンだ!』
「……」
諒のなかで、なにかがふっ切れた。
指をすさまじい速さで動かして、ケータイのボタンを打っていく。
メールの新規作成。
アドレス帳から、啓一のメールアドレスを選択。
タイトルは空白。
本文入力。
『楽しく飲み中ですか? いいですね。俺って、啓一のなかでそうとう優先順位低いんだね。いっつも俺には連絡もろくにしてくれないくせに飲み会だけは律儀に行ってさ、仕事とか言ってるけど、ホントは楽しんでるんでしょ? 会ってないときは俺のことなんか忘れちゃってるんだよね』
改行も入れずに一気に書き上げた。
震える親指を、送信ボタンのうえに持っていく。
指先は、宙で静止したまま、動かすことができなかった。
自分の打ったその文面を見つめていると、悲しさがこみ上げてきた。
メール作成画面をそのままにして、手の力を抜くと、ケータイはするりとふとんのうえにすべり落ちた。
「最低だな、俺」
まるで自分のことしか考えてない。愛する人のことを疑って、自ら惨めになる要因を作っている。こんな人間には、恋愛をする資格すらないのかもしれない。
――あいつの、どんなところが好きだっけ……。
目を閉じると、啓一の姿がまざまざと浮かんできた。
――愛想ないから初対面だと取っ付きにくいんだよな。本人ぜんぜん自覚ないけど、一見こわもてだから。迷子の子どもに話しかけたら、すげー怖がられてたっけ。手つないだら、すぐ懐いちゃったけど。
ホント、だれにでも優しいんだよ。まじめでさ。正義感強くて。でもどっか抜けてるところがあって、放っとけなくて。
そうそう、このあいだ、流行を研究してるとか言うから、なんでか訊いたら、俺に嫌われたくないから、って。別にそんなの気にしないのにさ。ダサくなりたくない、とかいって。でもなんか、取り入れ方間違ってるっていうか、ズレてるんだよな。そこがまたかわいいんだけど。
毛布に顔をうずめると、自然と、ふふっと笑みがもれた。こんなにすらすらと好きな部分が浮かんでくることに、我ながら脱帽する思いだった。
いつのまにか、まるで啓一に抱かれているかのように、穏やかな気持ちになっていた。
――そうだよな。あいつが、浮気とかするはずない。もししてたとしても……。もしあいつが、俺のことそれほど想ってくれてなかったとしても、俺はあいつが好き。世界中で一番、俺があいつのことを愛してる。そうだ。それでいいじゃないか。
これまで感じたことのないような満たされた気持ちが、身体の苦痛を連れ去っていくようだった。
それはあたたかい眠気となって、諒を優しくくるんだ。
4
目をあけたとき、それまで諒の身体をさいなんでいた痛みは消えていた。
時計は、二三時を示している。ぐっすり眠れたことで、熱が引いたらしい。
めのまえには、ひらいたままのケータイが転がっていた。
――メール、きてるかな。
かすかな期待とともに適当なボタンを押すと、真っ暗だった画面が、パッと明るくなった。
その画面には、あるメッセージが一面に表示されていた。
それを見た瞬間、下がっていたはずの体温が、再び一瞬にして上昇するのをかんじた。
『送信しました』
――うそ、だろ?
祈るような思いで、送信メール一覧を確認する。
先ほど打ったあのメールが、きちんと啓一宛てに送信されていた。
「うそ! なんで?」
メールは未送信のまま、ワンボタンで送信できる状態になっていた。
送信時刻は、二〇時四五分。
眠っているあいだに、なにかの弾みでボタンを押してしまったのだ。そうとしか考えられなかった。
――お、落ち着け。冷静に考えろ。どうすれば許してもらえる?
