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蛍の庭

作者: 雫石しま
掲載日:2026/08/11

 

蛍の庭


 私は夫の葬儀を終えた。だのにこうして義兄に身を委ねている。


 漆黒の闇。夜露に濡れた露草に、儚い光を放つ蛍。無数の光の筋が、ぶなの林で弧を描いていた。握りしめた手が布団のシーツを乱し、蚊帳の中を情熱が満たした。蚊取り線香の燻る座敷で、2人は互いの鼓動を感じていた。線香の灰が白くなり、皿の上にポトリと落ちた。倫子(りんこ)ははだけた浴衣の襟元を整えながら、身を起こした。コオロギの鳴き声が静かな時間に響いた。洋平(ようへい)は倫子の首筋に唇を落とすと、彼女を後ろから抱きしめた。


「倫子さん......蛍」

「はい」

「蛍は亡くなった人の魂だと、うちの婆ちゃんが言っていました」


 倫子は思わず庭の蛍から目を背けた。


「蛍......見ないんですか?」

「人の魂なんでしょう?」

「洋介(ようすけ)を思い出すからですか?」


 倫子は彼の腕の中で、初めて洋平と出会ったあの春の日を思い出した。






ー3ヶ月前


 倫子が洋平と出会ったのは、婚約者の和田洋介との結納の式でのことだった。和田洋介には双子の兄がいた。名前は和田洋平、倫子の義兄となる。


 花霞の空に桜が舞い散っていた。その日は朝から慌ただしかった。倫子たちは客間で和田家の到着を待った。彼女はその時間をとても長く感じた。洗面所に行き髪を整え、ワンピースの襟元を正した。あまりに落ち着きがないので、母親にじっとしていなさいと注意されてしまった。


バタン バタン


 表にタクシーが到着し、人の気配が近付いて来た。倫子の胸は緊張と期待で高鳴った。砂利を踏む足音に思わず頬が緩んだ。玄関の引き戸が開いた。すっと爽やかな春風が吹き込んだ。


「おやおや、倫子さんお元気そうで」


 鶴に亀の立派な水引きで結ばれた結納品を手にした仲人が会釈した。


「今日はご足労頂きありがとうございます」


 倫子は深々と頭を下げるとスリッパを準備した。


「まぁ、そんな堅苦しいことは言わないで」

「はい」


 仲人に次いで、和田家の面々が玄関の敷居を跨いだ。洋介は濃紺のスーツに紺色のネクタイを締めていた。柔らかな物腰の洋介は眼鏡のツルを上げながら小さく手を振った。


「洋介さん」

「倫子ちゃん、なんだか照れるね」

「うん」


 頬を染めた倫子は恥ずかしげに洋介のスーツの袖を摘んだ。洋介は目を細め肩をすくめて微笑んだ。倫子は洋介のこの笑顔が好きだった。


「お邪魔します」

「どうぞ」


 倫子が振り向くと、洋介の両親の背後にもうひとりの姿があった。その男性が洋平だった。倫子は思わず息を呑んだ。洋介から、双子の兄がいるんだ、とは聞いていたが、これほどまで瓜二つだとは思わなかった。ただひとつ違うところは、左の目尻にホクロがあることくらいだった。そして、洋平からは静かな男の色気を感じた。


「初めまして、兄の洋平です」

「は......初めまして。石塚倫子です」

「お邪魔します」

「ど......どうぞ」


 倫子は慌ててもう一足のスリッパを準備した。革靴を脱いだ洋平は玄関の三和土(たたき)の冷たい土間から倫子の顔を仰ぎ見た。倫子と洋平の視線が合った。その熱を持った目に倫子は思わず顔を赤らめた。


「こちらへどうぞ」


 座敷へと案内する倫子の小指に洋平の小指が触れ、指先に熱を感じた。倫子の胸は高鳴ったが、洋平は素知らぬ顔で座敷の鴨居(かもい)で腰を屈めた。倫子の目は洋平に釘付けになった。その後、恭しく「結納品」が毛氈の上に並べられ、上座に倫子と洋介が座った。和田の父親が結納の挨拶を始めた。倫子の意識はなぜか洋平へと向かい、気もそぞろだった。


「この度は、倫子さまと息子洋介に、素晴らしいご縁を......」


 その言葉が右から左へと素通りした。和田の母親が前に進み出て結納品を倫子の前に置いた。結納品が置かれるたび、倫子の胸に洋介への責任と洋平へのざわめきがせめぎ合った。


「......幾久しくお納めください」


 緊張の表情の倫子は深々と頭を下げた。ふと見ると、洋平の左の薬指にはプラチナの指輪が輝いていた。彼女は、あぁなんだ、と少し残念に感じた。


「ありがとうございます。幾久しくお受けいたします」


 その後、幾つかの遣り取りが交わされたが、倫子の耳には全く頭に入って来なかった。彼女の目は、下を向いている洋介の目を盗んで、洋平の一挙一動を追った。倫子の心は乱れた。






 倫子の意識は春の記憶から引き戻され、目の前の蛍の光に揺れた。湿り気のある、ぶなの林で蛍が舞う。その光は、倫子の心の揺れを映すように、静かに瞬いた。座敷の鴨居には、漆黒の喪服が掛けられていた。喪服は倫子の心に重くのしかかり、洋介の不在を突きつけた。


