第7話 たすけて、神様
「おい、おいおいおいおい。何してくれてんだあ、テメエ?」
ギロリとグラシアノの血走った目がトーマスを捉える。
それだけで身体が震え出し、今すぐに背を向けて逃げ出したくなる。
だが、そうしたらリーリヤはどうなる?
あの日のカリーナのように連れ攫われて、拷問を受けて、性暴力を受けるに違いない。
あの時の繰り返しは、絶対にしたくない。
その想いだけで、トーマスは精霊の尖兵と向き合った。
「何か一人で舞い上がっているようだけどさああ、テメエ自分がやったこと分かってんのかああ?」
グラシアノはリーリヤから離れて、トーマスに一歩一歩近づいていく。
これで、彼女からひとまずの危険を引き離すことができた。
その危険が自分に向かってきていることは、良いことだとは思えなかったが。
「こんなの攻撃とも言えねえしょっぼい行為だ。だけどなあ、俺に……精霊の尖兵の邪魔をしたっていう事実はあるんだぞおお?」
グラシアノは自分にぶつけられた小さな石を手のひらに入れると、ゴシャッと握りつぶしてしまった。
いくら小さいとはいえ、石を握りつぶすなんてトーマスにはできないことだ。
力の差をまざまざと見せつけられて、顔を青ざめさせる。
「もう一回聞くぞお。……何してくれてんだ、テメエ」
至近距離から相対すると、グラシアノの巨大さがさらにはっきりと分かった。
大きな背丈に分厚い筋肉の身体。鍛えられているということもあるだろうが、トーマスとは食糧事情が違っていた。
倒れる間際まで働かされつつもろくな食事をとれないトーマスと、食べたいものと量を奪って食べていたグラシアノ。
二人の違いは明白であり、肉弾戦だと手も足も出ずに殺されるだろう。
「り、リーリヤから、離れろ……!」
それでも、トーマスは尖兵にそう言った。
ガクガクと小鹿のように脚を震わせながらも、誰の耳にも届くようにはっきりと。
「ぶっ、ぎゃははははははははは!! 声が震えてんじゃねえかああああ!!」
グラシアノは大笑いする。
そして、チラリとリーリヤの方を見た。
「こいつ、テメエの女かあ? まあ、俺に逆らった勇気だけは褒めてやるよおお。だがなあ、俺がお前の言うことを聞く理由がどこにあると思う? そんなもん、ねえんだよなああ!」
その通りだ。何をしても許されている尖兵に、ただの村人が命令をするなんてもってのほか。
尖兵であるグラシアノが言うことを聞く理由なんてどこにもなかった。
「そもそも、テメエみてえな雑魚が俺をどうこうできるとでも思ってんのか? 今の時代は弱肉強食、力がないと生きていけねえし、意見も通らねえ。そんなことも分かってなかったのかああ?」
「分かっている……分かっているさ。俺はお前なんかと戦えない。簡単に殺されるのがオチだ。でも……」
間近で凄まれても、トーマスは彼をキッと睨みつけた。
腹に力を入れて、決して引かないように。
「でも、あの時みたいに何もせず、何かを奪われるのはごめんだ……!!」
「お、にいちゃん……」
それは、トーマスが過去と向き合おうとした瞬間であった。
普段の兄とは思えないほどの輝きを放つ彼に、震えて泣いていたカリーナは顔を上げる。
あれは……昔、大好きだった優しくて正義感のある兄の姿だった。
「だから、これは俺の勝手な意見だ。あんたが受け入れるかどうかは勝手に決めていい。だけど、少しだけ聞いてほしい」
トーマスだって、過去と向き合ったからいきなり尖兵とまともに殴り合えるなんて思っていない。
むしろ、そんな戦闘になったとしたら、戦いとも言えないほどあっけなく殺されるだろう。
だから、これは賭けだ。グラシアノが乗ってくれるかはわからない。
いや、乗らないで殺される可能性の方が高いだろう。
だが、それでも……何もしないでリーリヤを連れて行かれるよりは、何倍もマシだった。
「俺のことを、十発殴ってくれていい。もし、それを受けて俺が立っていられたら、リーリヤを見逃してくれないか?」
そのトーマスの言葉にぎょっとしたのは、これを聞いていた全ての人だった。
村人も、カリーナも、そして当事者であるリーリヤとグラシアノも、皆驚いた。
あまりにも無謀で異質な提案だったからである。
「だ、ダメだよ! 私なら大丈夫だから……!」
「ぎゃははははははは!! お前みてえなひょろい奴が、俺の拳で十発耐えるうう? できるわけねえだろうがああ! 一発でお陀仏だろうよ!」
リーリヤの思いやる綺麗な言葉を、グラシアノは汚い言葉で押しつぶす。
