犠牲
やっぱり遅くなりました……
次元と次元の狭間に位置する不安定な空間がある。
そこは、人間などでは到底たどり着くことのできない未知の空間ともいえる場所であり、また、たとえ辿り着くことができたとしても、足を踏み込んだ途端その不安定さによって息をすることもままならなくなる──そんな危ういところでもある。
しかしそこには、空間を同じくしながらまるで異次元に建っているかのように浮かび上がる、漆黒の城があった。
「やはり、ここにいらっしゃったのですね」
外観と同じく、どこもかしこも黒一色に染め上げられた城の中、静まり返った玉座の間に闇の声がこだまする。
彼が近付き、跪いて頭を垂れる相手は、深紅の髪と瞳を持つ青年──死灰栖だ。
彼は着衣の色を髪や瞳の色と揃えている闇とは対照的に、くすんだ灰一色の服で身を包んでいる。
長すぎる髪を床に散らばらせ、長い足を退屈そうにぶらつかせているさまは、無気力なことこの上ない。
だがその身に纏う雰囲気は、そんな態度とは裏腹に圧倒的であり、威厳に満ち溢れていた。
「お久しぶりでございます……我が君」
相手の機嫌を損ねないよう、闇は細心の注意をはらい言葉を口にする。
奏相手ならば気にすることなどなにもないが、死灰栖相手ではそうもいかない。
気が短く、自らの立場をなによりも重んずる死灰栖は厄介な性質の持ち主で、下の者が無礼な口をきくことを絶対によしとしないのだ。
たった一度でも失言をしたが最後、もう何百年と彼に仕えている闇でさえ、命はない。
それゆえ、彼と相対する時は、さすがの闇でも緊張を禁じ得なかった。
「永らくお側を離れていたこと、どうかご容赦ください。私には私のなすべきことがありましたゆえ、それを終えるまではどうしても戻ってくることができませんでした」
実のところ、闇にとっての『なすべきこと』は、まだ終わっていない。
だが、もしそれについて詳しく追及されたら、とりあえずひと段落したということで話を収めるつもりであった。
大体の場合暇を持て余している死灰栖は、なんにでも首を突っ込んで話を聞きたがるため、面倒くさいことこの上ない。
けれど間違ってもそれを表に出すわけにはいかないため、闇は毎回死灰栖に物事を報告する際、ピクリとも表情を動かさず、淡々と話すよう努めている。
それでも毎回重箱の角をつつくが如く様々な質問をされる為、今回も必ず何かしら問われるだろうと内心身構えていたのだが───。
意外にも、彼の口から発せられたのは、たった一言だけだった。
「よく戻って来たな、闇」
ただ、それだけ。
思いつく限りの質問を想定し、それに対しての答えを用意していた闇が思わず拍子抜けしてしまうほど、あっさりとしたもので。
「一体どうなされたのです?」
思わず尋ねてしまった。
追及されない方が好都合であったのに。
「なにがだ? 我はべつにどうもしていない。ただ聞く気がないから、今回はなにも聞かないだけだ。それともなにか? 貴様は我に根掘り葉掘り問いただしてほしいのか?」
そうでなければ物足りない、満足できないと申すのか?
