1:氷の令嬢
「アリシア・ルーベルト! おまえのような『氷の令嬢』を愛することはできない!」
王太子の王立魔法学園卒業を祝う、特別な夜会。
王太子アルバート・カリエンテは高らかに告げた。その傍らには、アルバートが学園で懇意にしていた女子生徒、エリス・クラウゼヴィッツ伯爵令嬢が立っている。アルバートが婚約者としてエリスを選んだことは、誰の目にも明らかだった。
事前の周知も根回しもない、無茶で非公式な婚約破棄だ。しかし王太子の命令とあらば、公爵令嬢は逆らえない。婚約自体は国王から公爵家に対して持ち掛けられたものだと聞いているが、いずれにせよアリシアには決定権はない。婚約を拒むことも、婚約破棄を拒むこともできないのだ。
公爵令嬢アリシアは、人形めいた美貌を歪めることなく、無表情のままアルバートとエリスを見つめた。
夜会に訪れた全ての客が、アリシアの次の挙動を待っている。
アリシアは溜息一つつかなかった。アリシアはいつもそうあるように、完璧に美しかった。丁寧に巻いた、長い銀色の髪。水色の瞳に合わせた、淡いブルーのドレス。そのドレスをゆったりと持ち上げ、優雅なカーテシーでもって答える。
「王太子殿下の仰せのままに」
シン、と会場は静まり返っていた。
『氷の令嬢』の没落を祝うのには、これ以上の舞台はないだろう。
◯
草原に寝転ぶと、いっそう強く草の匂いが胸を満たした。
風が吹く。草たちが揺れる。アリシアは心地よくて、そっと目を閉じた。
婚約破棄を言い訳にして、アリシアは生まれ故郷であるルクレティア国を離れることにした。公爵家を追放されたわけではない。両親はそんな無慈悲な人間ではなかったし、王家から公爵家へのお咎めはなかった。それどころか、王家からは謝罪があった。
夜会において、王太子アルバートは、伯爵令嬢エリスとの婚約をも宣言した。その婚約を正当化するために、アリシアを『悪役令嬢』として『断罪』しようとしたが、どれも軽微で、それでいてアリシアには身に覚えのない『罪』ばかりだった。
いわく、エリスの教科書をゴミ箱に捨てただとか、取り巻きにエリスをいじめさせただとか。あとは、エリスの食べる食事に毒を持っただとか。
伯爵令嬢エリスは確かに周囲の女子生徒と折り合いが悪かった。というのも、身分が高い男子生徒を見ると、婚約者がいようと関係なく擦り寄っていたからだ。男子生徒から見ると、エリスは『可愛らしい、天然の、世間知らずの女の子』だった。とてもよく出来ている、とアリシアは思う。エリスの可愛らしさは、すべて計算によるものだ。
そういう理由からエリスは恨まれ、嫉妬され、嫌われていた。教科書をゴミ箱に捨てた女子生徒は確かに存在したし、裏庭に呼び出して口論をしていた女子生徒も存在していた。けれど、それはアリシアの所業ではない。
ちなみに、エリスが調理学の授業で作った『手作りクッキー』は、薬草ロキスとよく似た、毒草ダイエが練り込まれていた。ロキスとダイエは似た形状をしているが、葉の数が違う。見分け方は、子どもでもわかる。それを作り、食べて、お腹を壊した。自業自得というほかない。
すうっ、とアリシアは息を吸い込んだ。時間を掛けて、吸った空気をゆっくりと吐き出す。目蓋を開けると、澄んだ青空が見えた。白い鳥が空を飛んでいる。
ルクレティア国を離れ、海を挟んだ隣国、イストリア国に着いたのは、今日の朝のことだ。婚約破棄の夜会から一週間が経つ。家を出るという選択に両親は反対し続けていたが、アリシアが「この国にはもう、居場所などないのです」と告げると、押し負けてくれた。
イストリア国の田舎町には、アリシアの親戚が持て余している小さな別荘がある。メイドすらいないという寂れた別荘だが、屋根さえあれば何でも良かった。田舎町の、さらに町外れにある別荘だと聞いていたが――実際に確認したところ、幸い町は近く、買い物に不便はない。
再び目蓋を閉じる。目蓋の皮膚を通して、光を感じる。自然の光だ。
居場所などない。追放こそされなかったが、逃げるように母国を出た。王太子との婚約は、公爵家として喜ぶべきことで――、けれどアリシアは、王太子への恋慕を感じたことなど一度もなかった。窮屈で息苦しい、コルセットのような人生だった。そしてその人生は、唐突に『自由』になった。なってしまった。