37.空
後書き
完結まで、あと七話。
……アタシは、学校にある屋上へと向かっていた。
カツン、カツンと、階段を登るアタシの足音だけが辺りに響き渡る。
その階段を上り切って、屋上を隔ている扉を開けると、冬と春の間の子みたいな、冷たくも爽やかな風が内側へ入り込んだ。
「……………………」
そんな風が吹き抜ける中、とある男子が屋上で一人、空を眺めていた。柵に腕を乗せて、ただただじっとその場に佇んでいた。
そんな彼の後ろ姿を見て、アタシは思わず口許を緩ませていた。
「ケンジ」
アタシがそう声をかけると、彼はゆっくりとこちらに振り向いた。そして、いつもの優しい微笑みを浮かべて、アタシに答えた。
「やあ、佳奈さん」
「…………………」
アタシは感極まる想いを胸に、ケンジの横に立って、彼と同じように柵の上に腕を置いた。そうしてアタシたちは、しばらく一緒に空を眺めた。
お互いの髪が、ふわりふわりとなびいている。ああ、なんて気持ちのいい風なんだろう。こんなに風が気持ちのは、初めてかも知れない。
「ねえケンジ、具合はどう?」
「うん、もうだいぶん元通りだよ。退院したてだから、ちょっとまだ学校のリズムに戻れてないけどね」
「そっか、よかった」
「うん」
「ああ……屋上に来るのは、ずいぶん久しぶりだ」
ケンジは、小さくそう呟いた。
「佳奈さんにこうして屋上に呼び出されたのは、夏休み前だったっけ」
「……そっか、そうだったっけね」
「まだ一年も経っていないのに、もうずいぶん昔のことに感じるよ」
「そうだね、アタシもそう思う」
「あれから、いろんなことがあったね」
「うん。アタシ、ケンジと付き合ってから今日までのことを……きっと一生、忘れないと思う」
ケンジはゆっくりと、こちらに顔を向けてきた。アタシは柔らかくはにかんでから、すっと目を伏せた。
「ねえケンジ、アタシね……あなたに伝えたいことが二つあるの」
「二つ?」
「話しても……いいかな?」
「もちろん。そのために、君は僕をここへ呼んだんだよね?」
「うん……」
アタシは一つ目のことを話す前に、三回も深呼吸した。
スカートの裾をぎゅっと握って、震える手を誤魔化した。
「……ケンジ」
「うん」
「あの時は、本当にごめん」
「…………………」
「嘘の告白をしてしまって……本当に、ごめんね」
「佳奈さん……」
「今、あの時のアタシがここにいたら、思い切りひっぱたいてやりたい。ケンジの気持ちを、全然考えてなくって……」
「…………………」
喉の奥が、どんどん乾いていく。その度に、ごくりと生唾を飲む。
「……いいよ、佳奈さん」
「え?」
「もう、いいんだ」
アタシがおそるおそる顔をあげると、またいつもの……いや、いつも以上に優しいケンジの微笑みがそこにあった。
「僕はあの時のことは、気にしてないから。謝らなくていいよ」
「…………………」
「僕はね、君のことが好きだ。君の気持ちがどうかに関係なく、君が好きだ」
「ケン……ジ……」
彼はその優しい微笑みを浮かべたまま、また空を見上げた。
「どんなに親しい人がいたとしても、その人の本心を……100%知ることはできない」
「…………………」
「10年経っても100年経っても、完璧には理解し合えない。自分と他人には、それだけの隔たりがある。でも、きっとそれでいいんだ」
「……………………」
「佳奈さんが僕のことをどう思っていても、構わない。僕が佳奈さんのことを好きなのは、僕だけが知る、僕だけの真実だ。それ以外は、何も信じられなくていい。全てが嘘でいい。最近、そんな風に考えるようになったんだ」
「……全てが、嘘でいい?」
「うん、この世で唯一確かなことは、僕の心だけだから」
そうして、ケンジは頭の後ろを掻きながら、「父さんからの受け売りなんだけどね」と言って、照れ臭そうにはにかんでいた。
「…………………」
アタシはスカートを掴んでいた手を、ゆっくりと離した。そして、右手をすっとあげて……柵の上へ置かれているケンジの左手に重ねた。
それに反応したケンジは、またアタシへと顔を向けた。そうしてこっちを真っ直ぐに見つめるケンジへ、アタシもこう告げた。
「大好き」
「…………………」
「大好きだよ、ケンジ。本当に、本当に大好き。この世の誰よりも、あなたが好き」
「……佳奈さん」
「これは、アタシにとっての、本当の気持ち。ケンジがたとえ、アタシの言葉を嘘だと思っても構わない。アタシは、あなたが大好きなの。これが二つ目の、あなたに伝えたかったこと」
「…………………」
「……ふふふ、嬉しい」
「嬉しい?」
「うん。好きって言えて、嬉しい」
「…………………」
「好きな人に好きだって伝えられるのが、きっと人生で一番素晴らしいことだと思うの」
「佳奈さん……」
「自分が好きだと思ったなら、すぐに好きだと伝えたい。想いが届く内に、後悔しないように伝えたい。アタシは最近、そう考えるようになったの」
「……そっか」
「うん」
「ありがとうね、佳奈さん」
「うん」
そうしてアタシたちは、一緒に空を見上げた。
「ねえ、ケンジ」
「うん?」
「今度さ、プラネタリウム行かない?」
「いいね、行こう」
「うん」
「僕、ご飯も一緒に食べたいな」
「だね、アタシも一緒がいい」
「うん」
「楽しみだね」
「うん」
アタシたちの間を、穏やかな風が吹き抜けていった。
ああ、なんて青いんだろう。
空は今まで見たことないくらいに、途方もないほど高く感じられて……胸いっぱいに、綺麗に見えた。
この青さを、アタシは一生、忘れない。