神々の遊戯に終止符を
「これで⋯⋯終わりか⋯⋯存外、呆気ないものだな。なぁ⋯⋯勇者?」
「ああ⋯⋯。そうだな」
俺は玉座の間に敷かれた赤い敷き布に横たわる魔王を見下ろす。
お互いの全身全霊を賭けた一騎討ちの決着は先刻ついたばかり。
後、僅かでも⋯⋯剣を振り下ろす速さが足りていなければ、負けていたのは俺の方⋯⋯。この勝利は決して俺の力でもぎ取ったものでは無い⋯⋯。
魔王の力によって築かれたこの城も⋯⋯主の存在が希薄になるにつれ、維持する為の魔力が消え失せようとしているのか、玉座を揺らす地響きがだんだんと大きくなっている気がする。
「ふふっ⋯⋯不思議なものだな。今生の終わりを看取る者がお前で良かった⋯⋯と、心の底から思えてならぬ。⋯⋯人の心なぞ、とうに捨て去ったものと思っていたが⋯⋯」
「良かったじゃないか。⋯⋯死ぬ前に思い出せて」
俺は今にも事切れそうな魔王の顔を最後に一目見ようと、痛む身体に鞭打ち近寄った。高貴な女王を思わせる意志の強そうな真紅の瞳に、腰ほどまでの黒く染めた絹糸のようなさらさらとした綺麗な黒髪。血の気の失せつつある透明感のある綺麗な肌は、魔に魅入られながらも、人としての美しさを最後まで失わなかった彼女の⋯⋯人の温もり。
「はぁ⋯⋯はぁ⋯⋯。最後に⋯⋯頼みがある勇者⋯⋯」
「なんだ⋯⋯?」
魔王は傍らにある禍々しい剣を取ると、柄を逆手に持ち俺に差し出した。
魔王の力の源でもあるその剣は、刀身に不気味な青い目がついており、ぎょろぎょろと忙しなく眼球を動かしている。
「⋯⋯聖国にある輪廻の聖域。そこに、⋯⋯この剣を収めて欲しい」
「承知した⋯⋯」
俺が魔王から剣を受け取ろうとすると、最後の力を振り絞ったであろうその腕に引き寄せられる。
「⋯⋯」
耳朶から感じる魔王の吐息。もうすぐ消えそうな命の残り香を、俺は生涯忘れることは無いだろう。やがて彼女の腕がだらんと⋯⋯力なく横たわった。
「⋯⋯やっと、終わりましたか。ご苦労様です。人の子よ」
耳に残る余韻に浸る俺に、荘厳なされど冷たい響きを持つ声がかけられる。振り向くとそこには見慣れた女神の姿があった。
「女神⋯⋯」
「勇者シンよ。其方は見事、魔王討伐の大役を成し遂げました。これで世界に平和が訪れ⋯⋯」
「嘘だろう、それは?」
俺の指摘に女神が押し黙る。魔王とは正反対の血の気が無い無表情に、ヒビが入ったような気がした。
「⋯⋯何を言い出すのです? 勇者?」
「知らないとでも思ったか? ⋯⋯魔王と呼ばれる人間がお前たち神々の気まぐれで、この世界に魂ごと拐われて来た異界の民であること」
喋るだけでも肺がズキズキ痛む⋯⋯。身体の限界はとっくに迎えている⋯⋯。
それでも⋯⋯戦いはまだ終わっちゃいない⋯⋯。
「やっと⋯⋯あんたを聖域から引き剥がせた。感謝するぜ⋯⋯魔王!!」
「まさか⋯⋯先ほどまでの一騎討ちは全て演技⋯⋯??」
気づいたところで遅い⋯⋯。俺は最早自分の腕ともいっていい、愛剣を振りかぶる。⋯⋯魔王は最後の力で俺に回復の魔法をかけた。
そう、全てはこの時の為⋯⋯!!
