第百七十話 温泉 その四
フロントで無事鍵を借りて。
僕たちは旅館『翠泉館』のもう一つの名物であるという、夫婦湯に足を踏み入れた。
「へえ、当たり前だけど、大浴場の方より狭いな」
脱衣所は狭く、二人分の籠があるのみ。その向こうにある湯殿も、最初に入った露天風呂とは規模は全然違う。
しかし、趣はあるし、二人きりで入るのであれば十分な広さだ。
この風呂の貸切時間は一時間。すぱっと入ろうと、僕は浴衣の帯に手をかけ、
「~~っ、ヘンリーさん、ちょ、ちょっと待って下さい」
「……お前、ここまで来て」
ふい、と体ごとシリルが視線を背ける。自分から誘っといて、ここで尻込みするか。
「うるさいですよ! さっ、先に入ってください。私は後から行きます」
「いいけどな」
やれやれ、と呆れながらも、僕はスパッと衣服を脱ぎ、脱衣所に備えられていたタオル片手に風呂に向かう。
食事前に大浴場の方に入ったから別に汚れてはいないと思うが、リシュウの温泉の作法通り……入る前に桶で湯を掬って、体を流す。
ゆっくりと湯船に身を沈めて、心も体も温泉に委ねると……こう、天国に来たような気分だ。
今日二回目だが、心地良さは変わらない。
本来であれば、このままじっくりと風呂を純粋に楽しむのだろうが……生憎と、今回はそれよりも優先するべきことがある。
パサッ、パサッ、と。衣擦れの音。首をそちらに向けたい気持ちをぐっと抑え、泰然と構える。
ややあって、とて、とて、と足音。
ようやく来たか、と振り向き、
「よう、シリル」
「は……はいっ!」
声をかけてみると、ぴっちりとタオルを体に巻いたシリルが、ひっくり返ったような声で返事をした。
「……あー、その、だな。タオル巻いたまま湯に入るのは駄目だぞ」
「わ、わかっています。ちょ、ちょっとあっち向いててください」
あっち! とシリルは外の方を向ける。
……暗くなったとはいえ、月明かりが明るくて、対面の山がよく見える。
月と星、夜の闇に薄っすらと見える山々。
絶景だ。絶景ではあるのだが……僕としては先程のシリルのタオル姿が目に焼き付いている。
普段は出さない肩や裾から伸びた足が白く。
……うむ、実にいい感じである。
「うう、本当にこっち見てませんよね?」
「見てないぞ。流石に真後ろは見えない」
でも、これだけ近けりゃ、なにをしているのかは手に取るようにわかる。気配とかで
シリルが体を覆っていたタオルを外し、丁寧に折りたたむ。桶で体を流す。
僕の視界に入らないよう、慎重に足から温泉に入り……とぷん、と浸かった。
「……もういいか?」
「あ、あんまりよくありませんが、どうぞ」
じゃあ遠慮なく。
「………………」
「あー」
この短時間でのぼせた訳でもないだろうに、シリルの顔が真っ赤だ。
湯が白く濁っているから、肝心なところは見えないし、シルエットくらいしかわからない。
しかし、それとこれとは別ということだろう。
天を見上げ、ふう、と大きく息をつく。温泉から立ち上る湯気が宙に溶けていく様をしばらく観察して、気を落ち着かせ。
「シリルー」
「……は、はい」
「まあ、そんな緊張すんな。落ち着け、落ち着け」
見られるのが恥ずかしいのだろうから、視線は上に固定したままで。
ことさらに優しく声をかけ、ちょいちょい、と手招きする。
少し悩む気配があったが、そっとシリルは近寄ってきた。
すう、はあ、とシリルが深呼吸をする。
「……ったく。そこまで嫌なんだったら、僕も無理強いはしなかったのに」
「べ、別に嫌というわけでは……本当、顔から火が出るくらい恥ずかしいだけです」
そうか、嫌ではないのか。
それに少し安心して、僕は重ねて尋ねる。
「なら、なんでここに誘ってくれたんだ?」