「倫子さん......ほら洋介が見ていますよ」


 彼女はいく筋もの光の軌跡に見下ろされながら、洋平の熱い指に翻弄された。蛍の光が倫子の頬に影を落とし、洋介の笑顔が脳裏に浮かんでは消えた。



紫陽花のブーケ



 ー2ヶ月前


 倫子と洋介の結婚式披露宴は金沢市で有名なラグジュアリーホテルで盛大に行われた。煌きらめくシャンデリア、濃紺の絨毯。ざわめきの中、お久しぶりでございます、お世話になっておりますと、親戚や来賓が席次表を片手に挨拶を交わし着座していた。その扉の外には倫子と洋介が出番を待っていた。倫子が見上げると洋介は緊張の表情で、腕を組んだ肩に力が入っていた。彼女がその頬をつねると、洋介は頭を掻きながらはにかんだ。


「どきどきしますね」

「倫子ちゃんは平気なの?」


 不安げな表情の洋介は倫子の顔を覗き込んだ。倫子は洋介の優しさに惹かれたはずだったが、最近は、披露宴の引き出物すら決められない彼の優柔不断さに苛立つ瞬間が増えていた。本当にこれでいいのかと、彼女の心は一瞬揺れた。


「私も緊張しています」

「僕......もう倒れそうだよ」


 洋介は緊張で震える手を倫子の手にそっと重ね、『僕、頑張るよ』と小さく笑った。そして、倫子ちゃん。動かないで、紫陽花のヘッドドレスについた、かすみ草の葉を摘んだ。この優しさと気遣いは、倫子の迷いを打ち消した。


「倫子ちゃん......とっても綺麗だよ」

「洋介さんも素敵です」


 ウェディングプランナーが、お時間になりました、と倫子に耳打ちをした。倫子の鼓動は激しく波打ち、大きく息を吸って深く吐いた。洋介の顔は強張っていた。


「洋介さん、しっかりして!」

「う......うん」


 扉の向こうの騒めきに、自然と背中が伸びた。


「では、新郎新婦さま、扉が開きます」

「はい」


 チャイコフスキーの花のワルツが大音量で流れ、披露宴会場の扉が大きく開いた。四方八方から照らすサーチライトに目が眩くらんだ洋介は怯み、その背中を倫子が支えた。ライトの残像が飛び交う蛍のように見えた。


「洋介さん、大丈夫ですか?」

「ちょっとびっくりした」


 洋介の笑顔に微笑み返しながら、倫子は心のどこかで苛立ちを抑えた。披露宴会場に向かい深々と頭を下げると拍手が湧き起こった。親戚や友人の笑顔に見送られ、円卓の合間を縫い高砂席へと向かう。


 倫子と洋介が着座した。縁のある主賓の挨拶が始まり倫子と洋介は口角を上げながらお辞儀をしたり頷いたりと忙しない。乾杯となればまた席を立たねばならなかった。


 やがてヴァイオリンがバッハのG線上のアリアを生演奏で奏で歓談や余興が始まった。来賓の円卓には紫陽花をイメージした装花が彩りを添え、大勢のバンケットサービススタッフが手際よくフレンチのフルコースを配膳した。


「......笑うのも疲れるね」

「そうですね」


 倫子の友人や洋介の会社の同僚たちの祝辞が続き、高砂に配膳されたソルベデザートが溶け始めた。


 親戚の挨拶が終わりひと息ついた。今度は倫子が通っている華道の師範が烏龍茶の小瓶を持って高砂に挨拶に訪れた。彼女は薄水色の加賀友禅の着物に豪華な帯を締めていた。本日はありがとうございます、倫子が深々と頭を下げると、師範は烏龍茶をコップに注ぎながら、洋介を一瞥した。


「倫子さんのご主人様、素敵な方ね。どこでお知り合いになられたの?」

「お見合いなんです。親戚に勧められて」


 師範の目が鋭く変わり、加賀友禅の色留袖の袖で口元を隠した。


「あらあらあら、お見合いならまだこれからね」

「これから、ですか?」

「お互い知らないことがたくさんあるんじゃない?」

「知らないこと......ですか?」


 意味深な言葉を残し洋介を一瞥した師範の背中に、彼は気分を害したような表情になった。普段は温厚な洋介にしては珍しく、倫子は不自然なものを感じた。大丈夫かと尋ねると、なんでもないよといつものように目を細めて肩をすくめた。彼女は安堵したが、やはり心のどこかに引っ掛かりを感じた。


「新婦様......お色直しでございます」


 倫子はウェディングドレスからカラードレスに着替えるため、席を立った。洋介は軽く手を振ったが、彼女はその笑顔をなぜか遠くに感じた。倫子の中にわだかまりが残った。洋介の顔色の変化に疑問を感じた彼女は紫陽花のブーケを強く握りしめた。


 披露宴会場を後にした倫子は新婦控室へと向かった。披露宴会場裏の長椅子には、見慣れた顔の男性が俯いていた。ウェディングプランナーは一瞬、その男性を洋介と見間違い、披露宴会場を振り返った。倫子は、双子のお兄さんなんです、と彼が新郎の兄であることを説明した。それでは少し外しますね、ウェディングプランナーは気を利かせてその場を離れた。


