新たな任務
しん、と静まり返った玉座の間。
重苦しい空気の中、ミルドは頭を垂れて跪く。
目の前にある玉座に腰を落ち着けているのは、煌びやかな衣服に身を包んだ彼の主──ルーチェだ。
ミルドは俯いているためルーチェの表情は分からないが、姿を見せてから一言も言葉を発しない彼に、酷く緊張と不安を煽られていた。
早く何か言わなければ……。
そう焦るのに、思うように言葉が出てこない。
ラズリの住んでいた村からここまで、ミルドはずっと任務失敗の報告内容を考えながら馬を走らせてきた。
しかし、未だ一つもいい案が思いついてはいない。
なんと言えば、ルーチェ様は私を許してくださるだろう……。
頭に浮かぶのはそればかりで。
取り敢えず青年の機嫌を今以上に損ねることのないよう慌てて戻っては来たものの、玉座の間に通された途端、頭の中が真っ白になってしまった。
このままではいけないと分かっているが、下手をすれば死刑宣告さえされかねないこの状況。適当な言葉で誤魔化すこともできずに。
とにかく謝罪だけでもしようとミルドが口を開きかけた時、意外にも、ルーチェが先に言葉を発した。
「やっぱり失敗したんだね……」
諦めの響きさえ感じられない、抑揚のない声がミルドの耳を打つ。
「君が以前、変な報告をしに戻ってきた時点で期待はしてなかったけど。でもまさか本当に、僕の予想通り失敗して帰ってくるなんて……ね」
何の感情も読み取れない口調から、ルーチェが如何に機嫌を損ねているのかが伝わってくる。
つい最近犯した無意味な報告の失態が、更に青年を不機嫌にさせているのも明らかで。
咄嗟に詫びることさえできず、恐る恐るルーチェの顔を見上げると、冷ややかな瞳と視線がぶつかった。
「余計なことばかりするのに、肝心の任務は失敗ばかりでこなせない。それでも今まで、僕はかなり君を大目に見てきてあげたつもりだよ。だけど分かるだろう? 僕にだって、我慢の限界というものがある。残念だけど、もう次はないんだ。ミルド、君は本当に───」
無能だね。
ルーチェの口から発せられた最後の一言に、ミルドの心臓が凍りつく。
それは、任務を果たせず帰還した時点で、言われるであろうと予測していた言葉であった。
しかし、想像していたのと、実際に言われるのとでは言葉の重みが全然違う。
まるで死刑宣告をされたかのように──実際、無能と言われた故そうなるのだが──その言葉を聞いた瞬間、ミルドの目の前は真っ暗になった。
「もう、終わりだ……」
知らず口から漏れ出た言葉に戦慄する。
自分の命運は尽きた。自分はもう、ここで死ぬのだ。
こんなことになるのなら、わざわざ戻ってこなければ良かった。
部下を見捨て、あのまま逃げるべきだったのかもしれないと、後悔の念ばかりが頭に浮かぶ。
急いで報告へ戻り、うまいことルーチェを宥めることができたなら……そう考えたからこそ帰還したが、こうも何も出来ずに終わるなどとは思ってもいなかった。
そして招いてしまった、最悪の事態。
これを逃れるには、どうしたらいいだろう? 逃れる術は、満に一つもないのだろうか?
いくら仕方のないことだとはいえ、ただ大人しく命を差し出すことなど出来ないし、絶対にしたくない。
本当にもう終わりなのか? 可能性は何も残されていないのか?
手探りで暗闇の中を彷徨い歩くかのように、ミルドは光明を探し続ける。
何もないか?
些細なことだと忘れ去ってしまったもの、伝えなければならない事実……その中にたった一つぐらい、ルーチェ様の心を動かすようなものはないだろうか?
そこでちくり、と、再びいつもの頭痛に襲われる。
こんな時まで頭痛か……と思ったが、瞬間、ミルドはあることを思い出した。
これならば、もしかして……。
絶望に閉ざされていた暗闇の中に、微かな光が差してくる。
なぜ今まで、この事実に気付かなかったのだろう?
