第三百十六話 もしもの話
「ん……」
まぶたに差し込む光に、僕はベッドの中で身を捩った。
あれ、とふと違和感を覚えて右隣をまさぐる。普段は隣にいるぬくもりがない……と、思い至った辺りで、そういえば昨日は久方ぶりに熊の酒樽亭に泊まったことを思い出した。
体の隅々にまで意識を巡らせ、今日も不調な箇所がないことを確認。
布団の暖かさは恋しいが、むっ! と気合を入れ体を起こした。
「ふあ……」
あくびを噛み殺しながら、部屋を出て階下へ。
まだ早朝だというのに、ぱたぱたと数人が忙しく駆け回っているのを気配で察した。
……いかんな、もう全員起きているとは。少し寝坊したか。
「おはようございまーす」
「あ、ヘンリーさん。おはようございます!」
朝から食堂の清掃に精を出しているのはラナちゃんである。
マジでフルタイムで働いてんのな。休めばいいのに……というのは散々他のみんなからも忠告されているから、今更僕が言っても聞かないだろうけど。
「……どうも、ヘンリーさん」
「ノルドさんも、おはようございます。昨日はろくに挨拶もできずにすみません」
「いえ」
この宿の店主にして、シェフであるノルドさんは、小さく首を振った。
この街に滞在していた間は色んな意味で世話になっていたので早めにご挨拶したいところだったが、夜は酒場としてのかきいれ時だ。邪魔をするのもと思い、面と向かって話をするのが遅れてしまった。
「こちらこそ。ラナを連れてきていただきありがとうございます」
「いやー、当のラナちゃんの発明で、この街までは一瞬でしたし」
少なくとも数日はかかる日程を、秒単位に短縮だ。腕利きの魔導士が複数必要とはいっても、ちょっとおかしなことをやっていると改めて思う。
「あんた。まーた無愛想なんだから! ほら、もうちょっと愛想よくしな!」
奥から出てきて、ぱんっ! と、ノルドさんの背中を叩いたのは、奥さんのリンダさん。相変わらず仲がいい。
確か僕が丁度この街に来た頃に生まれた息子さんがいたはずだが、そっちはまだおねむかね。
「ヘンリーさん、おはよう。モーニングはもう少しかかるけど、どうする?」
「ちょいとランニングしてきます。体動かしとかないとなまりますし」
特別なにかなければ、毎日シリルを起こさないようにベッドを抜け出てリースヴィントを二、三周している。
「へー、お偉いさんになったって聞いたけど、精が出るね」
「……いや、その地位を維持するにも、動かないといけないので」
シリルや僕への支持は、前線への支援攻撃によるところも大きい。特に兵士や冒険者とかの、前を張る人たちからは。
「あはは、相変わらずですね。今日のモーニングはシチューを仕込んでいるようなので、お腹空かせてきてください」
「お、そいつは張り合いが出るな。期待してますよ」
ラナちゃんの言葉にやる気が出てきた。ここのシチューは大好物なのである。
「……はい」
僕の期待の言葉に、言葉少なにノルドさんは応え、
「ほらっ、愛想よくって、ついさっき言ったばかりだろ!」
すぐさま奥さんに突っ込まれるのだった。
朝の、どこか張り詰めたような静謐な空気を切り裂くようにして、とりあえずフローティア中を走り回った。
この街にいたのは一年ってところだが、それでも懐かしい建物を見かけると自然と笑みが出てくる。
あっちはどうだっただろう、こっちも見ておくか、みたいな感じでついついランニングが長引いてしまい、帰ってくる頃には僕は汗だくになっていた。
「ただいまー」
モーニングを摂っている客で賑わっている熊の酒樽亭に入ると、ぱたぱたとラナちゃんが来てくれた。
「おかえりなさい。……って、ヘンリーさん、すごい汗ですよ」
「ああ。ちょっと裏で流してくるね」
「タオル持っていきますね」
