第百六十九話 温泉 その三
僕は温泉を存分に堪能した。
じっくりと湯に浸かり、のぼせたら露天風呂に設えられている安楽椅子に座って休憩。風景を眺めながら涼んだら、もう一度風呂へ。
このローテを三回ほど繰り返して満足し、僕とジェンドは上がった。
上がる時に男湯と女湯の仕切り越しに話したが、シリルとフェリスはもうしばらくいるそうだ。
二人を待ちながら、僕はジェンドと露天風呂の入り口前にある休憩スペースでダベる。
「はあ~~、いい湯だったなあ」
「そうだな。飯食ったらもう一回入ってもいいな」
「ああ」
生返事をして、ついさっき買った瓶の中身を煽る。
……よく冷えた牛乳が、汗をかいて渇いた体に染み渡った。
この休憩スペースには小さな売店があって、そこで売られていたのだが……なるほど。冷えたエールもいいが、牛乳もこれはこれで風呂上がりにはピッタリである。
それに、この浴衣ってのもよく考えられている。通気性がいいもんだから、火照った体でも暑苦しくない。貸し出しをしていた団扇の風が実にいい感じだ。
「ヘンリー、旅館の外に遊歩道があるみたいだぞ。夜に散歩するのが人気なんだとか」
と、休憩所に置いてあった旅館の案内図を読んでいたジェンドが言う。
「へえ。夜に山ん中をうろつくのは正直ちょっと怖いけど……」
僕はどうも大陸の常識を振り切れないので、夜闇に乗じた魔物の奇襲とかをどうしても警戒してしまう。
といった理由を説明すると、なるほどとジェンドは頷いた。
「そっか。俺は後でフェリスを誘って行ってみるかな」
ジェンドの方は割と乗り気のようだ。
まあ、冒険者歴が長く、夜警も何度もしたから、僕が気にしすぎているだけだろう。頭では、大陸と違ってこっちは安全なのだとわかっているのだが。
「おう。……でも、いくら雰囲気が盛り上がっても、外ではヤるなよ。覗かれんぞ」
「しねえ。っつーか、フェリスはそんなの絶対に嫌がる。……ていうかヘンリー、お前たまに下品な冗談言うよな」
「男同士だったら、まあこのくらいはな。流石に女連中がいる時にゃ話さないよ」
『デリカシーって言葉を頭に叩き込んでやろうか?』と、モーニングスター片手に脅してきた聖女の教育の賜である。……いや、実際にグーであれば何度も殴られた。
「ちなみに、そう言うヘンリーはどうなんだよ、シリルと」
「んー、まあ。普通?」
いや、僕の女性経験はシリルを除けば娼館と……昔のユーとの、ままごとみたいな付き合いだけなので、普通とはなんなのかよくわかっていないが。
「まあ、あいつはちと潔癖? みたいなトコがあるから。あんまり変わったやつはできないけど」
「……そっちもか。俺もなあ」
ああ、フェリスもその辺、お固そうである。
僕たちは互いの夜の生活の些細な不満を零して、ふう、とため息をついた。
……いや、シリルに文句があるわけではなく。ただ単に、色々やってみたいんだ、男の子だし。ジェンドも恐らく気持ちは同じだろう。
などと、他に人がいないのをいいことを露骨な話題で盛り上がっていると、シリルとフェリスが風呂から上がってきた。
「二人ともー! お待たせしました」
「すまないね。どうも気持ち良かったものだから」
風呂上がりの二人。……うむ、なんとなく湯上がりの姿は色っぽい。特に僕的には濡れ髪がいい。
フェリスをヘンな目で見るわけにはいかないが、シリルの方であればいいだろう。
じー。
「むっ、ヘンリーさん。なんか目がスケベですよ」
「はいはい、ごめんなさい」
手をひらひらさせて謝る。さっきまでジェンドと猥談してたから、頭がそっちにいっていた。
「……むう、本当に。男の人ってこれだから。そんなにこう……その、色々見たいものなんですか?」
「ノーコメントだ」
上目遣いに僕を睨みながら、あー、うー、となにやらシリルが考え事をしている。
なにを悩んでいるのかは知らないが、ご機嫌取りの一つでもしておこう。
浴衣の懐に忍ばせていた財布から硬貨を一枚取り出し、指でピンと弾いてシリルに渡す。
「わっ、なんですか?」
「そこの売店の牛乳、風呂上がりには最高だぞ。一杯飲んでみろ。それで二本買えるから、フェリスもどうぞ」
手の平で受け止めた硬貨を手に、むう、とシリルが口を尖らせる。
「なんだか強引に誤魔化そうとしている気がしますが……まあいいです。フェリスさん、行きましょう!」
「ああ。ヘンリーさん、ご馳走になるよ」
二人は並んで売店に向かう。
……売店の兄ちゃんが鼻の下を伸ばしたりしないか不安だったが、流石に客商売しているだけあって、そういう様子はなかった。
いや別に? 仮にあの従業員さんがデレデレしたりしても、なにもするつもりはなかったけどね? せいぜい、ちょっとここから威圧するだけで。
牛乳の瓶を片手に、二人が戻ってくる。
「へへー。ヘンリーさん、いただきます」
瓶の蓋を開け、シリルがぐっぐと牛乳を飲んでいく。
半分ほど一気に飲んで、ぷはぁ! と息をついた。
「美味しい~。染みますねえ」
「ああ。これはいいものだ」
シリルとフェリスが笑顔になる。
……あまりに美味しそうに飲むものだから、それに当てられて。
僕ももう一本、購入に向かうのだった。
そうして、四人連れ立って部屋に戻る途中。
「……あ、私ちょっと受付さんに用事があるので、先に戻っててください」
と、シリルがフロントに寄っていたが……なんだろ?
