第百六十四話 船旅
リシュウ行きの客船がシースアルゴを出発して、およそ一時間。
その間僕は……控えめに言って、死にかけていた。
「オボボボボ……」
甲板の端っこの手すりに縋りつき、海に向けて吐く。もうとっくに胃の中のものは全部出したので、出てくるのは胃液だけだ。
ふう、ふう、と少しだけ落ち着いたので息を整え、横で背中を擦ってくれていたシリルに視線で礼を言う。
「大丈夫ですか、ヘンリーさん」
「……あんま大丈夫じゃない」
「ですよね。はい、水です」
ありがとう、という声を上げるだけでしんどい。
水筒の水を飲み、合わせてシリルが差し出してくれたハンカチで口元を拭う。……あー、ハンカチ、代わりのやつ買ってやらないと。
「船酔い、ってつらいんですねえ。私は特に気分が悪くなったりしませんけど」
「……個人差がある、って聞くけどな」
なお、僕以外も何人か、船酔いに悩まされている人はいる。
同じように、家族や仲間に介護されており……なんとなく視線が合って、『お互い頑張ろーぜ』と指を立て合う。
そうしてしばらく肩で息をしていると、甲板に我らが仲間が登ってきた。
僕たちを見つけてこちらにやってきて、僕のつらそうな様子に目を丸くする。
「……ヘンリー、一向に客室に来ないと思ったら。大丈夫なのか?」
「あー、悪い。僕、船と相性悪かったみたいだ」
心配そうにするジェンドに手を上げて応える。
他のみんなは、シリル同様平気そうだ。どうやら、このパーティで船に弱いのは僕だけだったらしい。
……いや、仲間がつらい思いをしなくてよかった。ちらっと、道連れの一人や二人いないかなあ、なんて僕は思っていない。
「なるほど、船酔いだね。……ティオ、鞄に入れさせてもらった荷物、取り出してくれないかい?」
「はい、どれでしょう」
ティオの『容量拡張』の能力持ちの鞄。今回の旅程でもそれは大いに活用させてもらっており、僕たちの荷物は小物以外は全部そこに入れてある。
その鞄に入っていたポーチをフェリスは受け取り、中から小さな薬を取り出した。
「こんなこともあろうかと、酔い止めの薬を調合しておいたんだ。……事前に飲めばよかったんだけど、すっかり忘れていたね」
……今の僕には、フェリスに後光が差しているように見えた。
「女神っっ!」
「……それはやめてくれ」
呆れた様子のフェリスから薬を受け取り、もう一度シリルの水筒を受け取って飲み干す。
「ヘンリーさん、私からも。薬が効くまで、こちらの葉っぱを噛んでいてください。爽やかな香りがして、気を落ち着ける効果があるので」
ティオからも施しがあった。
言われた通り葉っぱを噛んでみると、確かに清涼感のある匂いがして、ぐちゃぐちゃになっていた頭の中がスッキリする。胃のムカムカも大分収まった。
……おお、ティオはもしかして、この世界を救うべく天から遣わされたお方なのではないだろうか。
「聖女っ!」
「やめてください」
ティオもそっけない。僕のこの迸るほどの感謝の気持ちを受け取って欲しいのに。
「さて……他にもヘンリーさんと同じような人がいるようだ。勿論船にも酔い止めくらいあるだろうけど、ちょっとおせっかいに行ってくるよ」
「ですね。この葉もたくさんありますし。いつもはサギリ商会の貨物船に相乗りさせてもらってたので、船酔いする人なんて見かけませんでしたが……持ってきておいてよかったです」
「っと。俺もついてくよ」
三人連れ立って、僕と同じ苦しみにのたうち回っている人々のところへ向かう。きっと、彼らにとって三人は救世主に見えるだろう。僕と同じように。
「女神に聖女、ですか。二人がそうなんだったら、さしずめ私はなんでしょう?」
「? シリルはシリルだろ」
……あ~、薬を飲んだっていう事実で、気のもちようが変わったのか、なんだか本当に楽になってきた。
だから、ペシペシとシリルがローキックをカマしてきても、余裕で受け止められる。
「最初っから看病してあげていた私への感謝が足りません!」
「わーった、わーった。ええと、天女、とか」
「うーん、なんか適当感が否めませんが、それで納得しておいてあげます」
「おう」
ふう、今回はそこまでへそ曲げてなかったか。
ティオにもらった葉っぱを噛み噛みしながら、しかし、と僕は考える。
「なあ、シリル。僕だけ泳いで行っちゃ駄目かな」
薬をもらったし、半日もあれば慣れると思うが、万が一にでもあの地獄の苦しみを再度味わうことになるくらいなら、そっちの方がいい気がしてきた。
「……いやいや、いくらヘンリーさんでも、船で二日の旅程ですよ? 休憩もなしに、二日も泳げるわけない……ないですよね?」
「まー、結構キツいが、やってやれないことはない気がする」
「やめてください。海の魔物が出るかもしれないって話じゃないですか」
……むう、確かに。
泳ぎで疲労困憊になっているところで襲われたら、流石に歯が立たない。陸上ならどんだけ疲れててもなんとかするが、水の中じゃなあ。
うーん……っと、そうだ。
「じゃあ、これならどうだ。……《光板》」
魔導で光の板を作り出し、その上に乗る。空中に固定しているので、《光板》の上は揺れない。
「《光板》……《光板》……」
しかし、そのままでは当然船に置いていかれてしまうので、連続して作り出してその上を歩いていく。
……おお、これはいけるんじゃないか?
