第八十三話 シリルと聖女
林檎の家の夜。
喉の渇きを覚えて目が覚めたシリルは、水をもらいにキッチンへと向かった。
他の人の家で好き勝手するのは少し気が引けるが、この辺りは自由にしてもいいとシスター・フィーネからのお墨付きももらっている。
そしてふと、もう二時近い夜更けにも関わらず、食堂に小さな明かりが灯っていることに気が付いた。
(ど、泥棒ですかね……?)
想像力をたくましくさせたシリルは、抜き足、差し足、と心で唱えながらゆっくりと食堂に向かう。
もし本当に賊がいるのであればシリルさんパンチが火を吹くぜ、とシリルは自分を奮い立たせた。
実際、格闘センスはともかく、今のシリルの身体強化であれば素手であっても大抵の男は叩きのめせる。それに、なにか騒ぎでも起きればヘンリーがすっ飛んできてくれるだろうという目論見もあった。
そうして、ゆっくりと食堂の入り口から中の様子を窺い、
「シリルさん。隠れてないで、入って来てはどうですか?」
「あ、はい」
果たして中にいたのは、救済の聖女ユースティティアであった。
まあ、こんなもんですよねー、とヘンテコな想像をしていたことを反省しながら、シリルは食堂に入る。
食堂にはユースティティア一人。彼女の前にはワインの瓶とグラス、つまみと思われるチーズ。
「お酒、呑まれるんですか?」
「割と好きですよ。イメージじゃない、って言われることもありますけどね。ヘンリーともよく一緒に呑んでました」
「へえ」
むう、と、少しだけ嫌な気分になった自分をシリルはとりあえず捻じ伏せた。イイ女は嫉妬とかしないのだ。万が一ヘンリーに知られたら『嫉妬しっとーるの?』とかなんとかまたぞろ寒いダジャレが飛んでくる。それは看過できない。
「……シリルさん。お酒、ご一緒しません? 明日も特に予定はないのでしょう?」
「私はそうですけど、ユースティティアさんは確かフェリスさんとの修行があるんじゃ」
「昼からの予定ですし。それに実は、ニンゲルの手の魔導の中には、自分限定ですが酒毒を癒やす魔導があるんですよ」
シリルは二日酔いになるほど呑んだことはないが、それは便利そうだと思った。
「ただ、馬鹿みたいな話ですけど、これを当てに呑みすぎて死んでしまう人が昔結構な人数出たせいで、教えてもらうためのハードルがちょっと高いんですけどね」
ふふ、とアルコールのせいか少し顔を赤らめて笑うユースティティアは、同じ女のシリルの目から見ても凄まじい美人さんだった。これで英雄の肩書まで持つのだから、天は二物も三物も与えるものだなあ、と単純に感心する。
「それで、どうしますか? 一人酒は寂しいので、受けていただけると嬉しいのですけど」
「そういえばなんで一人で呑んでるんです? ヘンリーさんとかアゲハさんは」
「夕方、模擬戦二十戦くらいやってダブルノックアウトしてたでしょう? 疲れたって言ってもう寝てます」
そういえばそうだった。最終的にヘンリーは八勝十二敗で、負け越して悔しがっていた。
「えーと。まあ、そういうことなら、ご相伴に預かります」
正直、お酒はそれほど好みではないシリルではあるが、ユースティティアとは少し話す必要があると思っていたので頷いた。
「はい、どうぞどうぞ。隣に」
と、椅子を勧められて、シリルはちょこんと座る。
「ちょっと待っててくださいね。グラスの追加持ってきますから」
ふんふーん、と鼻歌を歌いながらユースティティアはキッチンに向かい、グラスともう一本のワイン瓶を手に戻ってきた。
「……あの、私、そんなにお酒は強くないんですが」
「あ、大丈夫です。私は呑めますので」
……見ると、一本目も既に残り二割程しか残っていない。別にシリルが参加したからではなく、普通に自分のおかわり用に持ってきたようだ。
「はい、それじゃあどうぞ」
グラスを渡され、ユースティティアが酌をしてくれた。
真っ赤なワインから、ほのかに甘い香りが漂ってくる。
「あ、ありがとうございます、ユースティティアさん」
「ユーで結構ですよ。呼びにくいでしょう?」
「じゃあ、ユーさんって呼びますね」
ええ、とユースティティアは頷いた。
「それじゃ、乾杯」
「はい、乾杯です」
チン、とグラスを重ねてから、シリルはワイングラスに口をつけた。
途端に、口の中に幸福が溢れる。成人してからお酒を呑む機会はたまにあったが、今日のこれは今までで一番上等な代物だと、あまり酒の味には詳しくないシリルでもわかった。
「……ぉぃしぃですね」
自然、少し言語が怪しくなる。
「ええ。これ、私が好きな銘柄なんですよ。気に入ってもらえて良かったです」
「そのー、これだけのものになると、結構お高いのでは」
「はい、それなりには。でも……その、あまり嫌味に取らないで欲しいのですが、私はお金については余っていますから。寄付等もしていますが、やはり自分でも使わないと」
「ほへー、羨ましいですねえ」
未だ装備を揃えるのに四苦八苦しているシリルだが、いつかはそういう台詞を言ってみたいものだ。そういえば、少し前にヘンリーも戦闘服の修繕のために二十万ゼニスをぽんっと払っていた。金銭感覚の違いを如実に感じる。
つまみのチーズもまた美味しいもので、あまり呑む気はなかったのだがすいすいワインが進む。
「それで」
「はい?」
「フローティアでの、ヘンリーの様子はどうでしょうか?」
この二人の間で共通の話題と言うと、冒険のことか、そうでなくば彼のことだ。大体予想できていたので、シリルはすぐに返答する。
