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ぼくは異聞怪聞伝聞Youtuber

望郷のライスカレー

ぼくは異聞怪聞伝聞Youtuber、【望郷のライスカレー】。ぜひご視聴ください。

https://youtu.be/YcOZswKlbTE

『OK?じゃあ、行きます。』


 いつも通りのテロップがフルスクリーンのスマホ液晶に現れる。揺れるフォントは不思議な雰囲気を演出するもので、作り手の不安を表すものでは無い。


『始まりましたYoutube、異聞怪聞伝聞Youtuberのバムオです。』


 人は繰り返す同じフレーズに安心を感じる。変わらない木琴のワンフレーズ繰り返し、母の胎内で聞いた鼓動のように気持ちを落ち着かせ、再生回数への不安を和らげてくれる、とよいのだが。


『今回はちょっと不思議な体験からお話しさせてください。』


 とある日、冒頭でYoutuberを名乗っておきながら、ぼくは日雇いバイトに精を出していた。K県Y市の港近くにある小高い丘の公園で、会場案内のプラカードを掲げてお客さんを誘導するのがぼくのお仕事。港町Y市が主催する秋のイベント、【港の浪漫祭り】がバイト会場だ。Youtuberを自称するぼくではあるが、動画収入だけで食べて行けるほど知られていないし売れてない。残暑の厳しい今日、生活のため会場整理のバイトに汗を流していた。

 この港町は明治から昭和にかけての雰囲気を醸し出しているが、お客さんたちの格好はその時代に合わせたもの、というよりその時代をモチーフにした漫画やアニメのコスプレが主体に見えた。コスプレイヤーさん達も残暑がここまでとは想定していなかったようで、汗を拭いながら参加している。ぼくは自前のTシャツに会場整理と書かれたメッシュのビブスを羽織ってるだけだがそれでも暑い。コスプレイヤーさん達の苦労が偲ばれるなか、ようやく午前の部が終わった。さて、ますます暑くなりそうな午後に向けてぼくも栄養補給しますかね。

 こういったバイトの昼飯はお弁当を用意してくれるケースが多いが、この暑さによる食中毒を心配してか昼食代はバイト代に含まれていた。ようは自分で買って食えってことか。とは言えこの辺あんまりお店無いんだよな。仕方なくそばにあるドラッグストアに足を向けてみる。なるほど、考えることはこのイベントに参加した人みんな一緒のようで、ドラッグストアのパンや弁当、おにぎりの類はすべて売り切れていた。冷凍食品コーナーを覗いてみるも、おかず単体のからあげやとんかつだけで、これだけではぼくのお腹が納得しないだろう。ようやく見つけたのは冷凍のカレーライス、ご飯とカレーを一緒に温めて食べるやつだ。うーん、この炎天下にカレーライスか、一瞬迷ったが長くはない休憩時間を無駄にできない。急いで冷凍カレーライスをレジに持って行くと、お店のお姉さんが親切にレンジできっちり温めてくれた。まあ、冷凍のままでは食えないからね。外はがっつり猛暑ですけど。

 ドラッグストアを出るとちょうど海、小奇麗な桟橋が見える。桟橋の手前にベンチがあるからそこで食べさせてもらおう。ぼくがベンチに座ると隣のベンチから不思議なスパイスの香りが漂ってきた。甘くて刺激的な良い香り。見ると彫りの深い褐色の肌に白い歯が眩しい男性がニコニコしながらこっちを見ていた。

「ライスカレー食べるの?」

 そう言いながら彼は白い歯をさらに輝かせた。日本語お上手ですね。そう彼は東南アジア系の顔立ちをしていた。彼はイスマイルというマレーシアからの旅行者だそうで、ここでランチを取り始めたところだという。イスマイルはタッパーに詰めたドライカレーのようなものを食べていた。聞けばベジタリアンの彼は旅先での食事に困ることが多く、いつも弁当ならぬランチボックスを持って出かけるのが常なんだとか。そして手には香辛料らしき粉末を詰めたガラス瓶を持っている。どうやらさっきの刺激的な香りのもとはこれらしい。

「ライスカレーにかけるとうまいよ。最高。」

 マレーシアではライスカレーが正しい言い方なのかな?

