知略を語るジュニアさま
天上界。そこはかつて精霊世界で最大の帝国──神界の中心となった世界だ。最盛期には領土の一辺が五千万由旬(約三億六千万キロ)、人口三兆四千億を抱える空前の大帝国であった。
その神界は、やがて天空界、天上界、天元界、神仙界と呼ばれる四つの世界に分裂した。それが今、四大洲と呼ばれる世界だ。この四つの世界は今でも同盟関係を保ち、その行政的な中心地を帝国時代の首都──水の都に置いたままとしている。
そのため今も天上界に住む精霊たちの気位は高く、今でも「栄光の時代よ再び」と思っている精霊も多い。
ただ、その当時の支配者である皇帝の末裔たちは、現在は出身地である天空界へ戻っているのだが……。
「ジュニア。ジュニアはおらんか?」
天上界を流れる大河──通天河の氾濫原の中に島のようにある丘。そこに立派な宮殿が建てられている。その建物の外周を巡るように作られた長い回廊。そこを軍服を着た厳つい顔の男が、肩を怒らせて歩いていた。
「おや、ゼカリア候。また王子をお探しですかな?」
前から歩いてきた学者風の男が、すれ違いざまに声をかけてくる。
「これは博士」
「もしかして武闘大会の予選負けを、お叱りなさるのかな?」
「おや、もう博士の耳にも入ってましたか。士官学校の卒業も迫っておるというのに、また初戦で不甲斐ない負け方をしおったようでなあ。まったく、あやつは……」
立ち止まったゼカリア候が、不機嫌な顔でぼやいた。
ゼカリア候は天上界の北東地方にある自治領を治める侯爵──地域領主の一人だ。
「誰にも向き不向きがありますからな。王子には……」
「何をおっしゃる。ゼカリア家は代々続く武術の名門一族だ。あやつは跡取りとして立派な武官となり、武王になってもらわねば困るのだ。それなのに、あやつには自覚がなさすぎる」
「それは厳しい注文ですな」
ゼカリア候の訴えに、博士が困った顔で苦笑する。
「その王子なら、先ほど庭園の休憩小屋で本を読んでましたぞ」
「本だと? 身体を鍛えることもせず、また本などにうつつを抜かすか!」
話を聞いたゼカリア候が、顔を真っ赤にして怒り出した。そのゼカリア候が、
「では博士。これで失礼する」
と断りを入れて、そのまま足早に回廊から出て庭園のある方へ歩いていく。
その背中を見送る博士が、
「やれやれ。ジュニア殿も難儀な王家に生まれたものだ」
と零した。
そのゼカリア候の探す王子──ジュニアは、博士が言ったように庭園にある花に囲まれた休憩小屋で読書を楽しんでいた。厳つい父親の血を引いたとは思えない、見るからに線の細い優男だ。
「ジュニアさま。また読書ですか? バレたら国王さまに怒られますよ」
この家に雇われた侍女が、通りすがりに声をかけてきた。ホウキとチリトリを持ってるところから、庭掃除の途中なのだろう。
「ああ、プリシラか。それでも本を読むと落ち着くからね。いいんだよ」
軽く顔を上げたジュニアが、侍女にそう答えた。そしてすぐ本に目を落として読書を続ける。
それを見ていた侍女──プリシラがジュニアに近づいていき、
「ジュニアさまって、本当にご本がお好きなんですね。あたしは文字が並んでるだけで、読むのがイヤになっちゃいますよ」
などと言いながら、本を覗き込んだ。
「ひょっとして神界終末戦争の伝記集ですか? 今、読まれてるのは、起死回生を狙ったフェンリル作戦のあたりですね」
「本が嫌いな割には、よく知ってるな」
「それはまあ、これでも一応は妙高学園で情報精霊の修行をした、ぐらいの学力はありますから」
「妙高学園の情報精霊? 天上界の政治家を何人も出したところじゃないか」
ジュニアが、驚いた顔でプリシラを見た。
天上界では一番の名門は湖南学園だ。だが、こと情報精霊となると首都──水の都に近い妙高学園が、天上界でもっとも難関になる。
「それが何で家でメイドなんかやってるんだ? まさか、どこかのスパイか?」
「あはは、ジュニアさま、面白〜い。スパイじゃないですよ」
大笑いするプリシラが手を上下に振りながら否定した。
「修行場を出て文官資格も取ったけど、官庁にも近衛軍の情報部隊にも採用されなかったんですよねぇ。それで急に目標がなくなって家でゴロゴロしてたら、親に『遊んでるならご奉公に行ってこい』って、ここに放り込まれて……」