自分はルーチェ様に対し、切り札ともいえる情報を所持していたというのに。
自らの間抜けぶりに自嘲の念を抱きながら、ミルドは密やかにほくそ笑む。
ルーチェ様にこの事実を伝えれば、死刑は必ず免れることができる筈だった。
「……さて、最後に何か言っておきたいことはあるかい?」
おあつらえ向きに、タイミング良くルーチェが声をかけてくる。
それをミルドは内心嬉々として受け止めると、表面上は神妙な顔つきのまま、おもむろに言を紡いだ。
「一つだけ……此度の任務失敗に関する弁明をしてもよろしいでしょうか?」
これさえ聞き入れてもらえれば、こちらのもの。
だが、聞き入れてもらえなければ、そこで全てが終わってしまう。
その場合は、何が何でも大声で捲し立ててやろうと身構えつつ、ルーチェの返答を待つ。
ミルドが緊張に身体を強張らせていると、ルーチェは存外あっさりと頷いた。
「そうだね。きっとそれが君の最期の言葉になるだろうし、聞くだけ聞いてあげるよ」
これで無能が一人消えると思うと気分もいいしね、と、追い討ちをかけながら。
それでも、取り敢えず話す機会を与えられたことにミルドは安堵し、一度視線を床に落とした。
ルーチェの顔を見ていては、思考が乱れる。
せっかく繋いだ命だ。
切り札を上手く使わなければ。
何からどのように話そうか、ミルドは内容を頭の中で組み立てようとして──すぐにやめた。
ルーチェはとかく気が短いうえ、答えを急ぐ傾向にある。
彼にとって過程なんてものはどうでもよく、結果だけが全て。
故に、話が少しでも長引いたり、内容に興味を失うと、途端に黙ることを余儀なくされるのだ。
せっかくの切り札を使わずに殺される事ほど馬鹿な事はない。
この一言さえ口にしてしまえば、命の安全は保障されるのだから。
ミルドは一旦目を閉じると、ゆっくり深呼吸してからおもむろに顔を上げた。
そして、真っ直ぐにルーチェを見つめ、一言だけ口にする。
「魔性……」
刹那、ルーチェが勢いよく玉座から立ち上がった。
「魔性……魔性だって?」
聞き返され、ミルドは大きく頷く。
頷きながら、驚愕に見開かれたルーチェの瞳を見て、内心小躍りした。
まさか、ここまで予想通りの反応をしてくれるとは。
しかし、ここでそれを表面に出してしまっては元も子もない。
ミルドはなんとか厳しい表情を保つと、気持ちを落ち着けるように二、三度深呼吸を繰り返し、その上で強調するように言った。
「魔性に遭遇したせいで、我らは任務を失敗したのです」
「その話……詳しく聞かせてもらえるかい?」
玉座に座り直したルーチェが、瞳を爛々と輝かせて聞いてくる。
ルーチェの食い付き加減に、ミルドは自分の算段に間違いはなかったと、ひっそりと微笑った。
以前から思っていたことだが、ルーチェの魔性に対する興味は、異常といっても差し支えないほどだ。
だから今回魔性に出会った事を話せば、そのままにしておく筈はないと思った。
絶対に捕らえて、我が物とするに違いない……実際、そのようにして捕らえた魔性が一体だけ、今も地下牢に幽閉されているのだから。
なぜルーチェが魔性に固執するのか、彼らを捕らえて何をしようとしているのか、ミルドには分からないことばかりであるが。
自らの主に余計な詮索は無用。
世の中には、知らない方が幸せに生きられる事が多々あるのだ。
せっかく助かりそうな命を、ちっぽけな好奇心の為に危険に晒すような馬鹿な真似はしたくなかった。
「──それで君は、その場を部下に任せ、取り敢えずの報告をしに僕のところへ来たというわけなんだね?」
確認するかのように、ルーチェが目線を合わせて聞いてくる。
もしここで頷こうものなら、以前報告だけをしに戻って来た時と同じで、失望されるだけだろう。
それが分かっていて、同じ過ちを繰り返すほどミルドとて愚かではない。
たとえ帰還した当時はそうだったとしても、今は既に別の理由を付け加えて考え出していた。
「私が今回戻って参りましたのは、報告の為だけではありません。実はルーチェ様に、お願いしたき事が御座いまして」