後は魔力がどこまで持つかだが……ふっ、それは問題ない。
「シリル、今こそお前の神器、リンクリングの出番だ。僕にちょいと魔力を都合してくれ」
シリルの魔力量であれば、単発の《光板》に要する魔力など、自然回復量以下だろう。これは勝った。
「……嫌ですよ。周りの人、凄く変な目で見てるじゃないですか」
そのくらいなんだ、と僕は思うのだが、若干引いているシリルの協力は得られそうにない。
……致し方あるまい、魔力回復のポーションを使ってでも――
「あのー、すみません」
「あ、はい?」
と、決意をしていると、横から声をかけられた。
声の方を向いてみると、苦笑いをしている船員さん。
「航行中は、安全確保のため、お客様の魔導・魔法の使用は緊急時を除いて遠慮していただいておりまして。乗船券購入の際にも説明があったと思いますが……」
……そうだった。
特に攻撃性のある魔導ではなかったので注意で済んだが、僕は考えなしだったことを平謝りするのであった。
「って、ヘンリーさん昨日は凄く変でしたねー」
「……言うな。味わったことない種類の苦しみで、ちょっと錯乱していたんだ」
幸いにして、昨日はフェリスの薬がよく効き。
今日は寝ている間に体が慣れてくれたのか、船酔いの兆候はない。
ようやく船旅を楽しめるモードになったので、僕とシリルは船の上に出て、景色を眺めながらおしゃべりに興じていた。
「それにしても……昨日はちょっと曇ってましたが、今日はいい天気ですねえ。海面がきらきら光って、綺麗です。潮風も気持ちいいですし」
「そうだなあ」
うんうん、とシリルに同意する。実際僕も非常に綺麗だと思う……のだが、その返事にシリルは立腹した。
「なんですか、その気のない返事は。こんなにいい景色なんですよ? もうちょっとロマンティックな感じの返事をお願いしま……ごめんなさい」
「おい、今なんで謝った」
「いやー、自分で言っときながらなんですが、ヘンリーさんにロマンを求めるのは間違っているなー、と」
「正直すぎるだろっ」
失敗失敗、と笑うシリルだが、一体僕をなんだと思っているんだ。甚だ心外である。ヘンリー憤慨。
ええい、僕だってやるときゃやるってところを見せてやる。
「? なんですか」
そっとシリルの肩を抱き寄せ、
「海も綺麗だけど、お前のほうがもっと綺麗だぞ」
そう、ささやくように言った。
もっとこう、暗喩とか込められればいいのだが、そういう語彙には生憎と疎いし……シリルにはこういうストレートなやつのほうがいいはず!
「ふふー、当然のお話ですが、シリルさんの機嫌はよくなりました!」
「……そう、それはよかった」
シリルの求めるようなシチュエーションを演出するためには、受け止める方もロマンティックさが必要だと思うんだけどなあ、僕ぁ!
ったく、と呆れながら、ぐしゃぐしゃとシリルの頭を撫でる。
「むー、なんですか」
「んにゃ」
まあ、それも含めて、こいつの魅力なのだろう。こっ恥ずかしいから口にはしないが。
と、あっ、とシリルが声を上げた。
「ヘンリーさん、見えました? 今魚が跳ねましたよ」
「ああ、ちょこちょこ見えるな」
「噂に聞く鯨とかも見てみたいですねー」
……とまあ、そんな感じで。甲板で適当にダベること一時間。
いい景色なのは確かだが、流石に飽きてきた。一向に様子が変わらないし。
「シリル、そろそろ客室に戻るか? 風がちっと冷たいし」
「そうですねえ。戻ってどうしましょう? することもないですし、昼寝でも?」
まだ午前中。全然眠気は来ていない。
「いやー、眠くないしな。ティオがいつも通り、鞄にカードでも入れてくれてるだろ。それで遊ぶとか」
「細かい文字とか見てると、酔いやすいって聞きますよー」
「……カードは却下だな」
船の中に戻る。
僕たちは、男用と女用、二つの客室を取っている。話し声が聞こえる女部屋の方をノックした。
「誰だい」
中からフェリスの反応。
「僕だ。シリルも一緒。入ってもいいか?」
「ああ、いいよ」
お邪魔ー、と、ドアを開ける。
船の限られた空間に設えられた部屋なので、ベッドが三つある他は小さなテーブルが一つあるだけの狭い部屋だ。
……で、そのテーブルの上に、見慣れたボードと駒が並んでいる。
そして、テーブルに差し向かいでジェンドとティオが対峙していた。
「将棋か」
「ああ。……今まで一勝もできなかったが、今日は勝てそうだ」
ジェンドは、前に一度やってから、地味に将棋にハマっているらしい。身近な実力者であるティオと幾度となく対局しているが……この言葉通り、今まで全敗。
しかし、盤面を見ると、確かにこの勝負はジェンドが優勢のようである。
「……まだ、詰みまで遠いです。勝ったつもりになるのは早いですよ」
ティオが負けじと駒を動かす。その手は読んでいたのか、ジェンドがノータイムで返した。
……ティオは元々だが、ジェンドもめっちゃ強くなってる。今後はジェンドに迂闊に将棋での勝負を仕掛けないでおこう。
「ふむふむ。……なにがなにやらよくわかりませんね」
「そう複雑でもないから、ルールを覚えればいい。ジェンドに練習相手によく付き合わされているんだが、結構面白いよ」
「そですねー」
と、シリルはフェリスが差し出したルールブックを受け取り、読み始める。
……シリルが覚えると、パーティ全員が将棋できるようになるわけか。
リーガレオは娯楽が少ないし、将棋セットをもう一つ買っていくのもいいかもな。
などと考えながら、僕は二人の対戦を見守り続けるのだった。
……なお、じーっと駒を見ていたせいか、見事に酔いがぶり返した。
畜生。
書籍二巻の書影が公開されました。
活動報告の方に上げておりますので、是非見てみてください。