「......あの」

「はい、なんでしょう」


 洋平とは結納の日以来の再会で、倫子は困惑した。紫陽花は色を変える。手にした紫陽花のブーケは、揺れる自分の心を洋平に見透かされているような気がした。倫子は洋介にはない、落ち着いた洋平の魅力に惹かれ始めていた。緊張で頬が赤らみ、ブーケを持つ手が震えた。ダウンライトの仄暗い廊下に、華やかなヴァイオリンの音色が漏れ聞こえてきた。扉一枚隔てたこの場所だけが、切り取られた空間のように感じた。


 パサっと音を立て紫陽花はドレスの裾に落ちた。洋平は言葉もなく立ち上がると流れるような動きでブーケを拾った。洋平の落ち着いた仕草には、洋介の優柔不断さとは異なる、静かな確信があった。倫子の心は、その確信に絡め取られそうだった。その時、洋平は、倫子さん、洋介にはもったいないよ、そう呟いた。倫子にはその意味が分からず首を傾げた。ふと、整髪料の香りなのかウッディで落ち着いたムスクの匂いがした。『どうぞ』左目尻のホクロにシワが寄ると、彼は目を細めて洋介と同じ顔で微笑んだ。倫子の胸はときめいた。けれどこんな気持ちは間違っている。洋介の重さが倫子にのしかかった。彼女は首を横に振った。倫子はブーケを受け取る時、彼の指が一瞬自分の手に触れ、指先から甘い電流が走った。


「ありがとうございます」

「どういたしまして」

(あれ?指輪が)


 洋平はさりげなく左手を隠した。洋平の左薬指からプラチナの指輪が消えていた。

 新婚旅行は南の島、フィジーを選んだ。開放的なフィジーなら、洋介との全てをリセット出来るような気がした。飛行機から降り、南国の花の香りを胸いっぱいに吸った倫子と洋介は微笑みあった。倫子はこれから始まる新しい暮らしへの期待でいっぱいだった。隣には目を細めて肩をすくめる優しい笑顔。何もかもが輝いて見えた。


深淵


 海岸沿いに建つホテルの部屋からはマリンブルーの海が一望出来た。洋介は倫子の首筋に唇を這わせ、互いの鼓動を確かめ合った。けれど彼女は一瞬、結婚式で感じた別の熱い視線を思い出した。洋介の指先が肌をなぞると彼女は息を止め身体を震わせた。倫子はあの視線を振り払うように、洋介の腕に強くしがみついた。


「こんな綺麗な場所、ずっと一緒にいたいね」

「......そうですね」


 その言葉があまりにも純粋で、倫子は逆に現実から遠く感じられた。


 翌日、沖合の珊瑚礁でのシュノーケリングツアーに参加した。白い船はエメラルドブルーの海を滑るように進み、白い波を作った。青空は澄みわたっていたが、倫子の胸は曇り空だった。


 洋介は外資系の企業に勤務し英語は堪能だ。彼は倫子を一瞥しただけで、スタッフや乗客と会話を楽しんでいた。洋介の笑顔が他の乗客に向けられるたび、倫子は自分が置き去りにされる気がした。倫子はひとり会話にも入れず遠く離れるフィジーの椰子の木を眺めていた。それは洋介から離れてゆくような気がした。こんな時、あの人はどうしただろう。倫子は洋平のムスクの香りと左目尻のホクロを思い出していた。


「倫子ちゃん、着いたよ!」


 倫子が青空にたなびく雲をぼんやりと眺めていると、不意に肩を叩かれた。それがあまりにも突然だったので、彼女は洋介の手を振り払っていた。彼は怪訝そうな表情になったが気を取り直して、目を細めた。


「どうしたの?」

「ごめんなさい、ビックリして」

「いいよ。気にしないで」

(気にしないで!?少しくらいは気を遣ってよ!)


 洋介の言葉に倫子は憤りを感じたが、新婚旅行で喧嘩はしたくない。倫子は平静を装い、精一杯の笑顔で振り返った。その笑顔に安堵した洋介は、手際よく倫子にシュノーケリングの装備を着けた。彼はシュノーケリングの経験もあるといった。華道の師範が言ったように、新婚旅行で洋介のいろいろな顔があることを知った。見合いから1ヶ月、結納から2ヶ月でのスピード結婚、倫子は30歳を間近にして少し焦っていた。


 浅瀬の珊瑚礁は太陽に照らされ、ガラスのように透き通っていた。それは、これまで鬱々としていた倫子の心を拭うように美しかった。白い珊瑚にイソギンチャクが寄せては返す波に揺れ、色彩豊かな魚たちが群れをなしていた。倫子は夢中になり珊瑚礁の世界を楽しんだ。


 気が付くと洋介から随分離れ、ふと足元を見て身の毛がよだった。そこに広がっていたのは深淵。絶望を感じさせる漆黒の闇。漆黒の闇を見た瞬間、倫子は洋介との未来がその闇に呑まれる気がした。倫子は自分の心の底に同じ闇が広がるのを感じ、息が止まった。彼女はいつの間にか珊瑚礁から離れた外洋にまで流されていた。恐怖に声も出なかった。それでも洋介は気づかない。一瞬、洋平の落ち着いた声が頭をよぎった。冷静に、冷静にと自分に言い聞かせ、ゆっくりと脚を動かし、腕で水を掻いた。珊瑚礁に戻って来た倫子の身体は恐怖で震えていた。


「あれ、倫子ちゃん。どこ行ってたの?」

「......」


 無神経な洋介を無視して、倫子は無言で砂浜に上がった。洋平なら、彼女の恐怖に気づき、落ち着いた声で励ましただろうか。倫子はあのムスクの香りを思い出し、それをすぐに振り払った。洋介も次いで海から上がって来た。


「倫子ちゃん、怖かったよね?僕、ちゃんと見てなくてごめん」

「......」


 洋介は倫子の胸のうちを察することなく、目を細めて白い大理石で出来たハートのオブジェを指差した。オブジェには潮で錆びた鐘が付いていた。


「この島に来たカップルは、もう一度ここに来るんだって」

(どうしてあなたは私の気持ちに気づかないの?)

