幕間:侍女長の記憶-皇子の帰還-
その日のタラス帝国の皇都は大雨だった。
真っ黒な雲が城の上空を覆い、強い雨風が白壁を叩きつけ、まるで滝のように雨が流れ落ちていく。
これまで城を離れていた皇子が帰還したのは、そんな酷い天候の日だった。
叩きつけるような強い雨のなか、傘もなくびしょ濡れの状態で皇子は城門に現れた。元々の濃い藍色の髪がさらに濃く、深い色に染まる。雨の重さで髪が顔にかかり、その表情はよく見えない。
さらに彼は両手で何かを大事に抱えており、雨に濡れながらもその手に抱えたものを大事に守っている様だった。
そんな皇子の帰還に、皇子の顔を見たことのあった憲兵の一人がすぐに気づき城門を開き、もう一人は報告のため城へ駆け込んだ。
よくみれば皇子の両手に抱えられているのは、人間だった。
掛けたら外套の一部から、金色の長い髪が溢れ落ちており、その髪も雨に濡れてしまっている。顔は青白く、目も閉じたままで、生きているのか死んでいるのかも判断できない。
それでも皇子があまりに大事に抱えているために、すぐに城内の頭の切れる者は皇子に言われなくとも、望むものを準備してみせた。
侍女長が皇子に声を掛け、部屋を案内する。
正気のないような皇子の姿ではあったが、彼女の呼びかけに答え歩みを進める。侍女長が案内したのは、暖かく整えられた部屋だった。
大きなベッドにはたくさんの真新しいタオルが敷かれ、皇子はその上に大事に抱えていたものをおろした。
外套を取られ横たえられたのは、美しい女性だった。
服装は平民のそれではあったが、とても平民には見えない。
眠るように目を閉じているその姿は、まるで御伽噺のお姫様のようであった。
しかしただのお姫様ではないと侍女長の長年の勘が言っている。きっと高貴な方に違いないと直感的にそう感じた侍女長は、皇子に許可を得る。
「殿下、私めがこちらの方に触れることをお許し頂けますか」
そう尋ねた侍女長に皇子は小さく頷いた。
侍女長は寝かされた女性の手首にふれ、脈があることを確認する。
生きていることがわかればもう温めるしかない。触れた手もとて冷たく、このまま放っておくわけにはいかない。
「殿下、私にお任せください。殿下もよく温まる必要がございましょう」
離れ難そうな皇子の表情に、侍女長は厳しい表情を見せる。
「こちらの女性は、高貴な方とお見受けします。温かい湯殿にお連れしますがそれを覗かれるおつもりですか」
その言葉に流石に皇子は引き下がり、力なく部屋を出ていった。
侍女長は、若い侍女たちを招集し、すぐにこの高貴な女性の体を温める準備を始めた。女性だけで、一人の意識のない女性を運ぶのは大変なことではあったが、ここで男性の力を借りるわけにはいかない。
数人で女性を運び、服を脱がせ、なんとか温かい湯の張られた浴槽へ入れる。それでも女性は意識を取り戻す様子はない。ずっと眠ったように目を閉じ、手足には力が入っていないように見える。ただ心臓が脈打っていることから生きていることはわかる。
「……、我々にはわからないような事情があるのでしょう」
すっかり身綺麗にされ温まった女性に体を締め付けない服を着せ、再びベッドへ運び、温かい上掛けを体の上に重ねた。長い髪を何人かの侍女たちで水気を拭き取り整える。髪をなんとか乾かしたところで、扉がノックされた。
この部屋に来るのは一人しかいない。
侍女長が扉を開けると、身支度を整えた皇子の姿があった。簡素ではあるが服も着替え、すっかり濡れた様子は無くなった。皇子であることを確認すると、侍女長は大きく扉を開き、皇子をなかへ入れた。
「体は十分に温めましたが、意識は戻られておりません」
侍女長の言葉に、皇子は小さく頷いた。
まだ女性の側に残っていた侍女たちは、侍女長の目配せにささっと部屋を下がっていく。全員下がった事を確認し、侍女長自らもその部屋から下がろうとする。
本来であれば、女性を男性と二人きりに残していくなどよくないことではあったが、皇子の様子からしてそんなことを言っても意味がないだろうと悟る。
よほど大事な女性なのか、ベッドに寝かされた彼女の側へ行くと床に膝を着き、じっと見つめていた。
侍女長はそれだけ見ると、そっと扉を閉めた。
次の日は、皇子の帰還の話で持ちきりだった。
数ヶ月ぶりに帰った皇子のこれまでとの雰囲気の違いに、多くの城に勤める者たちが驚きをもって噂した。
そして、とても大事そうに女性を連れてきたという話も、城中に話が行き渡るのにそう時間は掛からなかった。
たまにものすごくシリアスを描くのが楽しいです