明らかに舐めている。だが、これが普通の反応だ。
「……じゃあ、やらないのか?」
「そりゃそうだろ。俺にメリットなんてないしなああ。……って言いたいところだが、いいぜ。テメエの言うことに乗ってやってもおお」
チラリとリーリヤとカリーナを見るグラシアノ。
二人とも、トーマスのことを心配して顔を歪めている。
自分たちよりも、彼のことを思いやって……。
そして、トーマスもまた自分を差し置いて彼女たちのために立ち上がったのである。
絶対に勝てないことを分かっていて、死の恐怖に震えながらも……。
グラシアノは歪に口を跳ねあげる。
「そっちの方がああ、面白そうだからなあああああ!!」
そんな彼女たちの顔を、トーマスを痛めつけることによって歪ませることができたら、どんなに爽快だろうか。痛快だろうか。
グラシアノは大きな拳を握り、太い腕を持ち上げる。
「さあ、覚悟はいいかあ? あれだけ啖呵をきったんだあ……一発で終わってくれるなよおお!!」
ブン! と振り下ろされる拳。
トーマスはグッと歯を食いしばり、腹に力を入れ、少しでも動かないように脚に力を入れる。
「――――――ぁっ」
ガツンと頭を横殴りにされた。
その瞬間、トーマスはぐわんと身体を揺らされ、地面に座り込んでいた。
耐えることすら、できなかった。
自然な流れだった。殴られ、倒れる。
力を入れて食いしばろうと思っていたが、そんなことができる暇すらなかった。
力の差が、圧倒的だった。
「ぎゃはははははは! たった一発で終わりかよおお!? なっさけねえなああ!」
大笑いするグラシアノの声が、やけに遠くから聞こえてくる。
生温かな液体が頬を伝うのが分かった。おそらく、殴られた頭部の皮膚が切れて血が出てきているのだろう。
自分の吐く短く早い息が、やけに頭に響く。
確かに、この一発だけでも大きすぎるダメージだ。意識を失わなかっただけでも奇跡かもしれない。
これ以上同じような攻撃を受けたら、本当に死んでしまうかもしれない。
しかし……しっかりと耳に届いてくるリーリヤとカリーナの声を聞けば、立ち上がらないわけにはいかなかった。
「はぁ、はぁ……!」
「お?」
ガクガクと脚を震わせながらも、ゆっくりと立ち上がるトーマス。
それを見て、目を丸くするグラシアノ。
「あと……九発だ……!」
「ほおおおお! いいぞお! あれだけで終わっていたら、つまらねえからなあああ!!」
大笑いすると、再びグラシアノは拳を握って振るった。
今度は、下から掬い上げるようなアッパーカット。
それが、無防備で細いトーマスの腹部に突き刺さるのであった。
「うっ、げええええええええ……っ!!」
ドン! とトーマスの身体が浮き上がるほどの衝撃をもろに受けて、彼は口から大量の吐しゃ物を撒き散らす。
もともと食事もろくにとれていないので、漏れ出すのはほとんど胃液である。
それに混じって、赤い血も吐いていた。
ツンとした匂いが辺りに広がる。
「あど……はっばづ……!」
口元と胸元の衣服を汚し、涙を浮かべながら、それでもトーマスはグラシアノの前に立った。
その力を実際に受けて、恐怖は何倍にも膨れ上がっている。
殺されるという明白な恐怖がある。
だが、それでも……リーリヤとカリーナのために、彼は向かい合った。
「ぎゃははははははは!! 根性あるじゃねえかあああ!!」
心底楽しそうに笑うグラシアノから、まるで嵐のように拳が飛んでくる。
三発目、四発目。
上から、左右から、下から。そのたびに、吊るされたサンドバックのように揺らされるトーマスの細い身体。
五発目、六発目。
血が噴き出し、涙や鼻水もみっともなくこぼれる。
七発目、八発目。
殴られた場所はすぐに腫れ上がり、痛々しい青あざになる。
九発目。
それでも、トーマスは倒れなかった。ただ、リーリヤとカリーナのために。
「……おいおい。まさか、本当にここまでやれるとはなぁ……」
グラシアノの表情には、もはや嘲りの色はなかった。
ひたすらに、驚嘆。鍛えたこともなく、食事もままならない弱弱しい雑魚が、誰かを思いやって、誰かのためだけに自分と相対し続けているのだ。
これは、グラシアノにとっても初めての経験だった。
「ヒュー……ヒュー……」
トーマスは半分以上意識を飛ばしていた。
腫れ上がって目はほとんど開かれていないし、頬なども痛々しく膨れている。
血や涙、鼻水といった体液を大量にこぼしており、見栄えはすこぶる悪い。
彼を見下しているほとんどの村人たちは、そんな彼の姿を見てせせら笑う。