メール作成画面をひらきながら、必死に気持ちを落ち着かせようとする。
『ゴメン!! さっきのメール、間違えなんだよね。なんか熱でわけわかんなくて、俺おかしくなってたみたい。送るつもりなかったんだ。ゴメンね、忘れて』
『なーんつって! 友達と劇団やろうって話でさ、恋人が破局するきっかけってことで、あのメールどうかな? ドン引きだよね。きっかけとしちゃ十分だよな』
ああ、苦しすぎる……。
どんな言い訳も通用しないのだ。あのメールを打ったのは自分自身で、ほんの一瞬にしろ、文面通りの気持ちになってしまったのは事実なのだから。
ケータイをパタンと閉じると、全身から力が抜けた。
ケータイはベッドの下にすべり落ち、カタンと音を立てた。
「最悪だ。終わりだ、全部……」
終わり、終わり、終わり、終わり……。
同じ言葉が、呪文のように頭のなかをかけめぐる。
後悔がずっしりと胸のうえにのしかかった。泣きたいほどつらいのに、涙はでない。
頭が空白になって、現実に起きたこととして考えることができないような心持ちだった。
諒はすべてが夢であればいいのにと願いながら、ただただベッドにぐったりと身を預けた。
どれほどのあいだそうしていただろう。突如、玄関のチャイムが静寂をかき消した。
起き上がる気力がわかず、無視していると、同じ音がふたたび鳴り響いた。
上着を羽織って玄関へ向かう。普段なら、こんな夜更けにだれだろう、と不審に思うだろう。だが今は、そんなあたりまえの疑問すら思い浮かばなかった。
ずっと横になっていたため、立ちくらみがして視界がぼやける。
「はい……」
放心状態でうつむいたまま、玄関扉をあけた。
「大丈夫、か?」
――あ、幻聴。あいつの声だ。なんであんなに息切れしてるんだ?
「風邪、大丈夫か? わるい、急に来て。連絡いれる時間がなかったから」
――やけにはっきり聞こえるなあ。……って、え?
顔を上げると、啓一が心配そうな顔で、諒を見下ろしていた。
呼吸を整えるために肩を上下させ、首筋にすこし汗がにじんでいる。
ここまで走ってきたことはあきらかだった。
片手に持っているコンビニのビニール袋には、スポーツ飲料のペットボトルと、インスタントのおかゆが入っていた。
それを目にしたとたん、涙が堰を切ったようにあふれてきた。
泣き顔をかくそうと、諒は顔をそむけた。
「ゴメン。ぼく、あんなメール……」
「あのメール」
諒の言葉にかぶせるように、啓一が口をひらいた。
「連絡とるの、このペースでいいのかって勝手に思ってた。おまえ何も言わないもんだから。ごめん、気づかなくて。会ってないときも、おまえのこと忘れたりなんかしてない。それから、飲み会はマジで付き合いだから。わかってくれ」
「わかってる。ぼくのほうこそごめん、ごめんなさい」
最初から、ただ信じていればよかったのに。そうすれば、啓一にこんなことを言わせないで済んだ。
啓一は、泣きじゃくる諒を抱えるようにしてベッドまで連れて行ってくれた。
それから、キッチンでケトルを火にかけて、諒のとなりに腰をおろした。
諒の濡れた頬を指でふき、額に自分の額を合わせる。
「やっぱりちょっと熱いな」
「うん、でももう大丈夫。ありがと」
汗ばんでいるのもかまわずに、啓一は諒の髪をなでた。
「そうだ、今日、飲みの席でいろいろ頼んできた。条件に合うとこ、探しといてくれるって」
「え? なんのこと?」
ピンとこずに聞き返すと、啓一は、照れくさそうに頬をかいて、そっぽを向いた。
「一緒に住みたいって言ってただろ」
諒は、ぽかんと口をあけて啓一を見つめた。
束の間、言葉の意味を理解することができないほどのおどろきだった。
――うそ、うそ、毎日啓一に会えるなんて!
ふたたび、目元がうるうるとにじんできた。
「啓一ー、啓一ー!」
二人してうしろに倒れそうになるほど、思いっ切り抱きつく。
啓一は力強く受け止めて、肩をぽんぽんと叩いた。
啓一のことが愛おしくて愛おしくてたまらなかった。抱きつくだけではとても足りない。
諒は、さりげなくスーツの上から、啓一の下半身に手を伸ばした。
「ちょ、バカ! 風邪ひいてんだろうが! ダメだって」
「だいじょうぶだいじょうぶ」
制止しようとする啓一の手を払いのけて、スーツのベルトを外す。
ジッパーをおろし、ズボンを下げようとすると、「こら!」と本気で肩をつかまれ、引き離された。
「いじわるー」
と口をすぼめると、啓一は、
「まったく、しょうのない奴だな」
と呆れたように笑った。
「寝てろ、おかゆ作ってやるから」
そのとき、諒を横にしようと身体をかがめた啓一のズボンのすき間から、下着の柄が見えた。
――っ! 写実的なキリン!
うれしさとおかしさがないまぜになって、思わずぷっと吹き出してしまう。
「なんだよ?」
啓一は、怪訝そうな顔をした。
「なんでもない。啓一、マジで愛してる」
――それから、疑ってごめん。
心のなかで付け足す。
「ああ、俺もだよ」
そういって、啓一は諒の唇にやさしくキスをした。




