カタツムリ
——最初から。
そう思ったことだけ、覚えている。
何に対してだったのかは、思い出せない。
朝は、重さでわかる。
目が覚める前から、背中のどこかが沈んでいる。
布団の中で一度だけ大きく息を吸う。
湿った空気が、肺の手前で止まる。
理由は思い出せない。
けれど、何かを背負っている感覚は、
毎朝同じだった。
決められた時間に起きて、
決められた順番で動く。
顔を洗い、
服を着て、
外に出る。
駅までの道も、
立ち位置も、
いつの間にか固定されていた。
考える必要はない。
仕事も同じだった。
指示されたことをこなす。
返事をする。
確認する。
それで問題はなかった。
むしろ、ちゃんとしていると言われた。
何も決めなくていいことに、
疑問はなかった。
毎晩自宅で過ごす時間は
画面が暗くなる前に、
アプリからアプリへと親指が動く。
最近腱鞘炎気味なのか、
手首と親指が痛い……
それでもまた今夜も
何も考えずアプリを開く。
パズルは途中で止まる。
ライフが足りない表示が出る。
そのまま閉じる。
ホームに戻る。
並んだアイコンの中から、
次のものを開く。
選んだつもりはない。
指が触れていた。
短い説明が流れる。
読まずにスキップする。
数字が増えて、また減る。
ライフが切れる。
閉じる。
飽きる。
動画を開く。
音が流れる。
画面は見ていない。
気づくと、寝ている。
同じことを繰り返す。
区切りはない。
どれも無意味にレベルが上がる途中のまま
残っている。
ある日、上司に呼ばれた。
机の向こうで、何か新しいプロジェクトを始めるからとかなんとか話をされる。
詳しい説明はあったはずだが、
途中から聞こえていなかった。
最後に、選んでほしいと言われた。
どれがいいか、と。
並べられた言葉を見ている。
どれも同じに見えた。
良いも悪いも、浮かばない。
失敗も成功も、形がない。
何を基準に選べばいいのか、
思い出せなかった。
時間だけが過ぎる。
何も言えないまま、
頷くこともできずにいると、
もう一度聞き返された。
どれがいいか、と。
同じ問いが、少しだけ重くなる。
答えは浮かばなかった。
ただ、どれでもいい気がした。
結局、上司が勧めた選択の時、
ただ首を縦にやんわり振った。
なんとなくそのほうが良さそうだったから。
本格的にプロジェクトが始まる日。
俺は会社から出た。
理由はうまく言えない。
逃げたかっただけかもしれない。
帰宅後、
ポケットの中のものを
一つずつ取り出して、
机の上に置いた。
鍵、カード、細かいもの。
順番に並べる。
いつもの通り。
着信音は充電が切れるまでクローゼットに放り込んだままだ。
何をしてもいい時間ができたのに
使い方がわからない。
テレビはつけなかった。
画面にも触れなかった。
ただ座っている。
静かだった。
何も決めなくてよかった頃のほうが、
ずっと楽だった。
そう思ったのが、自分の意思なのかは思い出せない。
軽くなったはずの背中に手をやる。
何もない。
それでも、どこかが沈んでいる気がした。
部屋の隅に、殻がある。
見覚えがある形だった。
覗く。
何も入っていない。
——最初から。