そうして、夕飯。
きらぼしの間に四人集まって、運ばれてきた膳を平らげた。
この宿は食事にも定評がある……と聞いていたが、確かに非常に美味かった。
旅館のあるこの山で採れたという山菜の揚げ物。カイセイにも近いので、新鮮な刺し身もどっさり。炊きたてのライスは粒がピンと立っていたし、地味に汁物が味わい深くて気に入った。
そいつに加えて、ここらの地酒というセイシュも入って大いに飲み食いし……今は食休みとして、部屋でごろごろしている。
「……ヘンリーさん、これからなにかしたいことあります? ジェンドとフェリスさんは遊歩道に行きましたけど」
「そうだなあ」
帰りに風呂にもう一回寄っていくとか言ってたか。
うーむ、このままもう一度露天風呂に行ってもいいのだが。しかし、こう、満腹を抱えてごろごろするのがなんとも心地良いので、もうしばらくこのままでいたい。
……が、流石にそれは勿体ない気もする。
「僕的にはこのまましばらくゴロゴロしててもいいんだけど……シリルはどうだ? なんか気になるところとかないのか?」
「あー、うーん。そのー」
なにやら頬を上気させて、シリルがうんうんと唸る。
? 珍しいな。明らかになにか提案したいことがある様子だが、こういう時にシリルが言い淀むなんて。
またぞろ、こっ恥ずかしいシチュエーションでも考えているんだろうか。でも、シリルがこんなんになるようなやつは、僕の羞恥心の限界を越えているので、勘弁して欲しいのだが。
「うう~」
「? 本当になんなんだ」
結局シリルは具体的な言葉にすることなく、そっと僕に館内案内図を差し出した。
そういや、途中までしか読んでいなかった。大きな施設の位置は把握したからまあいいかと思っていたが……
「…………」
シリルが伏し目がちに、館内案内図の一点を指差す。
……夫婦湯、あるいは家族湯。
予約制の小さな露天風呂で、男女に別れている大浴場とは別に、親しい者同士で入るための施設だ。
申し込みはフロントまで……と、簡単に書かれている。
「シリル……風呂から戻ってくる時に、フロント寄ってたのってまさか」
「い、一応。一応ですよ? ヘンリーさんが、どーしても、と言うので、仕方なく。そう、仕方なく予約しときました……」
僕はどーしても、と言った記憶はないが……そこは混ぜっ返すところではないだろう。
し、しかし……ふーん。混浴、混浴ね。
……いかん、今からワクワクが止まらない僕がいる。
「予約の時間は?」
「もうすぐです……」
「そうか、なら早く行かないとな。予約入れといてすっぽかすのはいけないことだし早く行くに越したことはないから早く行こう」
うむ、と思わず早口でまくしたて。
先程までのだらけた気分など地平の彼方に投げ飛ばし。僕はすっくと立ち上がった。
「ちょ、ちょちょちょっ!? ヘンリーさん、興奮しすぎじゃないですか!?」
「そんなことはない」
決してしすぎではない。適切だ。
「や、やっぱり止めましょう! 私、広いお風呂の方が好きですし!」
「おおっと。自分で言ったことには責任持たないとなあ。ほれ、立てって」
ひょい、とシリルをお姫様抱っこで抱え上げる。
「ひゃぁ!?」
突然抱き上げられ、シリルが小さく声を上げる。
……しかし、相変わらず軽っる。初めて会った時より随分鍛えたはずなのに、筋肉質で固くなってるわけでもないし。
「動かないっつーなら、このまま運んでやるが?」
「むう……自分で歩けます」
ぷい、とそっぽを向いたシリルを、僕は丁寧に下ろす。
「はいはい、はしゃいだのは悪かったよ。行くぞー」
隣に立つと、渋々といった態度を崩さずに、シリルが腕を絡めてくる。
浴衣は生地が薄いからあれこれと感触がするが……いや、我慢だ、僕。恥ずかしいと思いながらも、僕の意向を汲んでくれたシリルに悪い。
そう、今晩は紳士ヘンリーとなるのだ。紳士!
「まずはフロントに行けばいいのか?」
「……はい、夫婦湯の入り口には鍵がかかってるので。鍵を借りて……」
そうか、と頷きながら。
僕たちは、旅館の廊下をゆっくりと歩いていくのだった。
後半のヘンリーは地味に暴走しています。