「う、それは……」
むう、と少し口籠り、シリルは話し始める。
「ヘンリーさんがこういうのやりたそうだったので。私も、少しは喜んでもらいたかったんですよ。普段、割と我儘聞いてもらっている自覚ありますし」
「お前くらいの我儘なんて、可愛いもんだけどな」
僕は嘆息して、シリルの頭を撫でた。ぐりぐり。
「むう、なんですか。子供扱いしないでください」
「もう子供扱いしているつもりはないんだけどなあ」
「だったら尚更です。乙女の髪をそんなに雑に触らない!」
へーい、と僕は手を離す。
少しシリルがいつもの感じになってきたので、ゆっくりと視線を元に戻す。
横目で見ると、シリルがぐしぐしと髪を整え直していた。
……む、湯に浸かってない肩とうなじが、シリルなのに色っぽい。
「もう、じろじろ見ないでくださーい。温泉に入っているんだったら、温泉に集中するべきだと思いまーす」
「わかったわかった」
まあ、気にならないと言えば勿論嘘だが。これ幸いとねっとりじっくり観察に走るほど、僕も恥を知らないわけではない。
それに、こうして一緒に風呂に入るだけで、なんというか、まあ……非常に楽しいので、これ以上求めるのは野暮というものだろう。夫婦湯の鍵を借りる時に仲居さんに『中でおっぱじめないでください(意訳)』と注意されたし。
「しかしまあ、お前もよくわからんな。一緒に風呂入るのがそんなに恥ずかしいか? あれの時もまだ慣れてないけど、ここまでじゃないだろ」
「ああいう時と普段じゃ心構えが違うんですよ!」
それは付き合った当初、『野営の時は隣で寝てるじゃないですかー』と同衾を誘ってきたお前にも言いたいが。
「はいはい、わかったよ。……じゃ、ちょっと話題変えるか」
ぽつ、ぽつ、と世間話をする。
いつもの、何の気もない会話。しかし、同じ湯に浸かりながらというシチュエーションだからか、妙に楽しい。
……いや、別に性的な意味ではなく。単に、新鮮な感覚だという意味で。
「それで、明日はどうすっか」
「そうですねえ。私はリシュウの市場を歩いてみたいです。ティオちゃんのおうちの商品は見たことありますけど、本場のこっちだと他にも珍しいもの売ってそうですし」
「んー、そうだな。悪くない。僕もちょっと欲しいのあるし」
お、と。シリルが声を上げる。
「へえー、珍しいですね、ヘンリーさんが自分の買い物するって。ヘンリーさんの買い物っていうと、冒険に必要な物以外は、食べ物や飲み物くらいなのに」
「ん~、まあな。別にそういう主義ってわけじゃないが、宿暮らしだとあまり物増やせないから」
「ああ、そういえば言っていましたね。……そうすると、私も服とか、たくさんは持っていけませんねえ」
シリルが嘆く。浪費家というほどではないが、こいつは結構色々な服飾品を取り揃えているのだ。私服の組み合わせも上手……なのだと思う。僕はファッションセンスなんてないので、確信はできないが。
「シリル、お前ティオの鞄のこと忘れてんだろ」
「えーと、忘れているわけではないんですが。冒険に不要なものを入れるのっていいのかなあ、って思って」
「いいんじゃね。ティオもあいつ、釣り道具とか入れてるぞ」
何度か一緒に釣りに行った時、僕の分の釣り道具も入れてくれたのだ。
「……じゃあ、頼んでみます」
「おう」
話しているうちに、シリルもだいぶリラックスしたようだ。
……もうそろそろいいだろう、と。頃合いを見計らって、肩を抱き寄せた。
「あ」
風呂に浸かって熱くなった体。柔らかい感触が当たって、なんともむず痒かった。
「……あの、一声くらいかけてください」
「はいはい、悪かった悪かった。……もうちょいこのままな」
「わかりましたよーだ」
