第百六十七話 温泉 その一
あれから。
お茶のおかわりを淹れること更に四度。
それだけの時間をかけて、リーガレオでのアゲハの所業をアカネさんに伝えた。途中、帰宅したアカネさんの旦那さん――つまり、アゲハの父も合流して話を続けることになり……終盤に差し掛かる辺りでは、二人して頭を抱えることになっていた。
割と長い間、アゲハと仲間付き合いしていた僕としてはいたたまれなかったが……家族の間に、口を挟めるわけがない。
一応、冒険者としての仁義を破ったことはない……ない、はず! だと強調しておいたし、家庭崩壊の憂き目には遭わないだろう。遭わないよね?
そう、我ながら不安そうにボヤきながら、街道を歩く。
「いや、どうだろうな……アゲハさんのアレを多少なりとも知ってる俺も、今日のヘンリーの話にはドン引いたし」
しかし、それを聞いたジェンドは、僕の願望混じりの言葉をあっさりと否定した。
うーん、とフェリスも腕を組んで、難しい顔をする。
「……ちょっと想像の斜め上だったよね。まさか首のないエルダートレントを仕留める時、木を削って『首っぽい部分』を作って、そこを断つとか。その労力を別に回せば、もっとたくさん倒せたんじゃないか?」
アゲハが名付けて曰く、エルダートレントに首作って刈ってやろう大作戦である。
労力に見合わないことは流石のアゲハも一度で思い知り、以来最初から首のない相手は露骨に嫌がるようになった。
「まあでも、アゲハさんのことだからそれくらいはー、って気はしますけどねー」
あっけらかんと笑うシリルは、意外と変なやつ耐性が高い。
……リーガレオに行くに当たって、実に頼もしい限りである。
「ところでヘンリーさん、あとどのくらいで着くんですかね?」
「あー、ちょっと待て」
街道を歩きながら、僕はポーチの中に入れておいた地図を取り出す。
大雑把な地形と、主要な街道だけが描いてある簡素な地図。しかし、途中途中に位置を示す立て看板なんかもあったから、だいたい分かる。
「そうだな、あと二十分くらいだ。……って、もう見えてるぞ。ほれ、あそこに見える山の中腹辺り」
僕はいくつも連なっている山の一つを指した。
木々の緑に隠れて全容は見えないが、その山の中腹に目的の建物が見える。
「あ、本当ですね」
シリルが目の上に手のひらを当ててそれを見て、『おー』と声を上げる。
「あんな山ん中に建てるなんてなあ。魔物とか出たら一発で壊されそうだけど」
「リシュウの魔物はごく一部の瘴気の濃い地域にしか出ない……とは聞いていたけど。ああいう建物を見ると、実感できるね」
まあ、人里離れると、多い少ないはあっても魔物が出る大陸では考えられない立地だ。
街の外に建物を建てるのであれば、土地を切り拓いて浄化をかけて、簡易であれど柵くらいは組み立てないと安心して眠れない。
この辺りはお国柄、というやつだ。
「えーと、翠泉館、でしたっけ」
「ああ。カイセイに近い名旅館ってことで、大陸でも有名な宿だな」
ティオを除いた僕たち四人は、リシュウ滞在中はあの山中の旅館に泊まる予定なのである。
別にティオを仲間外れにしているというわけではなく。リシュウに来たそもそもの目的は、ティオがこちらの親戚の人たちにご挨拶をするためだ。
……水入らずのところを邪魔するのは憚られるし、そもそもティオの仲間というだけで家に泊まらせてもらうのも気が引ける。
それに、明日にはティオも合流する予定である。近場だから逆に泊まったことないらしく、結構興味があったらしい。
そして翠泉館といえば……温泉! である。
湯が湧くところ自体は大陸でもそう珍しくないが、大体が瘴気むんむんの危険地帯になる。
冒険者や旅の人間が汗を流すことくらいはあるが、それを宿に組み込もうなんて発想はそもそも大陸にはない。
大衆浴場はフローティアにもあったが、天然の温泉は体によく、また露天? とか言って、景色も大層いいらしい。リシュウの風呂文化は有名だ。
……うむ、楽しみである。
「っと、チェックインの時間にちょい遅れそうだし、走るか?」
「そうだな。少し体を動かしたいところだし」
「私も異論はないよ」
僕が提案すると、ジェンドとフェリスはすぐに頷いた。
シリルは……
「むぅ、旅行に来てまでそこまであくせくしたくはないんですが……しかし、温泉がシリルさんを待っていますので、同意します!」
渋ると思ったが、シリルも楽しみにしていたようで、思いの外あっさりと頷いた。
そうして……僕たち四人は走り始めるのだった。
流石に、一般客も多く訪れる旅館だけあって山道も丁寧に舗装されており、移動は苦にならなかった。
坂道を走ったため、シリルはちょっとだけ息が上がっているが、まあ今更この程度ではバテたりしないようである。
そして、旅館に到着すると……視界がさあ、と開けて。
切り立った崖を背景にした、見上げるようなリシュウ風の建物が姿を表した。
遠くから見た限りではここまで立派な旅館だとは思っていなかった。大陸のものと趣は違うが、どこかの高位の貴族様のお城と言われても納得できるような佇まいである。
「おお~、なんつーか風格があるな」
「紹介冊子によると、この旅館は三百年ほどの歴史を誇っているそうだよ。建物は何度か改修はしたらしいけど、内戦の戦火も潜り抜けてきたらしい」
ジェンドが感嘆し、フェリスがバッグの冊子を広げて説明する。
「わあ、すごいですねえ。……あー、こういう時、光写機が欲しいって思っちゃいますね」
「……光写機かあ」
シリルの言葉を反芻する。
まるで風景をそのまま閉じ込めたかのような絵を作ることのできる機材。高価で取り扱いも難しく、新聞業などの仕事で使う人か、趣味人でもなければ買わない品だが……ふむ。
少し考え事をしながら。それでも、今はこの建物に見惚れて、
「ほら、二人とも。旅館の見学は後でいくらでもできるんだ。早くチェックインしてしまおう」
「さっさと行こうぜ」
しばらくシリルとともに建物を見物していると、フェリスとジェンドに注意されてしまった。
……うむ、いかんいかん。
「シリルー、行くぞー」
「はーい」
立派な看板が据えられた門をくぐり、玄関のところへ。
これまた風格ある玄関の前では、リシュウの民族衣装を来た従業員と思われる女性が立っている。ええと、こっちの宿で働く女の人は、仲居さんって呼ぶんだったかな?