「そうなんですね」


 洋介は写真を撮ってもらおうと、現地スタッフに声を掛けていた。倫子は笑顔を作ったが、虚しさが込み上げた。


「......」

「また来たいね!」


 現実味のない言葉に倫子は悲しくなった。帰りの船の中でも洋介は他の乗客と英語で会話を楽しんでいた。離れてゆく恋人たちのオブジェを眺めながら、なにもかもが海の底に沈んでゆくようで、洋介とはこの場所を訪れることはないような気がした。その予感が、倫子の胸に静かな波のように広がった。

 新婚旅行から日本に帰って1ヶ月が過ぎた頃から、洋介が変わった。帰宅時間が遅い日が続き、出張も増えた。彼は『大きなプロジェクトを任されたんだ』と意気揚々と出勤して行った。倫子はそんな後ろ姿に手を振ったが、洋介は振り返ることはなかった。洋介は疲れた顔で帰宅するのに、仕事の話をする目は輝いていた。けれど倫子の問いかけにそっけない返事をするようになった。


 倫子は洋介の希望で仕事を辞めた。これまでのキャリアを捨てた彼女は心の中にぽっかりと大きな穴が出来たような気がした。掃除、洗濯、いわゆる専業主婦だ。最近では洋介の外食が増え、食事はひとり寂しく食べた。倫子は庭先で洗濯物を取り込みながら、色褪せた紫陽花を眺めた。ふと、紫陽花のウェディングブーケを拾い手渡してくれた、あの落ち着いた声を思い出した。


 

雨の夜


 その日、倫子は近所のスーパーマーケットまで買い物に出掛けていた。雲行きは怪しくやがて鈍色の空になり、雨が降り出した。倫子は傘を持たず途方に暮れていた。あぁそうだ!傘を買えばいいんだと踵を返したが、誰も考えることは同じで傘は売り切れていた。タクシーでも呼ぼうかとスマートフォンを取り出した時、片手に持っていた買い物袋が軽くなった。見上げるとそこには、洋平が傘をさして立っていた。


「洋平さん......どうしてここに」

「この先に画材屋があるんです」

「画材屋さん」


 洋平は実家の離れで油画を描いてそれを生業にしていた。筆が痛んだので買いに来たのだと言った。黒いTシャツにジーンズ、面白いことに下駄を履いていた。倫子は吹き出しそうになるのを堪え、その横顔を見上げた。夫と同じ顔だが意思の強さを感じた。帰る方向が同じだから一緒に帰りましょうと、洋平は目を細めた。その笑顔に、倫子の心はざわめいた。倫子を雨傘に入れる時、洋平は一瞬、彼女の目を真っ直ぐ見つめ、すぐに視線を逸らした。


「......どうぞ」

「ありがとうございます」


 倫子と洋平はひとつの傘に入って歩いた。倫子の肩と洋平の腕が触れ、その温もりに彼女は俯いて顔を赤らめた。2人は交わす言葉もなく、洋平の下駄の音だけが路地に響いた。倫子はこの時間に心地よさを感じた。ふと、夕飯の支度をする匂いが家屋から漂って来た。


「洋平さん......うちでお夕飯食べていきません?」


 こんなことをしてはいけない、と心のどこかで囁かれたが、寂しさがそれを押し潰した。洋平は目を見開いて驚いた。倫子は洋介の顔を思い浮かべながら、洋介と洋平は兄弟なのだから問題はないと、自分に言い訳をした。


「......え、それは嬉しいんですが......どうして」


 洋平の落ち着いた声は、洋介のそっけない返事とは違い、倫子の心の穴を埋めるような温かさがあった。


「洋介さん......いつも帰りが遅くて」


 洋平の眉間にシワが寄り、雨傘の柄を握る手に力が入った。


「洋介、帰りが遅いんですか?」

「はい」

「やっぱり......そうか」


 その意味はよく分からなかったが、洋平は洋介の帰宅が遅い理由を知っている口調だった。その声に、どこか複雑な感情が混じっていた。初め洋平は断ったが、シャツも濡れているから、と倫子に強く勧められ、夕飯を一緒に食べることになった。倫子は自分でも大胆なことをしていると思いつつ、玄関の鍵を開けた。洋平を誘った瞬間、倫子は自分の心が裏切るような高揚感に震えた。


 倫子の住む家は木造の平屋建てで昭和の香りがした。この家には、洋平たちの祖母が生前、住んでいた。裏庭にはぶなの林が鬱蒼と茂り、この季節になると清らかな小川に蛍が飛んだ。