「そですねー。私はヘンリーさんがフローティアに来た時からの付き合いですけど、色々教えてもらって感謝していますよ」
「そうなんですか」
「はいっ、この前もですねー」
フローティアでのヘンリーの様子を、シリルは包み隠さず話す。冒険のこと、日常のこと。話の種は尽きない。
それをいちいち頷きながらユースティティアは聞く。
そうして、シリルの語りが一つ落ち着いたところで、ユースティティアはふっと微笑んだ。
「……シリルさん、ありがとうございますね」
「はい? 突然どうしました、ユーさん」
「いえ、ヘンリーのこと。あいつ、戦う理由を外に求めるタイプで。後方に下がったら、死んだ目で日銭を稼ぐだけの生活にならないかなあ、ってちょっと心配だったんです」
家族や故郷の仲間の無念を晴らすため戦い続けて。それが終わると、ヘンリーは驚くほど腑抜けになった……といったことを、ユースティティアは話す。
「あー、話には聞いていましたが、そんなヒドかったんですか、ヘンリーさん」
「私としては、張りつめたヘンリーより、あの素の方が良いと思いますけどね」
「うーん、張りつめた、ヘンリーさん……?」
冒険の時はちゃんと警戒とかしているが、そういうことではないのだろう。
シリルは想像してみようとする。できなかった、三秒で諦めた。
「……うーん、まったく想像できませんねえ」
「まあ、普段はそこまででもなかったですけど。でも、会った頃と、前線にジルベルトが来たって知った時のあいつは、ちょっと別人でしたね」
ユースティティアは笑う。
「気になりますねー。ユーさん。ユーさんもヘンリーさんの昔話を聞かせてくださいよ。さっきは私が話したんですから、おあいこってことで」
「はい、勿論いいですよ。そうですね、なにから話しましょうか……」
そうして、ユースティティアの話が始まる。
本当に仲が良かったことがわかる、そんな話だった。随分と距離も近かったらしく、宿が隣同士の部屋だったから、毎晩壁越しに話していたらしい。
そんな話を聞いて。ついつい呑みすぎてしまっていたこともあり、ふとシリルは口をついた。
「その、ユーさんは、ヘンリーさんのこと、好きなんです?」
言ってからシリルはしまったと思ったが、いいやこのままいっちゃえ、と言葉を取りやめることはしない。本当は、もうちょっとさり気なく聞き出す予定だったのだが、予定は所詮予定である。
ユースティティアは、少しポカンとしてから、クスリと笑った。
「勿論、仲間としての親愛は感じていますけれど。シリルさんの言う好きはそちらではないですよね?」
こくり、と頷く。
ユースティティアは、うーん、と少し頭を悩ませた。
「そうですねぇ。小さな頃は普通にヘンリーに恋していた気もしますが……今はどうなんでしょうか」
「どうなんでしょうか、って」
そんなこと、シリルに聞かれても困る。
「……聞いているかも知れませんが、私、十二でリーガレオに行って。周囲が見えない子供だった私を、ヘンリーが色々守ってくれたんです。それでいつの間にか好きになって、告白して……今思えば子供を保護する延長だったんでしょうが、ヘンリーも受けてくれて」
「はい」
「でも、いつからか守ってもらうより、対等になりたいって思っちゃったんですよね。それで、私も一端になってからは、どちらかというと相棒感が強くなった感じです。男として、という気は今はあんまりない、って思ってます」
……単なる男女の関係より、よっぽど強敵なのでは? とシリルは思った。
「まあ、向こうから告白でもしてきたら、受けるに吝かではないですけれどね!」
「そ、そうなんですかー。ヘンリーさん、意外とモテるんですねえ」
「いえ、あれはモテてませんよ? リーガレオの女冒険者はみんな、仲間としては頼りになるけど異性としては別に、って言ってましたし」
バッサリだった。
「……と、今まで思ってたんですけどね。ねえ、シリルさん?」
「ひゃい!?」
意味深に言われ、声がひっくり返る。……いや、シリルも自分でわかっている。いくらなんでもあからさますぎた。
「もう、隠すことないじゃないですかぁ。こーんな話を振ってきて、まさかバレないとでも思っていました?」
「い、いや、そのー、ですね」
面白いものを見つけた顔になって、一気に口調が砕けたユースティティアに、シリルは対応できない。
ぐい、とワインを呷って、ユースティティアは猫撫で声で追撃してきた。
「大丈夫ですよぉ。ヘンリーもあれ、シリルさんのこと憎からず思ってますから。ていうか、割と意識してるの、私から見るとバレッバレ」
「マジですか」
「マジです」
ヘンリーはそういう素振りを一切見せていない、とシリルは思っていたが、付き合いの長いユースティティアから見ればそうなのだろうか。
「ほら、あいつちょいとヘタレてるとこがあるから、是非シリルさんから押せ押せで」
「で、でも。私にも色々と事情があって、迂闊にそういうことは……ヘンリーさんに迷惑かかりますし」
「かけろ。私が許す」
許されてしまった。
「ふっふーん、まだ夜は始まったばかり。さあシリルさん、今夜は大いに語り合いましょうや」
「も、もう随分な時間なんですが!」
「よいではないかよいではないか」
あ、この人完全に酔っ払ってる。
ていうか、私もこれでワイン何杯目だっけ?
……そこから先のことを、シリルはあんまり覚えていない。
今回のお話は三人称でお届け。いや、シリルとユーに話をさせたいけど、ヘンリーいると絶対こういう話にはならないので。
あまり人称の混在はよくないですが、まあ書かないといけない話なので……