口だけは悪態をついてるが、シリルも安心したようにこっちに体重を預けている。
……異国の地の、小さな温泉での、穏やかな時間。
この日のことは、僕はきっと忘れないだろう。……うん。
翌朝。
「おはようございます、二人とも」
「おう、おはよう、シリル。ヘンリー」
「おはようさん」
この旅館は、朝食は一階に二つある大広間で提供される。
宿泊している部屋ごとに割り振られた席に向かうと、先に起きていたジェンドとフェリスを発見。挨拶をして、僕たちは自分たちの席に座った。
「おはよう。……シリル、まだ眠そうだね」
「うー、ちょっと昨日は遅くって」
瞼をこすっているシリルに、フェリスが声をかける。
「そんなに遅くまで、ねえ」
「な、なんだよ、フェリス」
意味深に視線を向けられ、僕は動揺を隠すように虚勢を張って問い返す。
「いや別に。揶揄するつもりなんてないさ」
「……していないつもりなのか、それ」
「はてさて、なんのことかわからないなあ」
くっくっく、と意地悪くフェリスが笑う。
……ええい、似合わないからかい方をしてきやがって。
ふん、と鼻を鳴らして、僕は朝食に目を向ける。
「わあ、朝ごはんも美味しそうですねえ」
シリルが目を輝かせる。
ふむ、朝は川魚の焼き物がメインか。それに、サイドに野菜のピクルスや和え物、白いぷるぷるした、えーと、豆腐? とかが控えている。
ライスはセルフサービスでおかわり自由。
それと……食卓にはあまり馴染みのない、殻の付いたままの卵が何個も盛られた籠がテーブルの中央に。いくらでもどうぞってことだろうが……そういえば、リシュウは卵を生食するんだったか。
卵の側には、慣れない大陸の人向けに説明書きのメモもある。
……醤油を垂らして混ぜた卵を、ライスにぶっかけてかきこむべし、らしい。
「えーと、卵を生でですか……ちょっと、シリルさんはパスで」
「まあ、無理なやつは無理だよな、これは」
まあ、別に無理して食べることもなかろう。僕は試してみるつもりだけど。
とりあえず手を合わせて、食事を始める。
「そういえば、ジェンドとフェリスは今日どうするんだ? 僕たちは、カイセイの市場に買い物にでも行こうかなって思ってるんだけど」
「ああ。この辺りの山は、色々見所があるらしいからな。色々回ってみるつもりだ。休憩所とか食事処とかもあるらしいぞ」
二人と予定を話しながら食べていく。
……うむ、焼き魚の塩梅が絶妙だな。ライスが進む。
「じゃ、帰りにティオも迎えに行っとくよ」
「ん、そうか。わかった」
……いや、ティオは夕方直接旅館に来る予定だったけど、サギリ家の様子を見ておきたいのだ。アゲハのことをブチ撒けて、あれからどうなったのかが気になる。
「っと、おかわり、おかわり、っと」
「ヘンリーさん、おかわりなら私にお任せをば」
「ん? そうか、悪いな。じゃ、てんこ盛りで頼む」
わっかりましたー、と、僕の茶碗を片手にシリルがおひつの据えられているところまで向かっていく。
「……寝不足ではあるみたいだけど、溌剌としているね、シリル」
「そ、そうだな」
「俺もそう思う。なんか昨日あったのか、ヘンリー?」
「そ、そうねえ……」
チッッッッッ!? 今度は二人して追求してきやがった!
「ただいま戻りまし……? どうかしましたか、皆さん」
「いや、なんでも。ヘンリーさんは幸せ者だな、と」
「はい。それは勿論、私という素晴らしい女の子が隣にいるので!」
はいっ、とシリルが頼んだ通り山盛りにライスを盛った茶碗を向けてくる。
いつもであれば『調子に乗るな』とでも言うところなのだが。
……まあ、事実は事実なので。僕は茶碗を無言で受け取り、一心不乱にかきこむことで誤魔化しにかかるのだった。