「懐かしいな、こんなに小さかったんだ」


 洋平は、大黒柱に刻んだ身の丈を懐かしくなぞり、縁側から一面に咲いた露草を眺めた。倫子は洋介のシャツを出し、洋平に着替えるように促した。サイズはぴったりでやはり双子なのだと倫子は思った。洋平は、シャツを手渡された時に触れた倫子の華奢な指に胸が温かくなった。


「倫子さん」

「はい?」


 洋平は倫子の横顔をじっと見つめ、一瞬何か言おうとしてやめた。彼の目は穏やかだが、その内になにかを秘めていた。


「俺の絵のモデルになってくれませんか?」

「モデル......ですか?」


 倫子はゴクリと息を呑んだ。洋介の顔が一瞬よぎり、彼女は目を伏せた。心臓が跳ね、耳に響いた。


「いえ、今すぐという訳ではありません」

「......はい」

「考えておいて下さい」

「分かりました」


 その夜、倫子は久しぶりに暖かな食卓を囲むことが出来た。献立は鶏の唐揚げと里芋の煮物だった。洋平は鶏の唐揚げを『美味しいです、母の唐揚げより美味しい』と喜んで口に運び、おかわりをした。洋介は穏やかに笑うだけで、言葉にしてくれることはなかった。洋平の言葉に心が温かくなったが、倫子は洋介の笑顔を思い出し、胸が締め付けられた。



白檀の女


 出張から帰って来た洋介の様子がおかしかった。いつもなら出張先の土産物やスマートフォンで撮った写真を見せる。それが玄関の引き戸を閉めるなり、倫子から目を逸らして脱衣所に向かった。どうしたのかと聞くと、洗濯物が多いからと言って洗濯機に着替えを放り込んだ。慌てた手つきで洗濯機のスイッチを押すと、いきなりバスルームのドアを閉めた。


(......変なの)


 倫子は洋介の不可解な行動に首を傾げつつ、旅行鞄を片付けようと持ち上げた。すると、倫子が使っている柔軟剤とは違う香りが匂い立った。倫子の視線はバスルームの洋介に向けられた。旅行鞄の中身を確認すると、ポケットに一枚の名刺が入っていた。黒地に箔押し、趣味の良いデザインではなかったが、大手広告代理店の名前が入っていた。


(中村莉子(なかむらりこ))


 この名刺からそのホワイトムスク、白檀の香りがした。倫子は洋介が脱いだジャケットの匂いを嗅いだ。襟元から名刺と同じ香りがする。倫子はその場に立ち尽くした。そして、洋平の、やっぱり、という言葉と、結婚披露宴で呟いた、倫子さん、洋介にはもったいないよ、という言葉が頭で渦を巻いた。洋平はこのことを知っていたのかもしれない。彼の真剣な目が、まるで警告だったように感じられた。倫子の胸に重い石が沈み込んだ。その重さが、彼女の希望の全てを押し潰すようだった。


(洋介さん......不倫していたんだ!)


 倫子はこれまで気づかなかった自分の鈍さを呪った。帰宅が遅かったのも、出張が増えたのも、この女性と会っていたからだった。洋介は穏やかで優しい夫の顔をしながら、息をするように平然と倫子を裏切り続けていた。


(いつから?まさか......)


 披露宴で、華道の師範が『見合い結婚なら知らないこともある』と鋭い目で洋介を見た時、彼の顔つきが変わった。倫子はこれまでのことを思い返して愕然とした。倫子が名刺を裏返すと『また会いたい』と手書きのメッセージが書いてあった。彼女は名刺を握り潰した。一瞬、洋介に名刺を突きつけて叫びたい衝動に駆られたが、唇を噛んで堪えた。


 その時、洋介がタオルで髪を拭きながらバスルームから出て来た。倫子は平静を装い笑顔でビールを準備した。洗濯機は中村莉子の気配を洗い流している。だが、倫子の心に残る香りは、決して消えることがなかった。倫子はその洗濯機で洗濯するのかと思うと怖気が走った。


「今日の出張どうだった?」


 倫子の声は震えを抑えるように低かった。


「いやぁ、取引先の担当者が......なに?」


 洋介は倫子から目を逸らした。


「ううん......なんでもない」


 倫子は今は黙っておくことにした。洋平ならばこの痛みを分かってくれるような気がした。彼女は洋平に相談しようと考えた。彼の真剣な目が、倫子の心に唯一の光のように感じられた。


 その時、洋介のハーフパンツのポケットで、スマートフォンがLIMEの着信を知らせた。洋介は素知らぬ顔で、ビールをグラスに注いでいたが指先が小刻みに震えていた。倫子はその相手が中村莉子だと直感した。


「......見なくてもいいの?」


 倫子の声に洋介は目を伏せた。


「......取引先からだから」


 時刻はPM10:00をすぎていた。こんな時間に取引先からLIMEの連絡があるだろうか。嘘をつくならばもっと上手い嘘をつけば良いのに。倫子の心はあのフィジーで見た深淵の闇のように冷えていった。その闇が、彼女の全ての希望を静かに呑み込んでいった。



露草


 カナカナカナカナ


 薄暗く湿っぽい、ぶなの林の奥からヒグラシの鳴き声が響いた。倫子は露草が咲く奥座敷で椅子にもたれ掛かっていた。黒いキャミソールのしどけない胸元には汗が流れた。倫子は洋平の目に囚われていた。その真剣な眼差しに彼女は目を逸らした。