 イスマイルは笑顔のままぼくに香辛料を勧めてきた。冷凍カレーライスの貧弱な香りを吹き飛ばすような刺激的なスパイス、ぼくはそれを試してみることにした。イスマイルから香辛料の瓶を受け取り、少量カレーライスにかけてみる。なんと絶品、これ無茶苦茶旨いやつじゃん。驚いたぼくをものすごいドヤ顔で見つめるイスマイル。あまりのおいしさにこの香辛料をかけまくるぼく、するとイスマイルが慌て始めた。ぼくの耳にはもうイスマイルの声など届かず、スパイスの刺激が全身の汗腺を開き、滝汗状態でぼくはカレーライスを掻き込んだ。徐々に鼓動が早まるのがわかった。すごいこのスパイス、なんだかハイになってきた。額から滝のように滴る汗に目を閉じ、瞼を拭って目を開くとイスマイルはいなくなっていた。そしてその代わりと言っては何だが数十人の男性たちが桟橋付近でたむろっているのが見えてきた。あれ、こんな人たち居たっけ?

 男性たちはカーキ色の裾を絞ったパンツと白がくすんだタンクトップ姿、被っている帽子には何やら徽章のようなバッジがついている。今日のイベント参加してる旧日本軍のコスプレイヤーさんたちかな?

 そして彼らの一人、パンツと同じカーキ色のジャケットを肩に羽織ったちょっとエラそうな人がぼくに話しかけてきた。

「やや、ライスカレーですな。」

 ちょっといかつい感じのコスプレイヤーが気さくに話しかけてきた。イスマイルだけじゃなく、この辺りではライスカレーが正しい言い方なのかも。ジャケットの胸にはキラキラしたバッジがついている、将校的なコスプレとみた。

「はい、冷凍カレーライスですがスパイスをかけたら最高においしくなりました。」

「なるほど、おお、この香り、ナツメグですな。なつかしい。」

 すると兵隊の恰好をした他のコスプレイヤーたちもぼくのそばに寄ってきた。

「隊長、うまそうでありますな。」

「匂いがたまらんです。」

 えーっと、物欲しそうにされても僕の分しかないんですけど……。ところがどうだろう、いつの間にかぼくの目の前には地面を埋め尽くさんばかりの冷凍カレーライスが並び、イスマイルが置いていったスパイスの瓶は数倍に膨れて見えた。兵隊のコスプレイヤーたちは我先にと冷凍カレーライスを手にし、ナツメグと呼ばれる香辛料をかけながらカレーライスを食べ始めた。あちこちから味を賛美する声が聞こえきてぼくも悪い気がしないが、冷凍カレーライスが増えたりスパイスの瓶が大きくなったりぼくは夢でも見てるのかしら?

 しばらくして隊長と呼ばれた男がこちらに向き直り、

「うまいライスカレーに感謝します。そして懐かしきナツメグの香りを有難う。」

 と深々と頭を下げた。そして続けた。

「わたしたちはここで人を待っているのです。神農かの薬剤官をずっと待っています。」

 なんだろう、午後の会場でコスプレ仲間と合流するのかしら?

