信号無視
自転車に乗って、近所のATMに出かけた。
台風が過ぎた次の日という事もあり、やけに空気が澄んでいる。
心地のよい、秋晴れだ。
風のない道路をガッシャガッシャと自転車で進むと、実に爽やかな空気の流れを感じることができる。
ほんの一週間前は、自転車をこぐだけで汗が噴き出していたというのに、季節の変わり目というのは目まぐるしいものだ。
来週になれば恐らく…、風の冷たさに上着を羽織りたくなることであろう。
今日は日曜の午前という事もあり、片側一車線の道路は比較的車通りが少なく、歩道に人の姿はまばらだ。
今通行している道路は主要駅に続く道であり、学校へと続く道であり…、平日はかなり込み合っているためあまり利用することがない。
すれ違いざまに自転車のハンドルがぶつかってしまい、派手に転倒して以来恐怖心がついてしまって…避けるようになったのである。
日曜日は力の有り余る学生さんがいないから、のんびり通行ができると踏んで久しぶりにこの道を通ることにしたのだ。
目的地であるATMに着くまでに、大きな信号を二つと、小さな信号を二つ、越える。
この道は片側一車線ではあるが、大きな国道が並走するまでは市内を縦断する主要道路として君臨していた。
車の通行量は多く、細い道にもしっかりと信号が付いている。
ただ…。
「おい、とまれよー、赤信号だぞ!」
「やだし!」
小さな信号を守らないものが、一定数、いる。
通行量の多い道路なので停止時間が長めに設定してあることも幸いしてか、信号を無視するものが多発している。
距離にしておよそ3メートル、十歩もあれば渡れてしまう短い横断歩道であることも幸いしてか、信号を無視するものが後を絶たないのだ。
「つかしんごー無視すんなよ!」
「いいんだって!誰もいねーしwww」
……危ないな。
信号の向こう側で騒がしく声をあげている二人乗りのやんちゃな男女が、赤信号に突入しようとしている。
その後方には、自転車の速度を落とす男子が、二人。
「きゃはは!わたっちゃったー!」
「まじめかよ!先行くからな!!」
……ああ、危ない。
二人乗りのやんちゃな男女が、奇声を発しながら赤信号に突入した。
……音もなく、交差点内で。
…………!!!!!!
激しい、衝突を、見た。
ド派手に飛び散る不穏な塊と、まるで気づいていない二人。
弾けた塊は、秒で二人にこびりつき、秒でつるりと剥がれていく。
やんちゃな二人に衝突したのは…、不平の塊か。
生きた人間に接触したせいで、せっかく固まっていたものが散り散りになってしまった。
ああ、その一部が…ピチピチとした魂にへばりついている。
ただ漂っていただけの不平が、魂に出会えてうれしそうに浸透してゆく。
「信号とかバカだし!」
「守るやつなんかいねーよww」
二人乗りのやんちゃな男女が、奇声を発しながら赤信号を渡り終えた。
勢い良く、風が私の横を通り過ぎる。
散り散りになった不平は、再び丸まり、十字路を右折してやんちゃな若者を追いかけていった。
「おーい、待てよ!」
「もういいじゃん、あいつら先に行かしとこ、ウザいし。」
信号が青に変わり、自転車に乗った男子が二人、私の横を通り過ぎていった。
この二人には、不平のかけらは付着していない。
私も、のろのろと自転車のペダルを踏んで…青信号を渡りつつ、ATMへと、向かう。
さりげなく、横断歩道の横を見れば…ああ、今度は、侮蔑が止まっている。
反対側の信号には、何だろう、黒い影?成仏できてない人の名残かな?
キチンと信号を守っている、人ではないものたちの、姿。
……信号は、人間だけのものでは、ない。
世の中には、ルールというものを利用する存在がたくさんいる。
通ってはいけません、そういう規律を破るものを求める存在がたくさんいるのだ。
規律を破ることで生じる、つるりとした魂の表面にできた傷。
そこから進入しようと待ち構えているものは少なくない。
虎視眈々と再び人に混じろうとしている、もの。
それは誰かが振り切った感情であり、誰かが手放せた感情であり、誰かが失った感情であり、誰かが気付かぬうちになくしていた感情であり。
人から剥がれ落ちた、放り出された、漂うだけの感情の塊は、再び人に戻ることを願いあてもなく彷徨い続けている。
いきなり見ず知らずの人についたところで、生きる強さに弾かれてしまう。
いきなり見ず知らずの人についたとしても、馴染むことができずに揮発してしまう。
だが、衝突事故の場合は、別だ。
目に見えないとはいえ、魂は衝撃を受けている。
赤信号を渡っているという、ルールを反故にしているという事実が、魂に傷をつけている。
悪いことをしているという良心の呵責が、付け入る隙となってしまうのだ。
ルールを無視する自分の強さを誇る驕りが、付け入る隙となってしまうのだ。
先ほどの不平の塊の言い分は、こうだ。
私は人間の規律を守って通行していました、けれど人がそれを破って突撃してきたのです。
だから私は悪くないんですよ。
だから私はバラバラになってしまったんですよ。
だから再び集まろうとしただけなんですよ。
決して自ら人にくっつくために何かをしたわけではありませんよ。
事故は偶然起きてしまいました。
たまたま遭遇したら、傷があったので塞ごうとしたんです。
魂が傷ついたら、そこから悪いものが入ってしまうかもしれません。
私はただの不平ですから、狂暴な感情よりは安全ですよ。
完璧ないいわけを準備して、堂々魂に乗り込むのだな。
あの二人は、不平を得て、また別の感情を得るのだ。
たとえば、給食がまずいという不平から、怒りを生み出し。
たとえば、友達に勝てないという不平から、卑怯を生み出し。
たとえば、勉強が実らないという不平から、自嘲を生み出し。
しばらく、文句しか言えない生き方をすることになるんだろうなあ……。
親御さんは大変そうだ。
……まあ、ルールを守れない子供に育てちゃったんだから、仕方ないか。
考え事をしていたら、あっという間にATMだ。
私は自転車を駐輪場に停め……。
入り口横に自転車を停めてる人がいるなあ。
ばっちりサドルの上に透けてる人が乗っている。
そうだな、駐輪場に停めてないし、自由に乗っていいって思われちゃったんだな。
あれはどかすのが大変そうだ。
……ルールを守れない大人になっちゃったんだから、仕方ないか。
ATMから出てきた、やけにギラギラとした眼差しのおっさんは、すでに乗車済みの自転車に乗り込み…、青信号を渡って行った。
この先の信号が、全部青だといいけどね……。
……まあ、なるようにしかならないか。
私は、ATMに並ぶ、ルールを守れる人々の列に混じったのであった。