「動かないでくださいね」

「ごめんなさい」


 キャンバスに向かい木炭を握る洋平は、獲物を仕留める黒いピューマだった。倫子はしなやかな獰猛さに身体の芯が熱くなるのを感じ、胸が高鳴った。洋平の真剣な眼差しは、洋介の目を逸らす態度とは違い、倫子を虜にした。倫子はその視線に溺れそうになる自分を抑えた。


「疲れましたか?」

「モデルなんて初めてで......緊張しています」


 顔料で汚れたエプロンを身に着けた洋平は、目を細めて筆を握った。


「もう、絵の具を塗るんですか?」


 洋平はチューブを絞り出し、露草色の油絵具をパレットに塗りつけた。油絵具をテレピンオイルで溶かすと、ツンと鼻に付く油のにおいがした。思わず倫子は顔をしかめた。


「うわっ!臭っ!」


 その不細工な表情に洋平は吹き出し、彼女は顔を赤らめて頬を膨らませた。


「これはね、下書きなんですよ」

「絵の具が下書きなんですか」

「はい......」


 洋平が筆を動かす手には、倫子を捉えようとするような一瞬の躊躇が見えた。


「木炭で予め線を引いて絵具でなぞっておけば、油絵具を重ねても下絵が消える事はありませんからね」


 その時、倫子は洋介を思い出した。一度犯した罪は消えることがない。洋介が不倫相手と別れたとしても、倫子の心に付いた傷は一生癒えることはないだろう。あの出張から倫子は洋介の言動に敏感になった。どこかでポロリと中村莉子のことを匂わせるのではないか、不倫のにおいを嗅ぎつけようとする自分が嫌らしく思えた。倫子は、フィジーで洋介が他の乗客と笑い合っていた時の遠い目を思い出した。あの時、すでに彼の心は中村莉子に傾いていたのかもしれない。


「やっぱり......」


 倫子は、やっぱり、という言葉に、洋平が知る真相を恐れながらも、どこかで彼の言葉に救いを求めていた。


「はい?」

「洋平さん、やっぱりって......どう言う意味ですか?」


 洋平の筆を動かす手が止まった。その目はカンバスに釘付けになり、ゆっくり目を瞑ると眉間にシワを寄せた。倫子はそのただならぬ気配に、黒い名刺がよぎった。洋平は洋介の不倫のことを知っていた。


「......倫子さん」


 洋平はパレットと筆をテーブルに置くと倫子に向き直った。倫子は息を呑んだ。心臓の音がうるさく、ヒグラシの鳴き声が遠くに聞こえた。


「洋介さん......誰か他に好きな人がいるんですね?」


 洋平は目を見開き、手は両膝を掴んだ。その沈黙が倫子の胸に重く響いた。


「倫子さん、知っていたんですか」

「はい、少し前に......気が付きました」


 洋平の声には、洋介と交わした過去の会話の重さが滲んでいた。倫子は、彼がどれだけ知っているのか、尋ねるのをためらった。洋平は汚れた手を布で拭き、エプロンを外した。古びた畳を踏みしめる音が静かな座敷に鳴り、倫子へと近づいて来た。倫子は緊張で身体を強張らせた。ゆっくりと畳に膝を突いた洋平は畳に両手を置いた。


「洋平さん......どうしたんですか!?」


 驚いた倫子が洋平の顔を覗き込むと、彼は目をきつく瞑り唇を噛んでいた。


「......申し訳ありません」

「え、なんで......なんで洋平さんが謝るんですか!?」


 洋平は深々と頭を下げた。倫子はその突然の出来事に驚き、慌ててその肩を掴んでいた。その肩は逞しく、力強さを感じた。


 中村莉子は大学の同級生だと言った。いつも3人で出掛けるような仲だった。莉子は洋平と交際を始めたが洋介の縁談が決まった頃から様子がおかしくなった。莉子は洋平と話していても落ち着かず、LIMEの返信も滞りがちになった。洋介が倫子と結納を交わした頃、洋平は見てはならないものを見てしまった。


「......そんな」


 倫子は言葉を失った。洋平は、洋介が莉子とベッドで抱き合っているところを見てしまった。洋平はその時の衝撃を思い返し、首を横に振った。洋平は洋介に掴み掛かり、左薬指の指輪を莉子に叩きつけた。洋平は、莉子と3人で笑い合った大学の日の記憶を思い出した。あの頃の彼女の笑顔が、洋介の腕の中で変わってしまった瞬間を、彼は今も忘れられなかった。


「それで、指輪を外したんですね」


 倫子は洋平の言葉に、洋介の裏切りがさらに重くのしかかるのを感じた。同時に、洋平の真剣な謝罪が、彼女の心に温かな光を灯すようだった。


「どうして黙っていたんですか」

「それは......」

「話して欲しかった......です」


 倫子の声は震え、洋平は一瞬言葉を探すように沈黙した。


「倫子さん」


 洋平の声には、倫子への仄かな恋情と、莉子に裏切られた過去の痛みが混じっていた。


 コオロギの鳴き声と共に、西陽が湿ったぶなの林に黒い影を作った。光の軌跡を描きながら揺れる露草に蛍がとまった。薄暗い座敷で倫子の頬に一筋の涙が伝った。洋平はゆっくりと腕を伸ばすと倫子を優しく抱き締めていた。突然の出来事に倫子の息は止まったが、洋平に洋介の姿を重ね合わせその身を任せた。倫子は洋介の裏切りを思い出し、かつて愛した彼の笑顔が今は遠く感じられた。洋平の腕が、その空虚を埋める唯一の現実だった。


