第百十六話 クロシード式
熊の酒樽亭の昼下がり。
僕とシリル、そしてティオは、テーブルを一つ占拠してそれぞれ思い思いに作業をしていた。
僕はクロシード式のテキストを広げて読み込んだり、術式の書き取りをして理解を深めている。
シリルのやつは、五線譜に向かってなにやらおたまじゃくしを書いていた。魔法歌のメロディを考えているらしい。既存の歌でもいいそうだが、集中力を高めるには自作のほうがなんかやる気が出ます……なんだとか。
そしてティオはティオで、叢雲流の術式をなんとか工夫を凝らして効率化しようとしている。
三人して魔導、魔法を練り上げているのは、別に示し合わせたわけではなく。
シリルと一緒にここんちでランチをして、そのままお茶飲みながら雑談していたら、ティオがひょっこりやって来たのだ。
術式の改良なら自分ちでやればいいのに、と思いきや、そこは立派な理由がある。
「ん、ラナ。できた」
「あ、うん。どれどれ~」
僕たち以外のお客さんがいないので、ラナちゃんも同じテーブルでなにかの本を読んでいる。……僕ではタイトルの意味すらわからない学術書だ。
そのラナちゃんは、ティオが見せた術符をじぃ~、と隅から隅まで見て、
「ここと、ここと、ここ。頑張ってスリム化しようとしてるのはわかるけど、術式が破綻しちゃってる」
「……あ、本当だ」
「ちょっと筆貸して。こうして~、こう直せばいいと思うよ」
と、ラナちゃんは術符にいくつかの線を引く。
僕は叢雲流は素人なのでよくわからないが、ふんふんとティオは熱心に頷いていた。
「……本当だ。ありがとう、ラナ」
「ううん、珍しい術式見れて、私も楽しいし」
……つまり、こういうことだ。ラナちゃんが、ティオの書いた術式を添削しているのだ。
叢雲流は、リシュウの小さな流派。大陸で多くの人が使っているものとは違い、独自性はあれどまだまだ洗練できる余地がある……らしい。
だからって、自分が使えるわけでもない魔導式をちょいと見ただけで直せるのは、控えめに言って頭おかしいが。
「……ラナちゃん、自分の魔導流派を開けそうだな」
「あはは……でも、私図形とか描くの苦手ですし。自分では使えませんから」
謙遜するように言うが、出来ないと言わない辺り大概である。
「んじゃ、クロシード式も見てくれよ。もしかしたら、ラナちゃんの目から見れば改良の余地があるかもしれないし」
「ええ……流石に、そんな大きな流派に、私の手を入れる余地なんて……」
とか言いながら、差し出したテキストをラナちゃんは素直に受け取る。興味はあるようだ。
ラナちゃんが読んでいる間、手持ち無沙汰なので、シリルの手元を見る。
「ちょっとー、完成する前にじろじろ見ないでください。恥ずかしい」
「大丈夫だって。勿論、僕は楽譜なんざ読めないから」
「そういう問題じゃないんですけど」
シリルがぶーたれる。
「しかしまあ、お前自分で作曲もしてたんだな。何気に今日初めて知ったぞ」
「下手の横好きですけどねー。一応、ピアノくらいは弾けますし」
……菓子作りとか好きだし、できることを箇条書きにすると、こいつも立派な淑女なんだがなあ。なんだけどねえ。
いや、文句があるわけではないぞ、うん。
「あ、そうだ。ヘンリーさん。ふと思ったんですが、ヘンリーさん楽器とか使えます?」
「あん? いや、出来ないけど」
「笛とか覚えません? ヘンリーさんが伴奏してくれれば、なんか魔法の威力上がる気がします」
「やらんわ!」
僕がフルートかなんかを演奏し、それに合わせてシリルが歌う。そして魔法が完成すると吹っ飛ぶ魔物、バックで流れる笛の音……シュールすぎねえ?
大体、効率の面から言っても、僕がそんな役目をするのは悪手というか、ありえない選択肢だ。
「ざんねーん」
「そこはほれ、一緒に後衛にいることが多いティオとかに頼め」
「あ、それもいいですね! ティオちゃん、ティオちゃん。どう?」
僕は矛先を新たな術符を作り始めたティオに向ける。シリルは簡単に食いついて、ティオに話しかける。
「……私も、草笛くらいしか吹けませんよ」
「草笛! 私好きですよ、素朴な感じで!」
「いや、だからやりませんって……ちょ、シリルさん。こっち側に回ってこないでください!」
「いいじゃないですかー、一度だけ、一度だけです。ちょっぴり試してみるくらいいいでしょう?」
シリルが座っているティオの後ろに回り、撫でり撫でりしながら頼み込む。ティオは迷惑そうに振り払おうとするが、本気では振りほどけない様子だ。
……顔は似てないし、性格も全然違うが、姉妹みてぇ。
「ん、あれ?」
そんな騒ぎなどどこ吹く風で、クロシード式のテキストを読み進めていたラナちゃんが声を上げる。
不思議そうに数ページ前に戻り、また元のページへ。ちらりと見える内容からして、クロシード式術式の簡易一覧辺りを見ているみたいだが……なんだ?