「彼が戦地で食べさせてくれたライスカレーは今日貴殿から頂戴したライスカレーに勝るとも劣らない代物でしてな。」

 すると他のコスプレイヤーから声が飛んだ。

「隊長、こちらには失礼ですがあのライスカレーに勝るものはありません。」

「なんたって肉もゴロゴロ入ってました。」

「また食いたいなぁ、あのライスカレーを。」

 口々に感想を言う部下と思わしきコスプレイヤーを手で制し、隊長と呼ばれた男は言った。

「神農薬剤官です。居場所がわかったら教えてください。私たちはいつもここで彼を待っていますから。」

 その言葉を境にぼくの視界は歪み始めた。ぼくの汗は留まることを知らずに流れ続け、心臓は早鐘の如くその回転数を上げた。そして世界が回るようなめまいと喉が焼けるような渇きを感じ、救急車のサイレンが聞こえるなかぼくの意識は途絶えた。


 目が醒めるとそこは病院だった。いつの間にか左腕に点滴の針が刺されており、そこからなにやら液体がぼくに注がれていた。なんだここ、なんでぼくは病院にいるんだろう?

【急性ナツメグ中毒】

 これがぼくの病名だそうだ。中年の救急医にこってりと叱られた。医者のくせに病人に説教するとは何事か、という怒りはさておき、ぼくがイスマイルに勧められてふりかけたのはナツメグパウダーで、慣れてない人間が多量に摂取すると中毒症状を起こすことがあるらしい。だから大量にかけるぼくを見てイスマイルが慌てていたのね。ぼくが病院を後にする頃にはすっかり日が落ち、【港の浪漫祭り】も終了していた。そして病院の会計を見た僕もまた絶望感に打ちひしがれていた。今日のバイト代は貰えないだろうし、病院代だけぼくの持ち出しだ。こんなバイトやらなきゃよかった。悪態をつきながら僕は帰路に就いた。


 電車に揺られながら家に向かうぼくはずっと疑問に駆られていた。カレーライスを一緒に食べたあの人たち、旧日本兵のような恰好をした彼らはナツメグ中毒による幻覚だったのだろうか?

 考えてみれば一つしか買っていない冷凍カレーライスが増えるはずもないし、香辛料の瓶が大きくなるはずもない。現実とは思えない状況ではあった。ただ彼らはすごくリアルで、本物の存在感があった。不思議だったのは【ナツメグ】、この言葉を医者より先にあの隊長から聞いていたことだ。料理に縁のないぼくは値下げシールが貼られたお惣菜を主食としており、当然【ナツメグ】などという香辛料は今日初めて知った。そしてもう一つの不思議は【神農かの薬剤官】という名前だ。幻覚で朦朧としていたはずなのに、この名前だけはしっかりと憶えている。


 これは使える、ネタになる。これを使おう、そうしよう。売れてなくてもぼくYoutuber、枯れぬ才能、華麗に咲かせ、かれこれ言わず、動画を作れ。


 ぼくはまだ作ってもいない動画収入を夢見つつ、本日の損失補填を祈りつつ、ぼくは電車に揺られ続けた。


 動画制作に際し早速調査を開始、とは言うものの神農薬剤官とやらは実在する人物なのだろうか?

 どうやら薬剤官とは軍隊に所属する薬剤師を指す言葉らしい。まずはネットで神農薬剤官を検索してみる。すると一つの手記にその名前が見つかった。その手記は太平洋大戦終戦後も終戦を知らずマレーシア現地に潜伏していた日本人が苦労の末に帰国しその道中を記したものだった。その手記の中には確かに神農薬剤官の名があった。どうやら神農薬剤官はK県の出身でマレーシア現地医薬隊の生き残りだったらしい。敗残した日本陸軍はその生き残りを集めて島に隠れていたようだ。その中に神農薬剤官がいたらしく、手記によれば敵との戦いに備えるよりも日々の糧を得るのに必死な生活だったみたい。現地には米の一粒も残っておらず、現地の芋キャッサバををすりつぶし小粒にして炒ったものを米のように食べていたらしい。その後神農薬剤官を含めた彼らは戦闘を行うことなく敵の捕虜となり、この手記を書いた人だけが逃げのびてそれから現地に潜伏していた模様。その後作者はマラヤ危機と呼ばれるマレーシア独立戦争が終わったあとようやく帰国、その後手記をまとめたようだ。もしかして、先日あった兵隊の恰好をしていた人たちって、マレーシアの島から引き揚げてきた人たちだったのかも。そして彼らが話していた神農薬剤官は実在した人物であった……。ぼくはナツメグ中毒による幻覚に信ぴょう性を感じ始めていた。


