第3話 変わってしまった妹
『お兄ちゃん! 助けてよ!』
「(ああ、またこの夢だ……)」
ぶわっと目の前に広がった光景を見て、トーマスはとても冷静に判断することができた。
もう何度繰り返し見てきたかわからないほどの悪夢だからだ。
そう、悪夢だ。これは、過去実際にあったこと。
そして、自分の無力さと情けなさがハッキリとした、最低最悪の悪夢。
『どうして……どうして助けてくれないの!?』
「(俺はずっと、これに苦しめられ続けるんだな……)」
記憶の中の村が燃えている。
自分によくしてくれた幼馴染の両親は、血を流して倒れている。
一緒に遊んでいた友人も、倒れてから動く気配がない。
何よりも、自分と彼女をとても優しく育ててくれた両親は、火に焼かれて黒こげになっていた。
そして、【やつら】に引きずられていく最愛の妹。
『お兄ちゃあああああああああああああああああん!!』
◆
「はっ!!」
ガバッと飛び起きるトーマス。
薄っぺらい布団が吹き飛ぶ。
「はぁ、はぁ……」
荒い息をゆっくりと沈めていく。対処法だって、もう分かっている。
あの悪夢を見て、飛び起きる。ずっと繰り返してきたことだった。
「慣れる……わけないよな」
自嘲するように笑うトーマス。
全身から嫌な汗が噴き出していて、気持ち悪くて仕方ない。
チラリと外を見ると、まだ日がほとんど昇っていない。ぼんやりと明るくなっている程度だった。
いつもそうだ。あの日から、ぐっすりと眠ることができた夜なんてない。
こうして、いつも悪夢にうなされて飛び起きるのだ。
とはいえ、これでも少しマシになった方である。
最初の方は、本当に寝てから数十分で飛び起きて涙を流し、また寝てということを繰り返していたのだから。
慣れたのだろうか?
そう思うと、自分の図太さと馬鹿さに笑いがこみあげてくる。
「……まあ、どうせぐっすり眠ることなんてできないしな」
そうだ。トーマスが眠ることができなくなった日。それは、自分だけではなく、この村全体を大きく変える日だった。
誰かに管理され、ありとあらゆることを強制され、しかしそれに刃向うことは許されない。
そんな奴隷のような生活を送らなければならなくなった。
ほら、また今日が始まる。
「起きろぉ! ダラダラ寝てんじゃねえぞ、クソ労働者!!」
そんな怒声と共に、ガランガランと村の教会の鐘がけたたましく鳴らされる。
本来は祝福の意を込めて鳴らされるものだったはずだが、もはやこうして起床時間を告げる意味のものに成り代わったことに慣れてしまった。
変わり果ててしまった、彼女のこんな怒声にも。
◆
この村の一日は、教会の鐘が乱雑に鳴らされる時から始まる。
それは、鐘を鳴らす者の裁量次第であるが、基本的には早朝の日が昇るか昇らないかの境目くらいが多い。
こういった時間帯が、一番人間にとって辛い時間であることを知っているからだ。
悪夢で起こされることが毎日のトーマスは、ほとんどの村人たちよりも先に家から出る。
家と言っても、非常に粗末なものだ。
風と雨がしのげる。それだけだ。
ぜいたく品はもちろんのこと、家具すらろくなものが揃えられていない。
【やつら】に支配されてしまった現状、必要最低限の物以外の所有は認められていないからである。
トーマスはボーっと村人たちが眠い目を擦りながら家から這い出てくるのを眺める。
皆やせ細り、目の下のクマも酷い。栄養状態は非常に悪かった。
しかし、誰もその現状を何とかしようという者はいない。
ただ絶望の表情で、のそのそと言われるがままに動いている。
「(まるで、生きた屍……アンデッドのようだ)」
そんなことを考える自分もまた同じ存在なのだと思いついて、苦笑いするトーマス。
すると、ビュッと空気を切り裂く音が聞こえたと思えば……。
「ぎゃっ!?」
腹部に激痛が走り、トーマスは地面に崩れ落ちていた。
ドシャリと倒れるとともに、激痛の走った腹を震えながら見る。
すると、粗末な衣服が切られており、薄い布地ではカバーできなかった皮膚から血が流れていた。
それは、彼女が振るった鞭によるものだった。
「あのさぁ、誰が勝手に笑っていいって言ったの?」
「うっ……!」
ガッと突っ伏している自分の身体に蹴りが飛んでくる。
だが、それをした人物自体がそれほど力がないためか、先ほどの腹部を打った攻撃よりは何倍もマシだった。
とはいえ、彼もほとんど食事をとれていないため、ダメージはそれなりのものである。
下から見上げるようにして視線を向けるトーマス。
そこには、やはり彼女がいた。
短く切りそろえられた黒髪は、あまり手入れがされていないのだろう、ぼさぼさと散らばっていた。
顔は整っているのだが、自分を見下ろすその表情は恐ろしいほど厳しいものだった。
変わり果ててしまった、自分の大切な妹だった。
「勝手なことしないでくれる? あんたたちはただの労働力。精霊様の下僕なんだから。そんな奴に、笑う必要なんてないでしょ?」
そう言う妹……カリーナの目と声は、決して兄に向けるような温かみのあるものではなかった。
かつての面影は、どこにもない。
自分を慕ってくれていたあの可愛らしい妹の姿は、どこにもない。
彼女が自分に向けてくるのは、ただただ軽蔑と敵意である。
親愛も、家族愛も、全てなくなってしまった。
だが、それは全部自分のせいなのだ。
あの時、あの日、自分が彼女を助けなかったから。自分の身可愛さに、彼女を見捨てたから。
だから、これは全部自分のせいなのだ。
「……すみません」
その謝罪の言葉は、少なくとも家族に向けるようなものではなかった。
頭を垂れて許しを請う実の兄を、カリーナは氷のような冷たい目で見下ろしていた。
「……役立たず」
その言葉には、どのような感情がこもっていたのだろうか。
あの時、助けてくれなかったことを未だに失望しているのか。
変わり果ててしまった今も、彼女は……。
「ほら、さっさと行くわよ! 今日も精霊様のためにボロボロになるまで働きなさい!」
バシン! と地面を鞭で叩き付けながら叫ぶカリーナ。
村人たちは、トーマスのようになるのはごめんだと、アセアセとしながら動き始める。
カリーナはチラリとトーマスのことを見ると、しかしすぐに興味が失せたようにその場から離れて行った。
うずくまる彼を、誰も助けようとはしない。
そんな余裕を、ほとんどの村人は持っていないからだ。
少しでも遅れれば、あの鞭に打たれることになるだろうし、これからの重労働を考えると少しでも体力の消耗は避けたかった。
だが、そんな中でも、彼を思いやってくれる者がいた。
「大丈夫?」
明るいオレンジの髪を短く切りそろえた美しい少女が、彼にそう声をかけたのであった。