「お願いね……さしもの君も、そこまで無能じゃなかったっていうことかな? 幾ら魔性の情報を持ち帰ったとはいえ、今回も報告だけだったなら、今度こそ処分を考えなきゃならないところだったけど。まだ使い道がありそうで少しだけ安心したよ」
魔性の話を聞いてすっかり気をよくしたらしいルーチェが、微笑みすら向けてくる。
その言葉尻からすると、どうやら死刑宣告は撤回されたと考えて良さそうだ。
それはとても喜ばしい事なのだが、同時にミルドは強い疑念を抱いた。
ルーチェ様にとって魔性とは、やはりそこまでの価値を持つ存在なのか……。
そこまでの態度でもって興味の程を知らしめられると、少なからず詮索したくなる気持ちも生まれてくる。
だが、しかし。いや、これ以上は考えまい……。
つい先程、この疑問については詮索しないと自分で決めたばかりだ。
ミルドは自らの好奇心を必死で打ち消すと、その事は考えないようにして言葉を続けた。
「私が言う願いは二つありまして……一つは、ラズリ様捜索と奪還の為、もう暫く日数をいただきたいということ。そして肝心なのは、もう一つの方なのですが……」
「なんだい? 遠慮しないで何でも言ってみなよ。今なら気分もいいし、大抵の事は聞いてあげるよ」
ルーチェに言われるまでもなく、次に自分が口にする願いが断られる筈がないことなど、ミルドにはとうに分かりきっている。
重要なのは、要求が受理されるかどうかではない。
願いの内容で、如何にルーチェの心を動かし、無能だと言われた自分の評価を少しでも元通りに……できることなら、それ以上にすることだ。
もう二度と、無能などという暴言を吐かれない為にも。
「二つ目の願い……それは、私に魔性を捕らえる権利を与えていただきたいという事です」
静かに、だがハッキリとした声音でミルドは告げる。
決して嘘偽りではないと、決意を込めた瞳でルーチェを見据えながら。
本音を言えば、魔性などとは二度と関わり合いになりたくなかった。
捕らえるどころか、遭遇すらしたくないと思っている。
しかしそれでは、永遠に自分の評価は上がらないままだ。
だから、仕方なかった。
下がりに下がった評価は既にどん底。
目の前には奈落が広がっている。
そこから少しでも遠去かるには、最早これしかないのだ。
それに、ラズリが魔性に連れ去られた以上、彼女を追えば嫌でもまた会う事になる。
だったら、死に物狂いで捕らえるしかない。
そうすれば評価も上がり、面倒な任務からも解放されて一石二鳥となる筈。
どうせ、ラズリを王宮へ連れて来られなければ散る命だ。
魔性と戦って死んだところで大した違いはないだろう。
そう考えて。
「成る程ね。それにしても、普段は自分から任務に名乗りを上げてくる事なんて殆どないのに……珍しい事もあるもんだね。何か特別な理由でもあるのかい?」
二つ返事で頷いてもらえる筈が、意外にも問い返されてミルドは慌てた。
「と、特別な理由……ですか。強いて言うならば、今回の任務を邪魔された為……でしょうか。ようやく任務達成と思えた瞬間に受けたあの屈辱は、どうあっても自らの手で晴らさねばと思ったものですから」
「確かにそれは一理あるかもしれないね」
我ながら、急場凌ぎで思いついたには上手い言い訳だったと思う。
その証拠に、ルーチェが何の疑念も抱くことなく頷いた様子に、ミルドはほっと胸を撫で下ろした。
「この二つの願いが聞き届けられますならば、早速任務遂行へと移りたいと思うのですが、如何致せばよろしいでしょうか?」
既にほぼ了承は得ているようなものなので、ここはミルドも強気に出る。
しかしそこで、初めてルーチェが少しだけ考えるような素振りを見せた。
「………………」
無言のまま、僅かに顔を顰める様子に、ミルドは再び不安を覚え始める。
ここまで言っても駄目だったのか?
魔性の存在を持ち出しても、新たな任務に繋げられるだけの効果はなかったのか……?
単に魔性を捕らえたいだけであるのなら、ルーチェにとって、それは当然ミルドでなくても良い。
ここの所失敗続きのミルドに任せるより、他の人間にした方が確実だと考えている可能性もある。
魔性の存在を知らせたことで死刑だけは免れることができたが、それ以上を望んだのは欲張りだったのだろうか?