問われて、闇は珍しく返答に困った。
「いえ、そうではありませんが……」
あまりにも追求されるのは、確かに困る。
しかし、このまま話自体が終わってしまうのも困るのだ。
なんとかしてラズリのことまで話を持っていかなければ、嫌々ながらここへ戻って来た意味がない。
「我が君……」
「なんだ?」
脳内で素早く単語を組み立てながら、闇は再度口を開いた。
今更死灰栖にどう思われようとかまわない。
単刀直入になろうとも、ラズリのことだけは聞きださなければ。
しかし──。
「先に言っておくが、あの娘に関わることなら答えるつもりはないからな」
さらりと、そう言われた。
先手をうたれたと言ってもいい。
あまりの驚きに、瞬間、闇は二の句が継げなかった。
「な、なぜですか……?」
ややあって、ようやく闇は、それだけの問いを発した。
できるかぎり平静を装ったものの、動揺による声の震えは止められなかった。
世の中全体の様々なことに聡い死灰栖のことであるから、自分の行動について、少なからず勘付いているだろうとは思っていたが。
まさかそのすべてを理解し、完璧に把握しているなど、まったくもって予想していなかった。
無論こうならなくとも、闇の質問に死灰栖が素直に答えたかどうかは分からない。
だが、答えを返されなかった場合と、質問することすら禁じられた場合とでは、明らかに違うものがある。
質問を口にすることができなければ、それについて語ることすら許されないのだ。
「おや、図星だったか?」
意地の悪い笑みを浮かべると、死灰栖はゆっくりとした動作で玉座から腰を上げた。
そのまま闇に近付き、しゃがみ込んで目線を合わせる。
「あやつに関わること以外なら、なんでも隠さず答えてやろう。我は貴様を殊の外気に入っているからな。たとえ貴様が百年近くもの間、我の側から離れていたとしても……」
「我が、君……」
死灰栖の瞳に宿る暗い炎を見つめ、闇は言葉をなくす。
我が君と口にしながら、死灰栖とはもう長い間会っていなかった。できることなら、この先永遠に会いたくないとすら思っていた。
死灰栖の好意は、闇にとって迷惑なものでしかない。
意に沿わぬ相手から好意を向けられ、それに無理やり応えなければならない状況は、苦痛でしかないからだ。
それでももう一度ここへ出向いてきたのは、ラズリに関する質問を投げかけるため。
ラズリの過去に不安を感じ、苛つく奏を少しでも安心させられたらと思ったゆえにやったこと。
しかし、これではなんの意味もない。
死灰栖から情報を引き出せなかったばかりか、こちらの思惑をすべて知られていたとなると、逆に追い詰められたような気さえする。
せっかくここまで来たのだから、せめて何かひとつだけでも役に立つ情報を持って帰りたかったが、こうなってはもう、それすら不可能だろう。よくばると、痛い目を見ることになる。
今回の相手が相手なだけに、闇は慎重にならざるを得なかった。
「……どうした? もう聞きたいことはないのか?」
揶揄の響きを含んだ声で、死灰栖が問いかけてくる。
闇はそれに肯定の言葉を吐きかけたが、ふと思いつき、咄嗟に違うことを口にした。
「あの娘に直接関わらないことであれば、答えていただけるのでしょうか?」
やや緊張しつつ、返事を待つ。
これで死灰栖が答えてくれれば、間接的にでもラズリに関する情報を仕入れることができる。
もし答えてもらえなくても、そこから何か一つでも分かることがあれば……。
そう考えていたのだが、次に死灰栖の放った言葉は、否定でも肯定でもなかった。
「闇……本当に貴様の頭の中は、あやつのことだけで満たされているようだな。そんなに尽くしてどうする? これまで大した見返りなどもらってはいないだろうが」
乱暴に頭を掴まれ、上向かされる。
と同時に、闇はちり、と胸の一部に火がついたような気がした。
見返りなど求めていない。自分と奏はそんな関係ではない。
そう思ってはいても、時にそのことを理不尽に感じてしまう自分もいないわけではないということに、気付かされてしまったから。
けれど、今はそんな感情にこだわっている場合ではない。
奏に仕えると決めた時から、自分のことは二の次でかまわないと明言してきた筈。
「私の主は貴方であって、あの方ではありません。そのことは、我が君自身が一番ご存じの筈なのでは?」
胸の痛みに気付かない振りをして、闇は平然と答えた。
怪しいところは、特になかっただろう。
ここで死灰栖に少しでも疑念を抱かれると、面倒なことになる。
自分にとって大切なのは、あくまで死灰栖一人のみ。間違っても奏のことが大切だなどという思い込みは、捨て去ってもらわなければならない。
ことをうまく収めるには、できるだけ死灰栖の機嫌をとり、なんの疑いも抱かれず、彼の側を離れることが肝要なのだから。
これ以外に、この方のご機嫌をとる方法は……。
