あした死ぬ猫
百戦錬磨の地域のボス猫が、死ぬ日を決めた話。
「あした。死のうか」
年老いた猫が、そう思った。
ガラス窓越しの光の下、茶色の大きなトラ猫はまどろんでいた。
真冬だが、その日は少しだけ暖かかった。
近所では並ぶもののない強い猫だった。
たくさんの雌猫は彼に恋をし沢山の雄猫が彼にケンカを売った。
メス猫に応えてやり、子供が出来た。
それは、たくさんの数だった。
雄猫のケンカを買った。
それは、もうたくさんの数だった。
そのほとんどに勝ってきた。
ほとんどというのは、最近勝てなくなってきたからだ。
弱いものイジメをするキジトラを、なんとか追い払えたのだけは運が良かった。
しかし、それ以降どうにも身体が思うように動かない。
メス猫との恋もなくなった。
どうやら、人に捕まって他へやられたり、子供を作れない身体になってしまったようだ。
耳に花びらのような切れ込みが、その証らしい。
もう、昔の自分の生きてきた時代とは違うのだろう。
自分も切れ込みの入った耳を振った。
オス猫も耳に切れ込みのあるものが増えていた。
不思議と争いが少なくなっている気がした。
という自分も、名を貰って人の家で暮らしているがな。
「ケン」
人が我を呼んだ。
微睡むままの空気が心地よいので、しっぽの先だけ振り返事をしてやる。
「ケン。お前は寝てばかりだねぇ」
猫とは、そういうものだ。
我のような歳になれば、なおさらな。
同居人のメグミが、我の顎下をくすぐる。
くすぐったいではないか。
眠いのに、まったく。
年老いた猫は喉をぐるぐると鳴らした。
ぐるぐるを聞くと、メグミはお腹も優しく撫でる。
傷だらけの身体。この間のケンカの怪我も酷かった。
もっと、がっしりしていた印象だったけれど、触ると痩せて骨ばってきている。
思ったよりも肉がないなぁ。
もう、歳なのかしら。
メグミは考えると悲しくなった。
拾ったときには既に成猫だった。
傷だらけの体で、威嚇をしながらも動けないでいた。
病院で診てもらい、「この辺りのボス猫だろうね」と先生が言っていた。
野良猫の寿命は4年くらいらしい。
この猫はたぶん、5歳以上にはなっている。
外に戻したら、すぐ死んでしまうかもしれない。
でも家に連れて帰って、飼えるのかしら?
私の部屋を我が家と思ってくれるかしら。
「去勢もしましたので、交通事故などの恐れはありますが、外に出るのを無理に止めなくても良いと思いますよ」
今では、きっと違う言葉が返ってきたであろう。
10年も前の事だった。
猫の室内飼いが徹底されていなくて、道端で猫に餌をやる人も多くいた。
アパートの一階だったこともあり、ベランダから送り出した後、キッチンの窓辺で鳴くとメグミが家に戻す生活になった。
それが、ここしばらく外に出ていない。
外に出ないと交通事故の心配がなくなるが、そこまで体力が落ちてしまったのかと心配になる。
もう、16歳くらいになるのね。
「私が飼い主で、良かったのかなぁ」
メグミのつぶやきに、ケンは薄目を開けた。
ケンは余り鳴かない猫だった。
ただ、ぽすんと、メグミの頬にふさふさのしっぽを当てた。
その夜の事だった。
ケンはふと目覚めた。
腹に力を入れて立ち上がった。
ひゅ~。
口から吐く息が青く光った。
そうか。
ケンは悟った。
メグミの寝ているベットまで行き、枕元に飛び乗った。
「メグミ」
「ん~。何?えっ。ケン!」
「聞け。お前が一緒で、良かったぞ」
「え、何言っている・・・の。け、ん」
無理矢に眠りに引き込まれたように、言葉の最後がかすれた。
覗き込んだメグミの寝顔には、一筋の涙が流れていた。
泣くな。
メグミ。
別れは、必ずあるのだ。
ふらつく足元を自分で叱りつけながら、
ケンは自分の寝床の座布団に着いた。
ばさりと崩れ落ちた。
ここからは、メグミの顔が見えない。
でも、さっき見れた。
メグミの問いにも答えられたぞ。
これで、良い。
ケンは目を瞑った。
メグミの家から、白い筋が出た。
白く光る猫は、家の周りを周った。
塀の影に、飢えた若い三毛猫が居た。
自分のずーと続いた血筋になるのか。
「おや おまえ 子を 孕んでいるのか」
「はい。そうでございます」
若い三毛猫は、光るボス猫に怯えて答えた。
「そうか。苦があったら、あそこの部屋の窓辺で鳴け。人の女が悪いようにはせんだろう」
「人の女とは?」
三毛猫が聞くが、白く光る猫は、そのまま空に駆け上がった。
ああ、主様が往生なさった。夜空になりなさった。
三毛猫が頭を下げた。
翌朝、その部屋から悲鳴のような鳴き声が獣の耳を震わせた。
それから数か月の間、夜に周辺の猫の耳は部屋の女の泣き声を聞いていた。
春になった頃、一匹の子猫が母猫に言われた通りに、あるアパートの窓辺で鳴いた。
独りで鳴いて、鳴き声が本当に悲しくなって泣き声になり、しゃがれ声になってしまった頃。
「お前、どうしたの?」
背後から人間の女が声をかけて、そっと両手で包み込んだ。
怯えるよりも子猫は温かさに安心して、ぐるぐると喉を鳴らした。
「お前、誰かに言われてきたの?」
答える者はないまま、女は家に入っていった。
それ以降、人間の女は泣くことがなくなり、周辺の猫もほっと安心をした。
その時、夜空で一つ星が瞬いたが、誰も気付く者はいなかった。
寂しくなかったかって?
ケンがこたえた。
そりゃあ、優しく呼ぶ声や、撫でる手のひらが、とても好きだった。
しかし、死は当たり前にある。
居心地のいい場所があるのなら、次に渡すのが筋じゃないか?
メグミよ。すべての猫は我なのだ。猫の全てに我がいる。
だから、悲しんでいい。我も悲しい。でも、悲しみ過ぎて今を怠るな。
ケンは、そこにメグミが居るかのように、ぽすんと、しっぽを置いた。