自分より下を見て笑い、それで鬱屈とした生活を耐え忍ぼうとしているのだ。
泣いているのは、リーリヤとカリーナ……そして、彼をいじめていた同年代の少年たちだけだった。
「最後の一発だあ……。覚悟はいいなあ?」
トーマスはそれに答えなかった。
だが、目はまだ死んでいなかった。
それを見たグラシアノは、硬く握りしめた拳を振り上げ……。
「――――――」
トーマスの顔面に叩き込んだのであった。
血を噴き出し、そして地面に倒れる。
そう、倒れてしまった。
これで、賭けは成立した。グラシアノの勝ちで、トーマスの負け。
……そして、リーリヤが尖兵に連れ攫われるということになる。
「流石っすね、グラシアノさん! ほんじゃ、こいつ連れていきましょうか」
彼の仲間である尖兵が、リーリヤを引っ立ててくる。
しかし、今の彼女は自身の将来を悲観して叫ぶことはなく、ただ倒れ伏すトーマスに向けられていた。
そんな彼女を見ながら、グラシアノは少し考えたように時間を置くと……。
「あー……いやあ、そいつは置いてってやれや」
「えっ? いいんすか? グラシアノさんが勝ったのに……」
目を丸くする尖兵。
まさか、グラシアノがそんなことを言うとは思わなかったのだ。
リーリヤは解放されると、すぐにトーマスの側に走り寄る。
カリーナも普段の言動を忘れ、彼の側に寄り添っていた。
「いいんだよお、面白かったしなあ。まあ……それだけじゃあ面白くねえんだろ?」
ニヤリと笑うグラシアノ。
「他の奴なら好きにしてもいいぞお。俺は満足したからいいけどお」
その言葉を聞いた尖兵たちもまた、顔を笑顔に変えるのであった。
村人たちにとっては、死の笑顔である。
彼らは思い思いの人間に近づいていき……斬り殺した。
「ぎゃああああああああああ!!」
「何でだよおおお!? 助けてくれええええええ!!」
「いやああああああああああ!!」
大恐慌。村人たちはいっせいに逃げ出す。
だが、尖兵たちから逃げられるはずもない。
ニヤニヤと余裕の笑みを浮かべながら、彼らは村人たちを大した理由もなく斬り殺していく。
本当に理由はないのだ。ただ、暇だったから。それとも、グラシアノとトーマスのあれに当てられたこともあるかもしれない。
ただ、村人たちはまったく自分たちが理解できない理由で殺されていくのであった。
村の粗末な建物には火がつけられる。
それは、まさにあの日の再来だった。
意識を取り戻しながらも立ち上がることすらできない大ダメージを負っているトーマスは、この虐殺をただ見ることしかできなかった。
「グラシアノさん! あいつは……カリーナは持って帰ってもいいんですか!?」
そんな時だった。尖兵の一人が、欲望にまみれた目でカリーナを見たのは。
「あー……いんじゃね? あいつは別に賭けの中に入ってなかったし」
グラシアノも興味なさそうに返す。
それを受けた尖兵は、舌なめずりをしながらカリーナに近づき、乱暴に腕を掴んで持ち上げた。
彼女にどのような未来が待っているか、簡単に想像できるだろう。
「ま、待て……!」
掠れる声を何とか発するトーマス。
だが、誰がそれを聞いてくれるだろうか。
今にも死にかけている男の言葉なんて、少なくとも精霊の尖兵には聞く理由は一切なかった。
「……かっこよかったよ、お兄ちゃん」
涙を流しながら、あの日と同じように引きずられていくカリーナ。
ただ、あの日と違うのは、こちらを責めるような目を一切向けてこないことだった。
うっすらと笑みを浮かべて……しかし、諦めたような色を多分に含んでいた。
そんな顔を、兄である自分がさせていいのか?
いや、いいはずがない!
「ぐっ……! 神様がいるんだったら……助けてくれよ……! 四大神でも、人に優しい女神でも……破壊神でも……!!」
だが、トーマスは起き上がることすらままならない。
グラシアノから受けたダメージが、大きすぎた。
常人なら死んでいてもおかしくない。トーマスが生きていることが不思議なくらいなのだ。
「たす、けて……神様……」
だから、彼は目の前のぼやける脚にしがみつき、そう懇願することしかできなかった。
誰かなんてわからない。村人の一人かもしれない。
なんだったら、尖兵の一人かもしれない。
だが、彼は妹のため、そう懇願した。
ふと口から出たのは、リーリヤと神について話をしたからだろうか?
信じていないものにすがるほど、彼は弱っていた。
「えぇ……なにこれぇ……?」
そして、その願いを押し付けられた破壊神は、酷く困惑するのであった。