奏と闇
暗闇の中、扉を叩く小さな女の子がいる。
「あーっ! うっ、うーっ!」
歳の頃は、三歳に満たない程だろうか。
限界まで痩せ細った体は全身傷だらけで、言葉にならない声を発しながら、少女は懸命に扉を叩く。
「あうーっ! あっ、ああっ、うーっ!」
どんなに扉を叩いても、声を出しても、扉はまったく開かないどころか、少女の声に答える気配すらない。
それでも少女は必死に扉を叩き続ける。
気を抜けば呑み込まれてしまいそうな、暗闇の恐怖から逃れる為に。
「あっ、あうう……うっ、あー……」
けれど大した時間も経たぬうちに、少女はその場に膝をついてしまう。
体力が尽きたのか、ぜいぜいと喉を鳴らし、短い呼吸を繰り返しながら、それでも扉に手を伸ばす。
「あ……うあ……」
声を発しようとするも、息が切れているせいで、思うように声が出せない。
やがて、座っていることさえできなくなり、少女は扉に縋り付くようにして倒れ込んだ。
「………………」
意識が朦朧としているのか、揺れる瞳をぼんやりと扉に向ける。
それでも、震える指で少女はしつこく扉を引っ掻いた。
たとえ爪が割れて痛もうとも、木の欠片が刺さって血が滲もうとも。
少女は意識を失うまで、扉を引っ掻き続けた。
扉が開かれることを願って────。
「無理……よ」
その様子をどこか遠くから見つめていたラズリは、喉奥から声を絞り出すかのように、そう言った。
なぜ、こんな光景が見えているのかは分からない。
きっとこれは夢なんだろう……漠然とそう感じるものの、少女のあまりの懸命さに、つい言葉が漏れた。
どんなに扉を叩いても、声が枯れるほど叫ぼうとも、閉ざされた扉が開かれることはない。
少女を閉じ込めた人物が、気まぐれを起こさない限りは。
なぜだかラズリは、その事を知っていた。
どうしてそれが分かるのか、この確信めいた気持ちはなんなのか、見当もつかなかったけれど。
この光景に、覚えがあるような気がしたのだ。
そしてこの後、可哀想な少女の身に何が起きるのかも、知っているような気がした。
「逃げて……」
声も手も届かない、ただ見つめることしかできない少女に向かい、ラズリは祈るように言葉を発する。
「そこにいては駄目よ、どこか他の場所へ逃げないと……」
しかし少女は動かない。
ラズリの声が聞こえないのは勿論のこと、意識を失っているのだから、動けるはずもないのだが。
どうしよう……どうしたらいい?
このままでは危ないということは分かっているが、現状できる事は何も無かった。
せめて少女に声が届けば──と思うものの、どれだけ願ったところで現実にならなければ無意味でしかない。
それならどうする? どうしたらあの少女を助けられる?
極度の不安と緊張により、心臓の鼓動が早くなる。
あれは危険だ、あれに少女を攫わせるわけにはいかない。
だから、あれが出る前に少女を他へ逃さなければ────。
そう思うのに、少女は一向に意識を取り戻さず、その場から動かない。
「お願い、逃げて! もう時間が……っ」
たまらずラズリが切羽詰まった声をあげた、その刹那。
それは、唐突に現れた。
塵のような、砂のような、細かな物質が暗闇の中で舞い上がる。
真っ暗闇の中、何も見えない筈であるのに、それは所々でたまに光を発する為、動いている様が容易に見てとれた。
それがなんであるのか、ハッキリとは分からない。
けれど、少女にとって危険な物であることだけは疑いようもなかった。
「ダメ! 逃げて……!」
ラズリが叫ぶ。
しかし、当然ながら奇妙な物質の動きは止まらない。
事実、危機感を募らせるラズリの目の前で、それは瞬く間に移動したかと思うと、次の瞬間には、その身に少女を取り込むべく、一際大きく膨らんだ。
「ダメよ……やめて!」
自分と少女の間にある見えない壁のようなものを叩き、ラズリは必死に静止の声をあげる。
そうしたところで、何がどうなるわけでもない事は分かっていたけれど。
何もできず、何もしないままではいられないと思ったから。
──そんなラズリの願いが届いたのか、はたまた只の偶然であったのか。
それに少女が呑み込まれたと思った刹那、信じられない出来事が起こった。
少女を呑み込んだ物質の内側から突如として赤い光が溢れ出したと思ったら、それが全て弾き飛ばされたのだ。
「まぶしっ……!」
同時に視界を埋め尽くした光のあまりの眩しさに、ラズリは数秒目を閉じた。
そして恐る恐る目を開けた時──目の前の光景に目を瞠った。
倒れ伏していた少女の姿も、扉も、暗闇すらも消滅し、辺り一面が暖かな赤い光で満たされていたのだ。
「この光……どうなってるの……?」
すべてを包み込むような、優しい光。
この光に包まれていると、つい先程まで見ていた少女のことなど、夢であったかのように思えてしまう。
「さすがに、そんな事ないと思うけど……」
たとえあれが夢だとしても、妙に現実的で衝撃的な内容だった。
ただ一つ救いがあるとすれば、最後に少女が、今自分の周りにあるのと同じ赤い光に守られたように見えた事。
なんとなく覚えのあるラズリの記憶の中では、あそこで少女は攫われていた筈だった。
けれど、赤い光のお陰でそうはならなかったのだ。
自分の記憶との矛盾にラズリは若干首を傾げながらも、少女が何事もなく済んだのなら、それでいいと思う事にする。
尤も、あんな状態で暗闇に閉じ込められていた時点で、問題大有りなのだが。
もし出来るなら、あんな風に傷だらけになる前に、少女を助け出してあげたい。
けれども、今見つめるだけしか出来なかった自分には、出来ることなどきっと何も無いだろう。
だったら、もうこんな夢は見ないようにと願いつつ、忘れるしかないのだろうか?