どうすればいい?
これ以上何を言えばルーチェ様の気を引く事ができる?
必死になって答えを探すミルドの目の前に、ややあって、ルーチェが一枚の札を飛ばした。
「君に、これをあげるよ」
ミルドにとって、それは見覚えのあるものだった。
表面に、意味不明の記号やらなんやらが墨のようなものでびっしりと書き込まれている、掌より少し大きいぐらいの縦長の札。
前にも一度、同じような呪い札をルーチェに渡され、魔性相手に使用した覚えがある。
今も地下牢に囚われている魔性は、その時ミルドが捕まえてきたものだ。
初めて札を渡された時は、魔性にこんなものが通用するのかと半信半疑な気持ちであったが。
「以前にも使った事があるから、使い方は分かるよね? 今回もそれをあげるよ」
だから、期待していいんだろう?
ルーチェの土色の瞳が、無言でそう聞いてくる。
ミルドは恭しく札を受け取ると、もちろんで御座いますと力強く答えた。
「次こそは必ずや、ルーチェ様のご期待に応えてみせます。二度と失望させるような真似はしないと、このミルド、己が命に懸けて誓いましょう」
「うん、期待してるよ。それから、僕もあと一つだけ君に質問しておきたい事があるんだけど……いいかな?」
「私に答えられることであれば、なんなりと」
「だったら聞くけど、君の邪魔をしたっていうその魔性……何色だった?」
何色……?
質問の意味がすぐには理解できず、ミルドの思考は一時停止した。
色? 色とは一体なんのことだ?
部下からは髪や瞳の色が赤かったと報告を受けたが……それをそのまま伝えればいいのだろうか?
何せ、ミルド自身はラズリを連れ去った魔性の姿を一度たりとも見ていないのだ。
それなのに、いきなりそのような質問をされても、明確な答えが分かる筈もなかった。
「見た目の色を言えばいいのでしたら、赤……でしょうか? とにかく全身赤一色だったように思いますが……」
あくまで、自分が見たという態で言葉を紡ぐ。
この答えが間違っていたらどうしようもないが、色を聞かれている以上、完全に間違いではない筈で。
当たっていてくれよ、と祈りながらミルドはルーチェの様子を窺う。
すると、どうやらそれで正解だったらしい。
ルーチェは唇の端をくっと吊り上げて微笑った。
「赤……そう、赤かったんだ」
心底嬉しそうな、けれどどこか残忍さを秘めた瞳で、うっとりと微笑む。
「ミルド、僕はどうしてもその魔性を手に入れたくなったよ。絶対に、何があっても、その存在を捕まえてきてほしい。そうしたら今回の失態はなかったことにしてあげるばかりか、特別報酬も与えようじゃないか。他の事は後回しでかまわないから、まずは魔性を確実に捕らえてきて欲しい」
「りょ、了解致しました! 必ずや魔性を捕らえてご覧にいれます。ルーチェ様の御為に!」
ミルドは屹立して礼をとり、ルーチェが軽く頷いたのを確認し、踵を返す。
娘と魔性、両方を同時に捕らえるのは難しいと思っていたから、今回魔性だけに的を絞る事ができたのは幸いだった。
一度は捕獲に成功しているし、その時大いに役立った呪いの札も持っているから、油断さえしなければ恐らくは上手くいくだろう。
そんなことを考えながら、ミルドは玉座の間を後にした。
だから気付かなかったのだ。
自らの背を見つめるルーチェの瞳が、不穏な輝きを放っている事に。
「甘いよね……」
ミルドの退室後、扉が完全に閉じられたところで、ルーチェが小さく呟く。
「せっかく邪魔なあいつを始末する、絶好の機会だったっていうのにさ」
自分で自分の行動が理解しかねるとでも言うように、肩を竦めた。
「まぁ……彼はそれなりに役立つし、もう少し働いてもらってから始末してもいいか。人一人消し去るのなんて、瞬きするぐらい簡単なことなんだし。それに今は───」
新たな魔性を手に入れる方が先決だよね。
そう言って笑みを浮かべたルーチェの瞳は、眩いほどの黄金に輝いていて。
それは見る者を不安に駆り立てるような、不吉な光を宿していた。