 神農薬剤官の実在に勢いづいたぼくは【神農、薬剤師、K県】で検索してみた。もしかしたら子孫が薬剤師とかやってるかも、そんな期待は見事にヒットした。たしかにK県Y市にドラッグ神農というドラッグストアがある。そしてそこの管理薬剤師が神農という名前。これは一族に違いない。ぼくはそんな思い込みを信じ込み、いつものように軽ワゴンに乗り込んだ。もちろん行先はドラッグ神農だ。


 不思議な偶然とはあるものだ。いつものごとく有料道路を使わずに車で三時間ほどかけてやってきたこの場所、このあいだ冷凍カレーライスを買ったドラッグストアじゃないですか。そして先日炎天下にも関わらず、きっちり冷凍カレーライスを温めてくれた優しそうなレジの女性に尋ねるとあっさり店長兼管理薬剤師神農さんを紹介してくれた。しかし、

「実はナツメグ中毒による幻覚を見た際にあなたのご先祖様のお話を伺いまして……。」

 などと話せば相手にされないどころか違法薬剤使用者として通報されかねない。ここは戦後マニアを装うことにした。

「実は先日読んだマレーシア残留兵の手記にこちらのご先祖様と思しき人が出てきたもので。」

 そういうと神農店長は嬉しそうに頷いた。

「それは私の曽祖父ひいじいさんです。マレーシアに出征したと聞いています。うちは代々薬剤師の家系ですから間違いないと思います。」

 ビンゴ、わざわざここまで来た甲斐があった。神農店長の曽祖父こと神農薬剤官は戦争に行く前から薬剤師として働いており、漢方に精通していたらしい、そして出征した際にも陸軍から支給される医薬品の他に沢山の漢方薬を持参していたようだ。

「して、曾祖父さんは今……」

 どう聞いていいかわからない僕は口を濁らせた。そりゃご存命ではないんだろうけど。

「残念ながら曾祖父は日本へ帰ってこなかったそうです。」

 残念、だからあの桟橋で待っているお仲間たちと合流できてないわけだ。

「ただ、戦地で曽祖父に助けられたという方から頂いたお手紙が残っています。」

 そう言いながら奥に消えた神農店長はすぐにその手紙の一部を持ってきてくれた。さすがに年代物でボロボロ、字が書いてあることしかわからない代物だった。手紙を受け取った神農店長の祖父から現神農店長が聞かされた話をしてくれた。

「なんでもこのお手紙の主はマレーシアで終戦を迎えたようです。その際胃腸を患っていて、何も食べられない状態となり、日本への帰国を諦めかけていたようです。」

 神農店長が続けた。

「そのとき私の曽祖父が持ち合わせていた漢方薬のコズイシとウコンを処方したようです。その方は食欲が回復し無事帰国できたようです。手紙はその感謝を伝える内容でした。」

 なるほど、神農薬剤官は終戦後もマレーシアで薬剤官として尽力していたわけだ。それにしてもコズイシ、効いたことの無い名前だ。後で調べてみよう。ウコンなら聞いたことがある。酒飲み過ぎた時の薬ですな。話がひと段落し、ぼくの帰り際人の好い神農店長は漢方薬のハンドブックをお土産に持たせてくれた。後でコズイシとウコンを調べるのに持ってこいだ。ありがたく頂戴します。


 ぼくは帰りの車を運転しながらちょっとした違和感を覚えていた。神農薬剤官が実在の人物であったことはもう間違いない。しかし問題はライスカレーだ。先日ネットで見つけた手記によれば、日本軍敗残兵たちは食うや食わずの生活だったとのこと。どうやってライスカレーにありついたんだろう。まさかインスタントカレーが売ってるわけでもあるまいし。米はすりつぶして小粒にした芋を炒って代用していたようだけど。そんなことを考えていたら僕の口は完全にカレーライスを食べる体制を整えていた。もう今夜はカレーライス以外ぼくの体が受け付けないだろう。