「近衛士官学校に入れられなかったら、オレも妙高学園の情報精霊修行場を目指したかったんだ。そこを出て文官資格まで持ってるのにメイドとは……。とんだ能力のムダ遣いだな」
「そうなんですよ〜」
苦笑したプリシラが、そう答えながらジュニアに顔を近づけていく。そして、
「でも、メイドになって奉公すれば、玉の輿は狙えますよね?」
と言うと、ジュニアが目を丸くしてプリシラから距離を取る。
「オレに期待するなよ」
「あら、残念。でも、ジュニアさまはメイドたちに人気がありますからね。競争率がハンパじゃなくて……」
「ったく、迷惑な話だ……」
不愉快そうに零したジュニアが、座り直して読書に戻ろうとする。そこへ、
「ジュニア。ジュニアはおらぬか?」
博士に居場所を聞いたゼカリア候が、休憩小屋の中までやってきた。
「きさま。そこで何をやっておるか!」
「見てわかりませんか? 読書です」
顔を上げたジュニアが、悪怯れることなく父王に本を見せる。
「そんなことは、見りゃあわかる。オレは読書なんぞしてる暇があるなら、なぜ身体を鍛えないのかと聞いておるのだ」
「お言葉ですが父上。神界終末戦争で神界が妖魔連合に負けたのは、圧倒的な武力に慢心して知略を欠いたからです。魔界と妖精界には工業力はありますが、こと軍事力に関しては神界は妖魔連合の一〇倍もの兵や軍備がありました」
口答えするジュニアが、そう言って読みかけの本を広げて父に向ける。
「ですが、神界はそれを力押しで使うことしかせず、全体を見て……」
「きさまのくだらん御託なんぞ、聞いてはおらぬわ」
顔を真っ赤にして怒る父が、ジュニアの言葉をさえぎった。更に、
「そもそも神界が妖魔連合に負けたのは、知略の問題ではない。兵士の質の問題だ。妖魔界が鍛えられた兵士であったのとは対照的に、神界は徴兵で集めた烏合の衆だ。これでは一〇〇倍いても勝てるはずがない。だからこそ神界が分裂したのち、各界では徴兵をやめ、戦闘精霊を育てるようになったのではないか」
と言って、ジュニアの手から本を奪い取る。それをチラッと見て、
「ふん。こんな古い時代の物語から得た知識を偉そうに語りおって……。時代は常に変わっておるのだ。しかし、本質は何も変わっておらん。まずは資本である身体を鍛えねば何もならん。次に技術を持たねば使い物にならん。知略だ何だは、そのあとの話だ」
と小言を聞かせて本を投げ返した。
「文句を言いたかったら、まずは士官学校を士官として卒業しろ。それができたら、きさまが言いたいことは、いくらでも聞いてやる」
「横暴だ!」
「横暴なものか。知略が一番というなら、まずは士官になれ。きさまがどんなに知略が有効だと訴えても、小隊長にすらなれねば誰にも示せぬではないか」
正論だった。命令される立場でいたら、知略があっても絵に描いた餅だ。
そのまま、しばらく睨み合っていたゼカリア候の目が、横で見ているプリシラに向かう。
「おぬしはたしか内務大臣の孫の……」
「プリシラです。国王さま、掃除道具を持ったままで失礼します」
声をかけられたプリシラが、そう言ってゼカリア候に頭を下げた。
「庭掃除か?」
「すみません。途中でした。すぐ仕事に戻ります」
注意されたと思ったプリシラが、慌てて休憩小屋から出ていこうとする。
「ああ、よいよい。それよりも物は頼みだ」
「……はい?」
呼び止められたプリシラが、立ち止まって振り向く。
「こやつが城にいる間、身体を鍛えるように見張ってくれぬか」
「ええ〜。いったいどうやって?」
「そのホウキを振りまわして、追いかければいいだろ」
「えっと……。それはちょっと……」
と戸惑いつつも、プリシラはその様子を考えてしまった。
「まあ、一緒に汗を流してくれればよい。男の本能だ。女に尻をたたかれれば、ちょっとは身体を動かすだろう」
「はあ、わたしなんかが、いいのでしょうか?」
「構わん。任せるぞ」
それだけ言って、ゼカリア候が帰っていく。
「えっと……。ジュニアさま、どうしましょう?」
困ったプリシラが、ゼカリア候を見送りながらジュニアに尋ねた。それにジュニアが、
「プリシラもサボる口実ができて、よかったじゃないか。放っておけばいい」
と答えて、また本を読み始める。
「それをやっちゃうと、わたしが怒られるんですけど……」
プリシラが、どうしたものかと考えている。
だがジュニアはそれには答えず、黙々と読書を続けるのだった。