強烈な踏み込みとともに放った斬撃は、女神がとっさに顕現させた錫杖で弾かれる。だが、弾かれた反動を利用してくるりと身を捻ると、遠心力を上乗せした一撃を見舞った。狙いは奴の首⋯⋯いかな神とて頭と胴体が分かれれば死に至るはず⋯⋯。
「愚か」
「なっ!?」
俺の目論見は外れて、女神は片手だけで渾身の一撃を受け止めて見せた。
無論、その手には血も傷も無く、ただ不気味なほど白い神気がまるで見えない壁かのように刃を防いでいた。
チッ⋯⋯と舌打ちして俺は剣を強引に引き戻す。やはり⋯⋯神々の加護を受けた聖剣では女神に傷一つ付けることなど出来ない⋯⋯ということか。
「哀れ。魔王に何を吹き込まれたかは知りませんが、女神である私に刃を向けるとは⋯⋯。残念です、勇者よ」
「はっ⋯⋯。こっちも残念だよ、女神サマ。まさか人界と魔界の争いが神々の遊戯だったなんてな⋯⋯」
俺の悔し紛れの指摘に⋯⋯女神は目を見開いた。
そう、最初から全て神々の遊戯だった。女神達が異界から魂を拉致して、この世界の新たな存在へと作り替え人類の脅威に仕立て上げる。
全ては、更に上位の神から世界の統治権を奪われないようにする⋯⋯。そのためだけに見せかけの困難を演出する⋯⋯。もはや茶番と呼ぶのすらおこがましい、ただ己の世界を守ろうとするが故の自演劇。そのくだらない演目でどれだけの人が、魔族が涙を飲んだと思っている!?
「⋯⋯そこまで知っているのであれば、分かるでしょう。変化の無い世界になど価値は無い。恒久的平和など一番あり得ないと⋯⋯」
「仮にも神であるあんたがそれを否定しますか⋯⋯。はっきり言ってやる。
お前こそ、世界にいらねぇんだよ!! この悪女が!!」
俺は再度、愛剣を振りかぶると、奴の死角⋯⋯左に回り込むように床を蹴った。
回復魔法の効果が切れるまで後僅か⋯⋯。両手の握力もじわりじわりと落ちていってるのが嫌でも分かる。時間は余り残されていない⋯⋯。
左腕を切り飛ばすつもりで、斜め下から愛剣を振り抜いた。
「フッ⋯⋯」
流石は神というべきか⋯⋯。
涼しさすら漂わせる薄氷のような笑みを浮かべた女神は、ぐるんと錫杖を回転させてまたも斬撃を防いでみせた。杖の先に付けられた鈴がチリン⋯⋯とこの場にそぐわない清涼な音を鳴らす。
「⋯⋯戦いの心得まであるなんて、聞いてないぜ⋯⋯女神サマ」
「女神とて戦とは無縁では無い⋯⋯ということだ。くくっ⋯⋯それにしても消すには惜しいな? シンよ? ⋯⋯異界から魂を調達するのも楽では無くてね?
都合よく命を落とした魂など、そうそう見つかるものでも無いし、異界の神との交渉ほど退屈なものも無い」
突然、口調を変えた女神に虚を突かれた隙に、一気に間合いを詰められる。
そして、先ほどの魔王の暖かな吐息とは違い、耳が氷つくような呪詛のような言葉が奴の口から紡がれた。
「⋯⋯お前が次の魔王となれ」
「⋯⋯!! 貴様っぁぁぁぁぁぁ!?」
激昂と共に奴を振り払い、我を忘れて無我夢中で斬りかかる。
神だろうがなんだろうが関係無い⋯⋯。あいつの為にも俺はこいつを絶対に倒す!!
気迫だけで、型も何もかも忘れて奴に次々と斬撃を見舞う。
振り下ろし、横なぎ、突き、なぎ払い、回転斬り⋯⋯。
限界以上の力を振り絞って放たれる軌跡の数々が全て鈴の音と共に、まるで赤子をあやすように躱される、いなされる、防がれる⋯⋯。
なんで、なんで、届かない??