その仲居さんは、僕たちの姿を認めると、恭しく頭を下げた。
「ようこそ翠泉館にいらっしゃいました。ご予約のお客様でしょうか?」
「あ、はい。サギリ商会の方を通じて予約させてもらっている、ヘンリーです」
……旅行シーズンではないとはいえ、思いつきのように決まったリシュウ行き。
この旅については、ティオの父であり、この国に多くのツテがあるシモンさんが、諸々を取り計らってくれた。
僕たちは当初はリシュウではその辺の旅籠を利用しようと思っていたのだが、リシュウへ向かうことが決まったその翌日。
丁度その日リシュウへ向かう予定だった商売仲間に、シモンさんがサギリ本家宛の手紙を託して。……本家の人を通じて、カイセイ付近の旅館に空き部屋があれば押さえるよう頼んでくれたのだ。
……結果、たまたま空きのあった、付近でも有数のこの旅館に泊まることになった、というわけである。
まあ、そんなわけで、到着するまでどこに泊まるのかはわからなかったのだが、非常にいい宿を取ってもらったようで万々歳だ。お土産は忘れないようにしよう。
「あ、はい。承っております。ささ、どうぞ中へ。お部屋にご案内いたします」
「ありがとうございます」
仲居さんが玄関の扉を押し開ける。
……フロントもやはり豪勢だ。
正面には、年季が入った受付のテーブル。飴色の色艶も美しく、丁寧に磨かれていることがよく分かる。
受付脇には、存在を主張するわけではないが、立派な枝ぶりの松の鉢植えと……これはフローティアでもちょっと普及している、生け花。
後は、僕では名前もわからない装飾品の数々。
お値段は張りそうだが、決して下品ではなく、客の気持ちを落ち着かせるような内装……なんだろう。
「へえ……宿泊業には詳しくないけど、成程なあ」
……やっぱりわかる人にはわかるらしい。ジェンドはしきりに頷いていた。
「ヘンリー様、こちらの宿泊台帳にご芳名をお願いできますでしょうか?」
「あ、はいはい」
仲居さんに呼ばれ、受付に向かう。
受付の人が台帳を広げ、『こちらです』と促してくれた。
サインを済ませ、仲居さんに案内されるままに旅館の中を歩いていく。
「おお~、廊下もすごいですねえ」
「こら、シリル。キョロキョロすんな。はぐれるぞ」
「おっとと、これはこれは、シリルさんとしたことが!」
珍しげに視線をあちこちに彷徨わせ、遅れかけたシリルを引っ張る。
……でも、なーにが『シリルさんとしたことが』だ。お前がドジんのは、いつものことだっつーの。
と、呆れていると、仲居さんが足を止めた。
「はい、到着いたしました。こちらが一部屋目、『きらぼしの間』です。旅館の正面側の部屋で、窓から夜空がよく見えるんですよ」
一部屋目、ね。
「もう一つが、斜向いのこちら。『せせらぎの間』です。旅館の裏手側に向いていて生憎と空はあまり見えませんが、裏の崖に流れている滝は見ごたえがありますよ」
ふ……む。
まあ、僕はどちらでもいい。
「ジェンド、フェリス、お前たち希望は?」
「んにゃ、別に。風景なら別に、見に行かしてもらえばいいし」
「私も拘りはないよ。でも、そうだね、ヘンリーさん」
ちょい、ちょい。とフェリスがシリルを指差す。
その指に従って、シリルを見ると……まあ、あからさまに『きらぼしの間』の方に視線が向いていた。
「ヘンリーさん、ヘンリーさん。私こっちがいいです!」
「あー、はいはい」
……まあ、全員が遠慮して結局決まるのに時間がかかるよりはいい。多分、シリルもそういう場面じゃなきゃ、こうまで一方的に自分を通そうとはしな……し、し……しない、はず。
「つーことだが」
「ああ、いいっていいって。言ったろ、俺はどっちでもいいって」
「私もだよ」
仲居さんからそれぞれの部屋の鍵を受け取って。
「とりあえず荷物を置いて一息ついたら、ここの名物の露天風呂とかに行くか」
「そうだな」
軽くジェンドと今後の予定を打ち合わせ。
……僕とシリルは『きらぼしの間』に。ジェンドとフェリスは『せせらぎの間』に向かうのであった。
温泉回です!
なお、筆者は高級旅館とかに泊まったことないので、なにか変なところがあってもスルーしてくれると助かります。