「ヘンリーさん、クロシード式って私初めて見たんですけど。これ、術式っていうか……強いて言えば、文字?」
おい、マジでこの子どういう頭脳してんの。
「……そう、らしいよ。僕も人伝に聞いただけだから、理解してるわけじゃないけど」
「? ラナ。文字ってどういう意味?」
僕とラナちゃんが話し始めてシリルの攻勢が収まったので、ティオが尋ねる。
「うーん、なんていうのかなー? 術式って、普通絵みたいなもので、例えば別の術式のある部分を切り取って別の術式にくっつけても、ほとんどうまくいかないんだけど」
同じ魔導流派であれば多少の共通性はある。しかし、一つの術式を組み上げるのはまさに一枚の絵を書き上げるようなもので、その技法や癖が流派の違いなわけだ。
転移門なんかの大規模魔導は、言ってみれば大作家同士の合作といったところか。
……いや、勿論、ちゃんとした理論が下敷きにあってのことだが。
翻って、クロシード式。
「これ、例えば《火》って術式のこの部分。これがまるっと別の術式にも現れていて……そうやって術式を分解して組み合わせを変えれば、なんか色々、できそう?」
脱帽である。魔導学を随分勉強していることは知っていたが、少なくともクロシード式使う人でそこまで理解が及んでいる人は、僕の知る限り数人しかいない。勿論、僕は含まれない。
「ああ。開祖のリオルさんが言うには、そういうことらしいぞ? 全九十九種の術式の断片の組み合わせで、理論上どのような魔導でも実現できるのだ! とか」
「リオル、ってあれですよね。あんまり冒険者通信とかには出ませんけど、八英雄の一人の」
「そう。大魔導士リオル」
エッゼさん、ロッテさんと同じ、魔国との戦争以前からの英雄で、英雄の中では一番の古株である。
確か……英雄になったのは百歳ちょいの頃、って言ってたかな? 確か今二百歳近いそうだから、まあ八、九十年は英雄やってることになる。
「あれ? でもこの本にはクロシード式を発明したのはエミル・クロシードという方だと」
「それ、リオルさんの奥さん。なんていうのかな……未知の文字を生み出すだけ生み出したのがリオルさんで、それを意味のある言葉にしたのがエミルさんなんだってさ」
例えて言えば、『ほ』と『の』と『お』という単なる三文字を『炎』という単語にするように。リオルさんの生み出した単体では意味のない術式片を組み合わせて、《火》や《投射》といった術式群として編纂しなおしたのがエミルさんである。
『なにがクロシード式だ。エミルは単なる一小節を沢山作ったにすぎん。それをいくつ組み合わせようが、決まった魔導しか使えない。その場で、状況状況に応じた魔導を無限に生み出せるのがこの術式の肝だというのに』
……酒の入った場では、リオルさんはいっつもこんな愚痴を漏らしていた。
実際、あの人は一般のクロシード式は使わない。空中に文字を投影するという、本来であれば戦闘用ではないアストラ式使いだ。
それで自ら作り上げた術式を空中に投影、都度必要な組み合わせを作り上げぶっ放す、万能の魔導使いである。
なお、威力についても、シリルに負けちゃあいない。
一つの術式に込められる魔力は上限が決まっている。……じゃあ、無限に術式を投影すればいいじゃん、という頭がいいようで最高に頭の悪い解決法をリオルさんは見出した。
ある戦場では、上空に半径五十メートルはある馬鹿でかい魔法陣を描き上げ、上級の魔物を一気に数百は倒していたなあ……
なお、その場で術式を作り上げることの難易度もさることながら、アストラ式使ってクロシード式の術式をその場で作って発動させて……なんて、普通の人は出来ない。
なんていうか……大道芸?
「呪唱石の縛りもないんですか?」
「ない」
魔導流派によっては、道具の形や材質が決められているが、クロシード式はそういうのはない。まあ、効果を高めるため、普通の使い手は材質を凝るけど、そこらの砂場に描いても精密性が担保できて魔力を適切に流すことができれば発動できる。
「ちょっと面白いかも。九十九種って言ってましたけど、どんなのがあるんですか? このテキストだと、組み合わせた後のものしか載っていませんし。流石に全部解析するのは骨です」
やっぱこの子できないって言わないよ。
それはそうと、九十九の術式片かあ。
「うーん。いや、僕も昔リオルさんの覚書で見た覚えがあるけど、全部は覚えてないよ」
「……その、失礼ですけど、そのリオルさんって方にコンタクトを取ることはできませんか? 今ちょっと、魔導学の研究で詰まっているところがありまして。もしかしたら、突破口になるかもって」
ラナちゃんは思いの外真剣だ。
……その九十九種のことを完全に理解して、術式として組み合わせられるのって、当のリオルさんとエミルさんしかいないって言われているんだが。
いや、だがこの子の天才性は並大抵ではない。
「あー、うん。まあいいよ。僕も返信するつもりだから、一緒に送ろう。あの人、教えたがりだから、割と大張り切りで協力してくれるかも」
何を隠そう、僕のクロシード式の導師はリオルさんである。
世間一般に流通しているクロシード式なんて……と、口では言いつつも、冒険者の力になっている事自体は本人的に喜ばしいことらしい。
「ありがとうございます! じゃ、恥ずかしい手紙にならないよう、私もうちょっと勉強しますね」
怒涛の勢いでラナちゃんはテキストを捲る。
さて……じゃあ、リオルさんにはラナちゃんのこと、どう伝えようかね。
……なお、この時この二人を引き合わせたおかげで、とある研究が完成し。大きな影響を各所に与えたのだが。
このときの僕が与り知ることではなかった。