ありがとー、と返して、僕は宿の裏の庭に向かう。
両手足に付けている重しの魔導具を外して上を脱いで、
「《水》+《水》」
魔導で生み出した水を頭から引っ被った。
それを二度、三度と繰り返すと、火照った体がいい具合に冷えてくる。
「ヘンリーさん、どうぞ」
「ありがと」
ラナちゃんが持ってきてくれたタオルで、水滴を拭う。なお、ズボンの方はもう乾いている。僕の戦闘服は速乾性が高いのだ。防御力だけでなく、冒険中の快適さも追求した一品である。……最近外に出ることめっきり減ったけど。
「モーニングも用意しときましたよ。いつも通りパン大盛りの、季節の果物のジュース付けて」
「超ありがたい」
僕がこの宿に滞在していた頃の定番である。朝走って汗を流した後は、モーニングにサイドメニューのジュースを付けていた。
どうぞー、と先導するラナちゃんに付いていき、僕のメニューが用意された席へ。
「じゃあ、ごゆっくり」
「うん。……いただきます」
まずはジュースのグラスに手を伸ばす。
梨の果汁を絞ったジュースは、僕には分からないがなにかを添加しているのか、すこぶる飲みやすく味もいい。キンッキンに冷えた液体は、水分を失った体を存分に潤してくれた。
「~~~っ、ふ、ううう」
半分ほど飲み干して、大きく息をつく。運動した後の最初の一杯はいつでも格別だ。
「さて、と」
匙を手に、本日のモーニングのメインであるシチューに向かう。
野菜がたっぷりで、優しげな匂いが鼻をくすぐった。
期待を胸に一口口に運ぶと、思わずにやけてしまいそうになる。
リースヴィントやリーガレオでは、戦う連中が多いので強い塩気が好まれるが、こっちはどちらかというと素材の味を生かした感じが多い。なんだかんだ、物流が回復したとはいえ食材の質はこっちがまだだいぶ上だし、当たり前かもしれない。
懐かしいフローティア風の味付けに、自然とパンに手が伸びた。
「ん、ん」
シチュー、パン、シチュー、パン、付け合わせのサラダ、パン、シチュー……と、僕は我ながら旺盛な食欲を発揮し、朝食を進めていく。
「はい、ヘンリーさん。おかわりね」
……そんな大食漢である僕のことはこの宿の人はみんな承知で。
パンかごとシチュー皿が空になるのを見計らって、リンダさんがおかわりを持ってきてくれた。
「すんません」
「いいよ。旦那の料理をそんなに美味そうに食べてくれるんだ。あたしとしても冥利に尽きるさ。ただし」
「はい」
懐から硬貨を取り出してリンダさんに渡す。
……いや、追加のパンが一個二個ならサービスしてくれるけど、僕の場合は追加料金を払わないとこっちが心苦しいくらい食べるし。
「毎度。そろそろ朝のお客さんもはけてきたし、おかわりもう二回くらいはいいよ」
「ありがとうございますっ」
そのお言葉に甘えることにして。
僕はガツガツと食べ続けるのだった。
「はい、ヘンリーさん。食後の珈琲」
「ありがとう」
結局、たくさん食べたおかげで僕がモーニングの最後の客となった。
ラナちゃんが持ってきてくれた珈琲を一口啜る。
「でも、相変わらずよく食べますね」
「冒険者は半分引退したけど、体が資本なのは変わらないから」
負荷の小さい移動がなくなって投げばっかりになったおかげで、むしろ現役時より体を酷使しているまである。精神的にゃ昔よりだいぶ楽だが。
「……確か、フローティアに来た頃も、半分引退気分とか言ってませんでしたっけ」
「い、言ったかなあ」
「言ってました。ちゃんと覚えてます」
く、くそう。記憶力に関してこの子に逆らうのは無理だ。
「で、シリルさんに絆されて現役復帰して、今じゃお国を復興ですよね。正直、どこかのおとぎ話みたいです」
「……そうだね」
君が言うことでは断じてないと思うけどな!