死灰栖とまっすぐに見つめ合いながら、闇は頭の中でまた新たな算段をし始める。
間違っても疑われぬようにと偽りの笑顔すら浮かべて見せると、死灰栖は満足気に微笑った。
「……闇、貴様に提案があるのだが」
「なんでしょうか?」
穏やかな声だった。
闇の知る限り、死灰栖がこのような声を出すのは初めてだ。
だから闇は、知らず気を許してしまったのかもしれない。
安堵の息さえつきかけ、返事をした。
まさかその途端、両手足を拘束され、強い力で壁に叩きつけられるとは思いもせずに。
「………………‼︎」
あまりの衝撃に、息が止まった。
次いで、喉奥から迫り上がってきたものを堪え切れずに吐き出す。
闇の口から溢れた真っ赤な血は、彼の緋色の服に染み込むと同時に深紅へと変わった。
それを見た死灰栖が、嬉し気に目を細める。
「うっ……我が君、なにを……」
わけが分からなかった。
自分はなにか間違ったことを言ったのだろうか。
なぜ、死灰栖は突然こんなことをしたのだろう。
つい先程まで……今現在も微笑んでいるのに。
それともその微笑みこそが、嘘だとでもいうのだろうか。
分からない───。
両手足を拘束されたまま壁に貼り付けられている為、何もできずに闇が死灰栖を見つめていると、彼は更に笑みを深めた。
「良い色だな……。我の気に食わぬその色は、貴様の血と混じると我の色になるのか。ならば貴様に我の色を纏わせようと思うのなら、全身傷付ければ良いということだ」
なんだ、簡単なことではないか。
そう呟きながら、闇へと近付いてくる。
「お、お待ち下さい! 私を……私を気に入ってくださっていたのではないのですか?」
無駄だと知りつつ闇は何重にも結界を張り、拘束を解こうと試みながら声をあげた。
死灰栖の配下になってからというもの、そこまで共にいた覚えはないが、それでも自分に向けられる好意だけは、偽りなしと思っていたのに。
「気に入っていた……そうだな、確かに我は貴様を気に入っている。だが、あやつのことしか考えていない貴様には、虫唾が走る」
そこで闇の張った結界に突き当たり、死灰栖が足を止める。
が、何重にも張った闇の結界は、死灰栖が右手を振っただけで全て粉々に砕かれた。
「………っ!」
やはり、力量が全然違う。
自らを最強だと豪語するだけのことはある。
これは敵わない……。
絶望に支配され、闇は諦めて目を閉じる。
防ぐことは勿論、逃げることすら叶わない。
なんて無力なのだろうか、自分は。
「貴様を最初に取り込んだ理由……それは貴様があやつの腹心の部下であったからという理由に他ならない。だがそのうち、我に忠誠を誓いながら、いつまでもあやつに未練を持っている貴様が鬱陶しくなったのだ。我の側にいるくせに、何故いつまでもあやつを崇め続ける? 真に優れているのは我だ。それは間違いない。なのに貴様は、いつまで経っても……」
呟くように話す死灰栖の背後で、黒い陽炎がゆらめく。
元は逆恨みから始まった、死灰栖の憎悪。
二人の間に過去なにがあったのか──細部まで詳しく闇は知らないが、それでも最初にそのきっかけを作ったのは死灰栖だということだけは知っている。
それなのに、死灰栖は未だ奏に恨みを持ち、数百年経過した今も彼に嫌がらせをし続けているのだ。
なんという粘着質で、執念深い性格だろうか。
死灰栖の憎悪は留まるところを知らず、それどころか、年々凶悪化しているような気さえする。
このままにしておけば、必ず取り返しのつかない事態を引き起こすだろう。
そうなってからでは、取り返しがつかない。
できるなら、今日のうちにでも奏の元へ戻りたかったが、そうすることは敵わないだろうと闇は覚悟した。
それどころか、もう二度と奏の元へは戻れないかも──と。
我が君……申し訳ございません。
心の中で奏に謝罪し、闇は緋色の瞳を見開いて死灰栖を真っ直ぐに見つめた。
今死灰栖から目を離すわけにはいかない。
奏自身に向けられる攻撃ならば、なんとか躱せるだろうとは思うが、今の彼は一人ではないのだ。
ラズリが──一緒にいる。
ベッドで寝息をたてていた少女のことを思い浮かべ、闇は唇を引き結んだ。
死灰栖が本気で彼女を狙えば、奏と二人がかりであっても守りきるのは難しいだろう。
それほどまでに死灰栖は様々な能力に長けていて、そのうえ力も強いから手に負えない。
自己犠牲なんて奏は絶対に許してくれないだろうし、それこそなんの見返りも得られないだろうが。
それしかないなら、仕方がないと思って欲しい。
「我が君、どうか、お聞き届けいただきたい願いがあるのですが……」
これこそが、最後の手段。
僅かでも奏の負担を減らすため、ラズリの身を守るための、苦渋の決断。
たとえそのせいで身を焼かれ、心を壊し、命を落とすことになろうとも。
闇にはもう、それしか選ぶことができなかったのだ───。