 ようやく地元に辿り着いたぼくはいつものスーパーマーケットに車を停めた。19時以降はお惣菜がぐっと安くなる有難いこのお店ではあるが、本日の目的はカレーライスである。お買い得シールが貼られたレトルトカレー単品と炊き立てから時間を経て値下げシールが貼られた白米を買い物かごに入れると、ふと香辛料コーナーが目に入った。いつもは気に留めない香辛料コーナーではあるが、先日のナツメグ中毒でちょっと興味が湧いた。今まで香辛料なんて胡椒しか知らなかったけど、色々とあるものだ。そしてぼくを中毒へと追いやったナツメグもある、あのうまさは病みつきになるからいつか購入して少量ずつ使おう。そのほかにもコリアンダー、クミン、ターメリック等々色んなスパイスが並ぶ。懐が許せば全部試してみたいところだが、いつか動画がバズって高収入が得られた時の楽しみに取っておこう。


 家に戻りカレーとご飯を湯煎して、さっそく頂きます。うーん、やっぱりカレーライスは旨い。これに異存は認めない。右手のスプーンでカレーを口に運びながら、先ほどもらった漢方薬のハンドブックを眺めていてぼくは見たことある文字を目にした。

『ウコンはターメリックとも呼ばれスパイスとして用いられる。』

 え、ウコンて薬じゃなかったの?

 いやウコンは漢方薬で間違いない、ただしスパイスとしての役目も持ち合わせているようだ。そのままハンドブックで調べると先ほど神農店長から教えてもらったコズイシはコリアンダーというスパイスと同じものだった。なんと、漢方薬がカレーの原料だったとは驚いた。この勢いのままマレーシアのカレーを調べてみるとなるほど、ココナッツミルクにコリアンダーやターメリック、そしてナツメグを加えて煮込むのが定番のようだ。食べられるじゃない、終戦直後のマレーシアで、日本陸軍の敗残兵でも、カレーライス。神農薬剤官が持っていた漢方薬がスパイスになり、自生しているココナッツで煮込む、おそらくナツメグも現地調達が可能だったのだろう。ぼくはケチらずにコリアンダーやターメリックを買ってくるべきだったという後悔を感じながらもパズルを解くように謎が一つずつ埋まっていく爽快感に酔い痴れていた。

 

 ナツメグ中毒による幻覚と思い込んでいたライスカレーの物語、その大半の謎が解けた。このあとの難関、これは触れていいのかどうか自分でもわからない。それはライスカレーの中に入っていた肉だ。米すら無い状況下でどうやって肉を手に入れていたのか?

 陸軍であるからには銃器を装備していただろう。それで獣を狩ることもできるかも知れない。ただ彼らの立場は敗残兵であり敵から身を隠していたはずだ。となれば銃器を使えば自分たちの居場所を銃声で敵に知らせてしまうことになる。かと言って手製の槍や即席で作った罠の餌食になるほど現地の獣たちものんびりしていないだろう。そしてもう一つの事実として、命からがら逃げのびた彼らの中には、その幸運にあやかれず命を落とした仲間たちもいたと思われる。もしかすると彼らのライスカレーに入っていた肉とは……

 よそう、これは亡くなった人たちへの冒涜だ。ぼくはよくわからない倫理観を胸に思考を停止した。別に肉がなんだっていいじゃないか、史実を調べてるわけじゃないんだから。ぼくは疑問を棚に上げたまま動画制作を始めた。最後に名前を伏せた形で未だ還らぬ神農薬剤官と生還した旧日本兵たちとの再会を祈りつつ動画を締めくくった。結構いい話になった気がする。いや間違いないこれはいい話だ。動画はバズること間違いなし。