(......蛍)


 倫子の目に、蛍の光が映った。


燻る


 汗ばむ胸元。コオロギの鳴き声が響く縁側。キャミソールの紐が肩を滑り落ちた。倫子の肌に洋平の唇が落ち、彼女は悦びに震えた。喘ぎ声に倫子は口元を隠したが、それは呆気なく取り払われ、甘い吐息が漏れた。彼はその濡れた唇に深く口付けた。洋平の指先が肌を撫でると倫子は身体をのけ反らせた。倫子は一瞬、罪悪感を覚えたが、すぐに熱に飲み込まれた。


「倫子、倫子さんっ」

「......!」


 蛍が飛ぶ奥座敷で、2人は熱い身体を重ね合っていた。古い畳がギシギシと音を立てた。その時だった。玄関の鍵が開く音がして、倫子は洋平から咄嗟に身体を離した。慌ててキャミソールの紐を肩に掛け、髪を手櫛で整えた。洋平もジーンズを上げると急いでTシャツを着た。


「なんだ、洋平来てるのかー?」


 まさか兄と妻がそのような関係だとは思いもよらない洋介は、革靴を脱ぎながら奥座敷へと声を掛けた。倫子は慌ててリビングに顔を出したが、洋介の顔を見ることが出来なかった。洋介は不思議そうな顔をしたが、特に気にかけるでもなく『着替えて来るね』と寝室へと向かった。洋平はまだ2人の熱が残る奥座敷で、油絵具や筆をまとめ帰り支度を始めた。


「洋平......夕飯食べてけよ」

「あ......ああ」

「今、温めるね」


 倫子は髪の毛を後ろでまとめるとエプロンを着けた。その晩の献立はシチューだった。倫子は洋介が中村莉子と不倫をしていた事実に寂しさを覚え、洋平に身を任せた。


(......これじゃ何も言えないわ)


 倫子は洋介を盗み見た。一時の気の迷いとはいえ、倫子は義兄と淫らな関係を持ってしまった。ただ、洋介が異変に気付いた気配はなく彼女は安堵した。


(同罪よね)


 リビングテーブルでは何事もなかったかのような表情の洋平が、洋介の話に相槌を打っていた。倫子は洋介の不倫が今回の過ちを招いたのだと自分に言い訳をした。食器棚から皿を取り出そうとした彼女は視線を感じた。一瞥すると、洋平が熱い眼差しで倫子を見ていた。鍋の中ではシチューがグツグツと煮立っていた。あれは過ちではなく、始まりなのかもしれない。洋平の真剣な表情がそう物語っていた。倫子は身体の奥が火照るのを感じた。


「お待たせ......熱いから気を付けてね」


 倫子が洋平にスプーンを手渡そうと腕を伸ばすと、彼は洋介の目を盗んでその肌に指を這わせた。倫子の中でまだ燻っている火がチラチラと炎となる。倫子は首まで赤らめその腕を引っ込めた。洋平の口元は意味深な笑みを浮かべていた。その時、洋介が倫子に声を掛けた。


「ついてるよ」

「......え?」


 倫子は思わず首筋を手で隠した。洋介は『違うよ』と言いながら倫子の胸元を指差した。倫子のキャミソールに露草色の油絵具が付いていた。


「気に入ってるんだよね。汚しちゃダメじゃない」

「い......いつの間についちゃったんだろ」


 洋平は何事もなかったように、平然とした顔でシチューを口に運んでいた。


「洋介......今度からは気をつけるよ」

「......あ?ああ」


 倫子はスプーンを握ったがその指先は小刻みに震えていた。洋介を窺いみたが、倫子の動きと、洋平の言動の僅かな異変に気付いた様子はなかった。洋介がシチューを食べながら、ふと箸を止めて二人を一瞥したが、すぐに笑顔に戻った


「倫子ちゃん、拭いたら?」

「......うん」


 倫子が油絵具を拭こうとしたが、指先に残る色がまるで消えない罪のようだった。



突然の別れ


 あの日以来、毎日のように倫子は奥座敷で洋平と繋がりあった。彼の指先が倫子の肌をなぞり上げると彼女は瞼の裏に蛍の残像を見た。濁流に飲まれるように倫子は洋平に身を任せ、2人は離れ難い存在になっていた。


「倫子さん、俺と結婚してくれませんか」

「......え」


 洋平の言葉に、倫子は一瞬、洋介との新婚旅行の笑顔を思い出したが、すぐにその記憶が冷たく遠ざかった。あの深淵が倫子の結婚生活を呑み込んだ。


「洋介と離婚して下さい」


 洋平が倫子の手を握る時、左手の薬指に指輪の跡が薄く残っていた。


「無理......そんなことできる訳ない......」


 倫子は難しいと断りながらも、不倫に溺れる夫にも嫌気がさしていた。空虚な胸に灯火をくれた存在が洋平だった。同じ顔、同じ声、出来ることなら洋平と一緒になりたいと思うようになっていた。





 突然、その日はやって来た。洋介は会社のゴルフコンペで接待があるから、とゴルフバッグを手に笑顔で車に乗り込んだ。


 警察から連絡が入ったのはそれから間も無くだった。洋介が運転する車が、対向車線からはみ出して来た大型トラックと衝突したとのことだった。洋介はゴルフ場とは真逆の観光地へと向かっていた。それを聞いた倫子は察した。


(中村莉子だ......)


