プロポーズされた日、私は別の男に会いに行った
美しいシャンデリアの光の下で、赤毛の娘は今まさに結婚を申し込まれていた。
「セリーヌ。セリーヌ・ロゼリア嬢。――私と、結婚してください」
それは、セリーヌの周囲が待ち望んでいた言葉だった。
許された返事は、「はい」か「YES」だけ。
そこに、彼女自身の意思など入り込む余地はない。
「……もちろんです」
絞り出すような、か細い声。
彼女が口にした瞬間、会場には歓声が上がる。
「ロシュフォール卿、セリーヌを頼むぞ」
父は満面の笑みを浮かべ、未来の娘婿に激励を送る。
「こちらこそ。……断られたらどうしようかと、ずっと心配していました」
「まあ、こんな素敵な方の求婚を断る娘なんて、そうそういませんわ」
母も加わり、場はお祝いムード一色に染まっていく。
ただひとり――セリーヌだけが、取り残されたまま。
*
セリーヌは寝支度を整えてもらうと、「今日は興奮して寝つけそうにないの」と侍女に言い、温めたワインを頼んだ。
渋みのある赤が入ったグラスを、ひと息に煽る。
ほどなくして、体の芯がじんわりと熱を帯び始めた。
酔いが巡ると、頭がふわりと霞み、思考がゆっくりと沈んでいく。
セリーヌはベッドに身を沈め、瞼を閉じた。
せめて今夜だけは、夢の中に逃げ込めたら。
……誰かが、遠くから自分を呼んでいる。
心地よいまどろみのなか、セリーヌはその声を無視しようとする。
けれど、体が小刻みに揺さぶられている。現実が、夢の外から手を伸ばしてきた。
「……さま……お……さま……お嬢様!」
強い声が耳に届き、セリーヌはふっと現実に引き戻された。
目の奥が痛み、喉はからからに乾いている。身体は冷たい石の床に触れていて、じわりと冷気が肌を刺した。
「お嬢様……こんなところでお休みになっては、風邪をひいてしまいますよ」
目の前には――今、誰よりも会いたくて、けれど一番会いたくなかった人物が立っていた。
「……ノエル? なぜ、わたくしの部屋に?」
まだ夢の続きかと思った。頭が重く、視界もぼやけている。思考が霧のなかを彷徨っていた。
「ここは、お嬢様のお部屋ではありません。こちらは、東棟と客間をつなぐ廊下です」
「まあ……そんな……どうして……?」
セリーヌは足元を見やる。片方のスリッパが脱げかけていた。
眠っていた場所には、じんわりとした冷たさが残っている。
「ワインの匂いがいたします。夜会でも、お部屋でも……少々、飲みすぎられたのでは」
ノエルは困ったように微笑みながらも、淡々とした声でそう言った。
その声音が優しいほど、胸が痛む。
なぜ、こんな姿を見られてしまったのだろう。
誰にも見られたくなかったのに――あなたにだけは。
「侍女をお呼びします。お部屋にお戻りください」
「待って――!」
そう言って背を向けたノエルを、セリーヌはとっさに呼び止めた。
「ノエル、わたくし……求婚されたの」
「……はい。存じております」
「わたくし、お受けしたわ……」
「……はい。おめでとうございます」
「お父様の事業に、融資してくださるって……。だから、わたくし……でも、でも、本当は……本当はわたくし、ノエル、あなたを――」
そこまで言いかけた瞬間、ノエルの叫ぶような声がその言葉をかき消した。
「ロシュフォール卿は! あの方は立派な方です。若くして財を成し、堅実で、穏やかで……。これ以上ないほどの良縁です」
それはまるで、自分に言い聞かせるような口調だった。
「お嬢様のそれは、ただ……身近にいた若い男が私だったというだけ。幻想のようなものです。恋ではございません」
そう言ってノエルは、悲しげに目を伏せ、けれど穏やかな笑みを浮かべた。
「お体が冷えてしまいますから、どうぞ」
彼が差し出したのは、自らの上着だった。
羽織ると、まだ彼の温もりが残っていて――
まるでその体温ごと、自分を抱きしめたくなる。
「……ねぇ、ノエル」
「なんでしょうか?」
「わたくし……幸せになれるかしら?」
「ええ。――この国で一番、幸せになれますよ」
ノエルの声は静かで、優しかった。
その微笑みに、セリーヌの頬を涙がひとすじ伝った。
今日は、セリーヌが嫁ぐ日だ。
ロシュフォール卿の邸から迎えの馬車がやって来ていた。
大量の荷物が次々と積み込まれる。
セリーヌは一番お気に入りのドレスを身にまとい、鏡の前で最後に深く息をついた。
父と母に丁寧に頭を下げ、しっかりと挨拶をする。
そして、そっとノエルの姿を探した。
彼は、少し離れたところで――ただ、晴れやかに笑っていた。
それで、充分だった。
もう、言葉はいらない。
「行ってきます」
「いってらっしゃいませ、お嬢様」
使用人たちが一斉に頭を下げ、手を振ってくれる。
その光景が滲まぬよう、セリーヌは空を見上げた。
そして、ひとつ笑ってから馬車に乗り込む。
――未練はない。
もう一度、私は誰かの隣に立つ。
恋ではなくても、この人生を、自分の足で、ちゃんと歩いていくために。
初短編です。