22.膨らむ気持ちと穏やかな時間
扉を飛び出したフェリシアは、足元の悪い廊下を可能な限り全力で走っていた。足元を取られそうになりつつもその場から逃げ出したくて、走ってしまう。
は、恥ずかしすぎるんだけど⁉︎
なんであんな風に泣いてしまったのかと頭の中が混乱する。最近レンが近くなりすぎていると、フェリシアは感じていた。一時的に一緒にいるだけの存在のはずなのに、一緒にいるのが当たり前に感じてしまっている。レンの腕に安心してしまう自分がいた。
よくない。よくないわ……。
離れがたく感じてしまったら、辛くなるのはフェリシアの方だ。レンは皇帝の後継者だ。彼がここから動くことはない。
フェリシアは所詮仮の婚約者に過ぎない。いずれだ彼に相応しい女性が現れて、新たな婚約者なるはずだ。
その時フェリシアは、レンの側にはいられない。
レンのことは弟みたいに感じてたでしょ。それでいいじゃない。
まるで本当の婚約者のように自分のことを扱ってくるレンに、何も感じないはずがなかった。婚約者のことを無碍にしないと言っていたが、レンはその通りのことをしているだけ。それだけなのに、フェリシアの方が勘違いしてしまいそうになる。
心が揺れ動くのを感じてしまう。
甘えちゃダメよ……。レンは優しいから。
レンは優しい。最初に出会ったときからずっとそうだ。目覚めさせた責任を取ろうとしてくれているのだろうと思うが、フェリシアとしてはもう十分に返してもらってと思っている。
婚約期間が終わったら、すぐに離れなきゃ……。
自分の中に膨らみかけている気持ちを抑えなければいけない。せめて隠して置かなければ、レンを困らせてしまう。そんなことはしたくない。レンは未来のある帝国の皇子だ。
フェリシアは少しずつ走る速度を緩め、次第にゆっくりと歩き始めた。どこに向かうかの目的地もない。崩れかけた城の中をぼんやりとした頭で歩いた。
「フェリシア様?」
名前を呼ばれてふと顔を上げるとそこには、カイゼント卿がいた。目が腫れていることを思い出し、ハッとして手で隠したが、すぐにカイゼント卿が早足で近づいて来た。
「どうされたのですか。何故泣いているのですか」
どこからか白いハンカチを取り出すと、フェリシアに手渡してくれる。腫れた目を見られるのがイヤで、フェリシアはそれを受け取りなるべく顔が見えないように隠した。
「……殿下ですか?」
「え?」
「殿下とは、仮の婚約者だとお聞きしました」
「え……、一体誰がそんなことを」
急に真実を突きつけられた気がして、フェリシアは心の中が凍りつくのを感じた。
「ある方が教えてくださいました。フェリシア様を泣かせたのは殿下ですか?」
カイゼント卿の真剣な瞳に慌ててフェリシアは首を横に振る。
「違います。そうじゃありません。私が、一人で泣いただけですから」
そう言ったが、カイゼント卿は眉を顰めた。それよりも仮の婚約者だということを知っていることの方が問題だと思った。
「一体誰が仮の婚約などと……」
「信頼のおける方です。……フェリシア様、もしお困りのことがあれば、私はいつでも協力します。どうか私を頼ってください」
「困っていることなど……」
「もしあればで結構です。心に留めておいてくださればそれで」
カイゼント卿はそう言うとそっとフェリシアに背を向けた。フェリシアが顔を見られたくないということを察してくれたのかもしれない。
「城の外へ行かれる場合には声を掛けてください」
そう言われてしばらくフェリシアは、心を落ち着けるために深呼吸を繰り返した。
「外に出ようと思います」
フェリシアがそう声をかけると、カイゼント卿は少しだけ振り返り、僅かに微笑むと手を差し出される。
「足元にお気をつけください」
瓦礫だらけの廊下は確かに危ない。先ほどから何度か躓きそうになった。少し迷ったがフェリシアはカイゼント卿の手を取った。
「ゆっくり歩きますが、早ければ仰ってください」
そう言って、フェリシアに合わせた速度でカイゼント卿は歩き出した。
歩いている間、カイゼント卿は何も言わなかった。涙の理由もあれ以上追求されることもなく、フェリシアはほっとした。ただ気にかかるのは、仮の婚約者であることを知っている人の存在である。
誰なのかカイゼント卿にもう一度聞いてみたい気もしたが、墓穴を掘りそうな気もしてやめておいた。
しばらく歩くと、城の外へ出た。外はいい天気のままで、眩しい太陽がフェリシアの心も少しだけ晴らしてくれた。
馬のいる場所まで戻ると、カイゼント卿がゆっくりと手を離してくれた。
「あの、ありがとうございます」
「いえ、当然のことです」
控えめに微笑むカイゼント卿は、今のフェリシアにはホッとするものがあった。
「馬はお嫌いですか?」
唐突にそう聞かれてフェリシアは話が読めず返事ができない。
「ここへ来るまで、ずいぶん怖がられていたようですから」
フェリシアの様子を見ていたのだろう。嫌いと思われてもおかしくない状態であったのは間違いない。
「いえ、嫌いと言うか、初めて乗ったので怖くて……」
フェリシアは残念ながら今まで馬に乗る機会がなかったし、必要に感じたことはなかった。それが急に馬に乗ることになり、驚きと恐怖しかなかった。
そんなフェリシアの答えにカイゼント卿は困ったように微笑む。そして、近くにいた馬に近寄ると声を掛けながら馬に触れる。
「馬はこう見えて臆病な生き物です。獰猛な生き物でらありませんから、こちらがきちんと彼らを理解してあげれば怖くはありませんよ」
ポンポンと馬の首あたりを優しく触れると、触られた馬は気持ちよさそうにしている。フェリシアは近くで見ることすら初めてだったため、見た目から怖がってしまったが、意外とそうではないらしい。
少し興味を持って馬をみつめていると、カイゼント卿が笑う。
「少し触って見ますか?」
「え!でも」
「ゆっくり馬を見つめて近づいてきて下さい」
そう言われて、フェリシアは少し緊張しながら馬に近づく。馬と目があったような気がして、一瞬びくりとしてしまう。
「目があったら、馬も認識しているので大丈夫ですよ。そのままゆっくり近づいてください」
言われるがままに、フェリシアはいつもよりずっと遅い速度で馬に近づいた。
「さっき私が触れた首あたりを優しく撫でてあげて下さい」
馬もフェリシアを見つめたままでじっとしてくれている。
「……さっきは乗せてくれてありがとう」
フェリシアがそう言いながら馬の首を撫でた。初めて触れる柔らかい肌と暖かさに感動して、思わずカイゼント卿を見ると優しく微笑まれた。
「馬に乗ったら、少しだけ空を見て見て下さい。いつもより少し空が近くて気持ちいいですよ」
そう言われて、フェリシアはつられて微笑んだ。