「フン⋯⋯興醒めだな」
「なっ⋯⋯」
胴体を狙って放った一撃を錫杖で弾かれ体幹を崩された。
その勢いのまま組み敷かれ、女の細腕とは思えない膂力で火花が飛び散るほどの勢いで床を引きずられた俺は、その勢いのまま玉座の近くに投げ捨てられる。奴から授かった加護付きのマントから煙が上り、肌に焼印を押されたような痛みが襲う。
衝撃で肺から空気が吐き出され、血混じりの痰を吐き出した。
「呆気ない幕切れだな⋯⋯シンよ。おっと⋯⋯これは先刻、魔王が言ったセリフだったか?」
「⋯⋯はっ。ほざいてんじゃねぇよ、この堕女神が⋯⋯」
精一杯の強がりを奴にぶつけるが⋯⋯流石に限界のようだ。
四肢に力が入らず、目も霞んでる⋯⋯。畜生ここまでか⋯⋯。
「⋯⋯そこまで肉体も魂も磨耗していては、もはや輪廻の輪からも外さざるを得んか。⋯⋯余計な仕事を増やしおって」
苛立ち紛れに振りかぶった奴の足が、勢いよく振り下ろされ⋯⋯胃液が逆流した。
尚も執拗に踏みつけられて、既に下半身の感覚は感じられない⋯⋯。
折れた肋骨が内臓に突き刺さるも⋯⋯苦悶の声すらあげられず⋯⋯、ただ口から血がぼたぼたと流れていた。⋯⋯もはや立てないはずの俺の視界が上昇し、奴の無機質で生気が感じられない瞳と目が合う。
「女神に牙を向いた反逆者として⋯⋯最後に言い残す事はあるか? 勇者シンよ」
最後の慈悲のつもりなのだろう⋯⋯。神々しさすら感じるその彫刻のような顔の唇が歪な笑みで飾られている。
「⋯⋯った」
「⋯⋯なんだ? もはや喋ることすら出来ぬか?」
「この時を⋯⋯待ってた⋯⋯」
「は? ⋯⋯がはっ!?」
奴の口からつー⋯⋯と一条の血の線が流れ落ちる。
視界を下にずらせば奴の腹から剣が生えていた。
刀身に青い不気味な目玉が付いたその剣の名は”魂を喰らうもの”。⋯⋯歴代の魔王達が鍛えた神殺しの剣。
「⋯⋯待たせたな、シン。⋯⋯再生術式が稼働するまで時間がかかりすぎた」
「⋯⋯遅すぎるんだよ。けど、絶対間に合う⋯⋯と信じてた」
その身に宿る迸る魔力で黒髪を自らの瞳と同じ色彩に変えた魔王が、ボロボロの身体で女神の腹を剣で貫いていた。
「魔王⋯⋯!? お前は死んだはずでは⋯⋯」
「死んださ。だからお前が見ているのは魔王では無い⋯⋯。
お前に異界から無理やり連れてこられた魂の一つ。
そしてこの剣は、お前に魂を弄ばれたもの達から創られた怨嗟の声。⋯⋯果てるがいい!! 世界の調和を乱す元凶よ⋯⋯!!」
魔王の叫びと共に女神の身体から光が溢れ、やがてちり一つ残さず消えた。
カランという音と清涼な鈴の音が、倒壊を始めた玉座の間に響き渡る⋯⋯。
ああ、やっと終わったんだなと⋯⋯。
「シン!! ⋯⋯しっかりしろ!! くそっ⋯⋯もう魔力も残っていない⋯⋯」
「俺の事はいい。早く逃げろ⋯⋯魔王。もう持たないぞ、ここも」
地響きは既に地鳴りを感じるほどの規模になっていた。
魔王、せめて⋯⋯お前だけは。
「阿呆⋯⋯。お前を残して逝けるわけないでは無いか⋯⋯」
突如、唇が柔らかい感触と共に塞がれた。
しょうがないやつ⋯⋯だ。でも、⋯⋯嬉しい。
俺だって同じことを、いつの頃からか自覚していたから⋯⋯。
「シン⋯⋯愛してる」
「⋯⋯俺もだ、 魔王」
薄れゆく意識の中、初めて見る彼女の微笑みがとても綺麗だった。