 倫子は悲しさと悔しさを胸に、タクシーに乗り込んだ。倫子と洋介は新婚旅行で見たハートの白いオブジェの小島に行くことは叶わなかった。時速60キロメートルで流れる車窓から見る景色は滲んで見えた。倫子は見合いの席で微笑んだ洋介に一目で心惹かれたあの瞬間を思い出した。彼女はハンカチをギュッと握り締めた。


 洋介が運び込まれた病院に着き、後部座席から降りようとした倫子はその場に崩れた。あんなに憎んでいた筈なのに、心ではやはり洋介を愛していた。倫子は悔やんだ。あの黒い名刺を見つけた時に、洋介に真意を確かめておけば事故は起きなかったかもしれない。彼女は看護師に連れられ集中治療室に向かった。倫子の足音が廊下に虚しく響き、まるで時間が止まったようだった。眩いばかりの白い照明、消毒の匂い、定期的に鳴るビープ音に倫子は足が竦んだ。倫子はまるでドラマのワンシーンを見ているような錯覚を覚えた。


「奥様ですか?」

「は......い」


 後頭部を殴られた気がした。心臓が鷲掴みにされ、全身の血が逆流したようだった。医師の顔がとても遠くに見えた。水の膜の中にいるようで、看護師の言葉が遠くに響いた。『残念ですが......』 その後のことは覚えていない。


 薄っすらと目を開けると見たことのない白い天井と蛍光灯が見えた。倫子は病院のベッドに横たわっていた。気がつくと温かな手が倫子の手をしっかりと握っていた。首をゆっくりと動かす。そこには洋介がいた。眉間にシワを寄せ唇を強く噛んでいた。目尻には涙が浮かんでいた。


「洋介さん!」


 倫子がその首にしがみ付くと、周囲から嗚咽が漏れた。見回すと、和田の義父母と、倫子の父親と母親が涙を流していた。


「あの2人は自業自得だけれど......倫子ちゃんにどう謝ったらいいのか......」


 倫子から目を逸らした義母は床に泣き崩れた。倫子が抱きしめたその顔を見ると、左目尻にホクロがあった。洋平だった。彼女はまるで子どものように声を上げて泣いた。倫子は、目を細めて優しく微笑む涼介がもうこの世にはいないことを知った。洋平の腕の中で、倫子は洋介の最後の笑顔と黒い名刺の白檀の香りが交錯するのを感じた。倫子の髪に顔を埋めた洋平は、僅かにいやらしい笑みを浮かべていた。



蛍


 寺の本堂には読経が流れ、線香の香が燻った。倫子は参列者にお辞儀をしながらハンカチで涙を拭いた。彼女は洋介と過ごした僅かな時間を手繰り寄せ、遺影の穏やかな微笑みを見上げた。遺影を見上げた瞬間、倫子は洋平のプロポーズと洋介の裏切りの間で揺れた自分の心を思い出し、涙がさらに溢れた。参列者のざわめきの中で、中村莉子の名前が囁かれ、倫子は一瞬白檀の香りを思い出した。


 親類縁者の席には遺影と瓜二つの顔の洋平の姿があった。その口元は、悲しみの中に微かな笑みを浮かべていた。彼の笑みは、洋介の遺影と一瞬重なり、倫子にはどちらが本物の笑顔か分からなかった。


 洋平は、洋介に婚約者である中村莉子を寝取られたことを恨んでいた。そこで洋介が不倫していることを承知の上で、そのことを倫子に話さなかった。初めは逆恨みで洋介の家庭が壊れれば良いと思っていた。ところが、倫子を油絵のモデルに誘い接近するうちに彼女に惹かれていることに気がついた。そんな時、洋介が事故に遭い急逝した。洋介の車に同乗していた中村莉子は即死だった。過去はすべてリセットされた。洋平は洋介に勝ったと笑みを浮かべた。


(洋平さん......まさか笑ってる?)


 倫子が洋平の笑みを見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。






 漆黒の闇。夜露に濡れた露草に、儚い光を放つ蛍。無数の光の筋が、ぶなの林で弧を描いていた。洋平は倫子の首筋に唇を落とすと、彼女を後ろから抱きしめた。


「倫子さん......蛍」

「はい」

「蛍は亡くなった人の魂だと......うちの婆ちゃんが言っていました」


 茶箪笥の洋介の遺影は裏返されていた。


「蛍......見ないんですか?」

「人の魂なんでしょう?」

「......洋介を思い出すからですか?」


 洋平は陰のある笑みを浮かべると、無言で浴衣の胸元に指を滑り入れた。洋平の指が彼女の肌をなぞると倫子は息を呑んだ。


「蛍が......倫子さんを見ていますよ」


 倫子は今夜も洋介の面影を追いながら洋平に抱かれた。彼女は身体の芯に火を灯すそれが誰なのか、蛍の瞬きに問い掛けていた。


了


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