 

 【自惚れは愚か者につきものだ。】

 妖怪のような名前の哲学者の言葉だったと思う。自分ではいい動画が作れたと思っても、それを他人が評価してくれるとは限らない。何度となく経験したこの挫折にうんざりしながらようやく二桁に達した再生回数を眺めていた。コメントはつかず高評価もつかない。うーん、しらふではこの状況に耐えられず、ぼくはアルコールに救いを求めることにした。グラスの焼酎が二杯目を数えたころ、スマホがダイレクトメッセージ着信を告げた。やった、動画の感想かなとわくわくするぼく。なんと送られてきたメッセージはあの日桟橋で出会い、ぼくにナツメグを体験させてくれたあのイスマイルからのものだった。イスマイルがぼくの動画に辿り着いた奇跡にも驚くが、あの時一度だけしか会っていないぼくが作った動画とわかったのかが不思議だ。もちろんぼくはYoutuberだと名乗ってもいないし、自己紹介をする前に幻覚を見て病院へ運ばれた。そしてメッセージによるとあの日ナツメグ中毒症状を呈していたぼくを心配して救急車を呼んでくれたのはイスマイルだった。それで助かったのね、ぼく。改めてイスマイルに感謝した。そしてイスマイルに尋ねてみる。

『あの日会ったぼくが作った動画だとどうしてわかったの?』

 するとイスマイルから返事があった。

『だって君は白目を剥いて泡を吹きながら、Kanoなんとか、て繰り返して呟いていたから。』

 まったく話が見えない。どうやらぼくは幻覚にうなされながら、神農薬剤官の名を連呼していたらしい。そりゃ忘れないわな、この名前。ぼくは暗記するまで無意識に復唱していたらしい。ただぼくはYoutubeの動画に神農薬剤官の名前を載せていない。そこからぼくに辿り着くのは不可能だ。するとイスマイルがちょっと謎めいたメッセージをくれた。

『君の動画に出てくる旧日本兵たちが会いたがっていた薬剤官の話、その答えは多分ぼくが持っているよ。』

 ぼくは訳が分からないまま次のメッセージを待っていた。するとなにやらカレーライスの写真が送られてきた。黄色っぽいルーの中に肉のような塊がゴロゴロ入っている。そしてイスマイルがつけてくれた注釈にはコメの代わりに炒ったキャッサバを使っているとのこと。まさに旧日本兵たちが話していた、そしてぼくが想像していたライスカレーがそこにあった。

『これはココナッツミルクにターメリック、コリアンダー、そして君が夢中になったナツメグを適量入れて作ってる。君の動画を見た時うちのライスカレーを食べたことがあるのかと思ったよ。』

 またライスカレーって言ってる。英語だとcurry riceって書くらしいけど。早速イスマイルに聞いてみる。

『マレー語ではNasi Kari、語順的にはライスカレー。日本語でもライスカレーが正しいとうちの店では言い伝えられてる。』

 なるほど、そして質問もう一つ。イスマイルってカレー屋さんなの?

『そうです。マレーシアでベジタリアン向けのライスカレー屋さんをやってる。』

 なるほど、ぼくが上げた動画のライスカレーとイスマイルが作っているライスカレーは偶然にも似たような作り方だったわけだ。偶然?