内心突っ込みたい気持ちを抑えながら、珈琲を飲む。
「ご馳走様」
「お粗末様です。この後は領主館ですか?」
「んにゃ、昼まではフリー」
次の予定は、シリルと一緒に領主様方とお昼の会食である。『今晩は盛り上がりますよー!』と張り切っていたシリルのこと。どうせ寝坊するからとこのスケジュールである。身だしなみを整える必要があるから少し早めに行くが、まだ余裕はある。
「じゃあ、どうするんですか? 別にここにいてくれても構いませんけど」
「そうだな……」
ふむ、と考えてみる。
折角の休暇。ここでのんびりするのもいいし、フローティアを散歩するのもいい。でも、いや、そうだな。
「ちょっくらグランディス教会に顔出してくる」
「? はあ。なんでですか?」
「たまにはあそこの空気が懐かしくてさ」
冒険に出る前の高揚に包まれた教会の雰囲気は結構好きだ。久し振りに一冒険者気分で行ってみたい。知り合いがいたら挨拶したいし。
……騒ぎになるかもなので、ちょいと変装はしていくが。
「へえー。私はあまり縁のない場所ですけど」
「ん? 見学にでも付いてくる?」
「いえ、お仕事があるので。じゃ、ヘンリーさん、また今度」
と、僕の相手は休憩も兼ねていたのか、ラナちゃんは仕事に戻る。
それを感心しながら見送り、僕は立ち上がった。
……さて、そんなに時間があるわけじゃないが、薬草を採取したりする程度のクエストなら受けてみてもいいかもな。全力で走れば間に合うだろうし。
そんな風に算段を立てていると、ふと。
もし、フローティアに初めてきたあの日。
シリルとジェンドに出会わなければ、もしかしたらこんな感じで毎日を過ごしていたのかもしれない、と思い当たった。
ユーのやつは、目標がなくなった僕は『死んだ目で日銭を稼ぐだけの毎日を送っていただろう』、とかド失礼なことをホザいていたが、勿論そんなだらけた人間ではない僕は、今日みたいな感じで毎日を充実して過ごしていたに違いない。
今の生活に文句などあるわけもないが、そんな未来もそれはそれで楽しかったかもしれないな、と。
少しだけ思った。
「あ、ヘンリーさん!」
……ちょっくら教会を覗いたが、いい感じのクエストもなく、結局何人かの知り合いとダベっただけで領主館に戻ることになった。
で、それは丁度シリルが昨晩女子会をしたと思われる友達の皆さんのお見送りをするところで。
速攻で僕を見つけると、シリルはブンブンと手を大きく振り、大声でこっちに呼びかけた。
「……はあ」
シリルの友達たちが色めき立っている。
シリルの同年代であればもう適齢期ではあるだろうが、都市部ではやや結婚には早い年でもある。どうやら僕たちに興味しんしんの様子だ。
なんか晒し者にされる予感がして、回れ右をしそうになったが、その前にダダダー、とシリルがこっちに駆け寄ってきた。
「おかえりなさい。熊の酒樽亭、どうでした」
「相変わらずいい宿だったよ。……って、おい、くっつくな」
「なにゆえ!?」
そりゃお前の友達の視線がバシバシぶつかってるからだよっ! リースヴィントの冷やかしはようやく収まってきたが、こっちは初見でめっちゃ見られてる!
しかし、はあ。
「? どうしました」
「んにゃ」
さっき、こいつと出会わなかった『もしも』を夢想していたが。
……やっぱ、ないな。そりゃその未来も悪くなかろうが、今と比べるべくもない。
きょとんとしてこっちを見るシリルにふと少し感極まって、もうどうにでもなれ、と抱き寄せる。
『キャー!』
……とっくに成人しているだろうに、黄色い悲鳴が上がり。
「ふふー」
それになぜかご満悦のシリルの頭を、僕はぐりぐり撫でるのだった。