『ぼくの店の名前を教えてあげる。創業者にちなんだ名前だよ。』

 そしてイスマイルが経営していると思われるカレー屋さんの写真が送られてきた。そしてその看板には、

【KANO KARI dan UBAT】

 と書かれている。マレー語で神農カレーと薬のお店という意味だそうだ。そしてイスマイルは教えてくれた。

『多分君や旧日本兵たちが探していた人物、それはぼくの店の創設者だよ。ぼくはいまも創設者の神農さんが考案したライスカレーを作り続けているんだ。』

 ぼくはこの事実に震えた。そうか神農薬剤官は病める兵には漢方薬を薬として使い、飢える兵には漢方薬をスパイスとして作ったライスカレーを振る舞った。マレーシアで病気に苦しむ傷病兵をその薬剤で救い、ライスカレーで残留日本兵の士気を鼓舞し続けていたんだ。遠い異国で敗残兵として途方に暮れていた同胞たちは処方された薬とライスカレーで、諦めかけていた帰国を実現させた。神農薬剤官はすべての同胞たちを帰国させるため、薬局兼ライスカレー屋を営みながら、戦争が終了したにもかかわらずまだ日本に帰ることが出来ない同胞のため、自らをマレーシアの礎にしたのだ。だから日本に帰ってこなかったのかとぼくは理解した。

 そしてイスマイルがK県Y市の桟橋に来ていたのは偶然ではなく、神農薬剤官の子孫が経営するドラッグストア、神農ドラッグを訪ねる途中、たまたま昼食をぼくと共にした。その後ぼくがナツメグ中毒で倒れて、幻覚の中ぼくが泡を吹きながら神農薬剤官の名前を連呼するのを不思議に思いつつ救急車を呼んでくれたイスマイル。そしてカレーの研究に熱心なイスマイルがYoutubeでカレーライス関連の動画を検索したとき、たまたまこの動画を見つけ、製作者が僕かもしれないと思い連絡をくれたのだった。

『最後に教えて欲しいのだけど……。』

 ぼくは最後の疑問をイスマイルに投げかけた。ここまで判明したなら最後の謎、ゴロゴロ入っていた肉についても知りたくなった。その肉は何の肉だったのか。ウミガメのスープのような悲惨で残酷な話でも良いからぼくは聞きたかった。そしてぼくの疑問は一笑に付された。

『落ち着いてくれよ。僕はベジタリアンだよ。』

 そう言えばイスマイルはベジタリアンだと初めて会った日から言っていた。ベジタリアンが肉を煮込んだライスカレーを作ることはないだろう。では神農薬剤官が作った、肉がゴロゴロ入ったライスカレーとはやはり別物?

『僕は創始者のライスカレーを忠実に守り続けているよ。創始者の神農さんは肉の代わりにジャックフルーツを使ったんだ。』

 ジャックフルーツ?なんですそれ?

『ジャックフルーツを知らない?マレーシアではあちこちに自生していて、昔からよく食べるよ。果肉を煮込むと牛肉のような食感になるんだ。僕は牛肉食べたことないから知らないけどね。』


 イスマイルとの会話が終わった後ぼくはふと窓を見上げた。なんという物語だろう。マレーシアに残った神農薬剤官が漢方薬の知識を生かし、当時手に入る材料を工夫しながら作ったライスカレーは、今やマレーシアでベジタリアンメニューとして愛される存在となっている。僕が病院でのびていたころ、イスマイルの体を通じて神農薬剤官は桟橋にいた帰還兵たちに再会していたのかも知れない。懐かしいナツメグの香りとともに。

 残々々暑が続く秋の夜が更けていく今この時、ぼくは無性にライスカレーが食べたくなっている自分に気が付いた。

 汗をかきながらライスカレーを食べよう、スパイスと偉人の努力に敬意を表して。

 涙を流しながらライスカレーを食べよう、スパイスと偉人の思いやりに心を打たれながら。

 胸の高鳴りを感じながらライスカレーを食べよう、スパイスと偉人の偉業に胸を躍らせて。

 ぼくはライスカレーを食べよう、スパイスの量に気を配りながら。

 

ぼくは異聞怪聞伝聞Youtuber、【望郷のライスカレー】。感想をぜひお寄せください。

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[一言] 昨日カレーライスを夕飯に食べた私にタイムリーなお話でした(´ω`*) ナツメグ、名前は知っているのですが、味の印象があまりないかも……中毒にならない程度に今度かけてみようと思います。 イスマ…
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