どうにかして少女を助ける術があるなら、誰でもいいから教えて欲しいと思う。
でもそれが叶わないなら、こんなにも現実的で、胸が痛くなるような夢はもう見たくない。
そう思った瞬間、ふと祖父の事を思い出して、ラズリは胸を押さえた。
※
「やばいっ」
叫んで、赤い髪の青年魔性──奏──は、ガタンと音をたてて椅子から立ち上がった。
「せっかくあそこで上手く修正したのに、なんでそこでじじいのことを思い出すんだよ……」
ブツクサ独り言を言いながら、ベッドで眠るラズリの身体に、一際強く、明るい光を浴びせ掛ける。
「なんかこう……記憶の封印てのは、上手い具合にいかないもんだな」
あちらを立てればこちらが立たず、ならばと邪魔な部分のみを失くそうとすると、今度は別の邪魔な部分が顔を出す。
魔性は万能な生き物──と人間には思われているが、実際そんな事はなく、能力の種類や強弱によってできる事は個体毎に異なり、その力の差に至っては太陽と石ころ以上に絶大な開きがあるのだ。
しかも、奏のように他人どころか自分に対しても無頓着で、自由気ままに生きてきた魔性の多くは、実際使える筈の能力さえ上手く使いこなせず、いざという時に困る事が往々にしてあった。
「───これでよし、っと」
暫くの間あーでもない、こーでもないと奮闘し、眠るラズリの表情が苦しげなものから穏やかなものに変化したところで、奏は満足気な息をついた。
このまま寝かせておいてやれば、目を覚ました時にはいくらか元気を取り戻しているだろう。
彼女の安らかな寝顔を見つめ、空中で大きく伸びをする。
「幾らなんでも、ここまで手を煩わされることになるとは思ってなかったが……」
自分の為ならまだしも、誰かの為にこんな風に能力を使うなど、これまでの奏には一度としてなかったことだ。
それを、こんな小娘一人に施してやる日がこようとは。
あまりにも予想外すぎる展開に、知らず笑いが零れる。
「ほんと、初っ端から楽しませてくれるよ」
初めて顔を合わせてから、まだいくらも時間が経過していないというのに、こんなにも自分に手間をかけさせるなど。
もちろん、面倒だとか、腹立たしいとか、そんな気持ちはまったくない。
ただ、こうして手をかけてやることが、純粋に楽しいと思える。
特にすることなど何もなく、漠然とした日々を過ごしてきた奏にとって、誰かを構って時間を費やすなど初めてのことだった。
「俺の選択は、間違ってなかったな……」
初めて認めた瞬間から、ラズリに惹かれた。
こいつは普通とは違う、自分を惹き付ける何かがあると、直感で──その時の彼女は、まだ五歳にも満たない小さな子供であったが──分かった。
だから、瀕死の状態であったラズリを助け出し、適当な森の中に放置して、気の良さそうな人間が見つけるように仕向けたのだ。
まだ小さく、幼かった彼女を育てるなど奏には無理な話であったし、子供の頃にのみ不可思議な素質を持つ人間は稀に居る為、それを見極める必要もあったから。
「あそこまで上手くいくとは、正直思ってなかったけどな」
ラズリを拾った人間は、当初奏が考えていたよりもずっと、彼女のことを大切に育ててくれた。
無理に過去を思い出させようとすることもなかったし、捨て子だからといって、冷たくしたりもしなかった。
そういう点では、ラズリの育て親となるのに、あの村の老人は正に理想的な人物であったといえるだろう。
であったからこそ、幸せそうに生活を営む二人を見て、奏はせめてあの年老いた人間が寿命を迎えるその日まで、一緒にいさせてやろうと思っていたのだが。
「あいつら、勝手なことしやがって……」
忌々し気に呟き、舌打ちする。
自分の計画を大幅に狂わせた、王宮の人間達。
暫く前から、彼らがラズリを血眼になって探していたのを、奏とて知らなかったわけではない。
それでも、簡単にではあったものの、見つけにくいよう村には結界を張ってあったし、たとえ彼女を連れて行かれたとしても、後からどうにでもできると高を括っていた。
まさかその考えが、こんな事態を引き起こしてしまうなど、予想だにしていなかったが。
「面白くねぇ……」
苦虫を噛み潰したような顔で、奏はポツリと呟く。
こんなことになるのなら、ミルドがラズリを村から連れ出そうとした時点で阻むべきだった、と今更ながら思う。
いや、どうせなら人間には不可視の結界を張っておけば良かったのか……。
そうしていれば、恐らくラズリは育った村がなくなることも、不必要に傷つくこともなく、未だ幸せな時を過ごしていたに違いない。
そしてそれは同時に、奏自身が今のような苦労を背負い込む必要もなかったという事になる。
考えれば考えるほど、己の及ばなさが招いた結果という事実に、奏は柄にもなく落ち込んだ。
やろうと思えば、奏にはミルド達王宮の人間を退けるばかりか、村を丸ごと強力な結界に包み込み、外部から完全に遮断する事だってできたのだ。
だがそうしなかったのは、ラズリが王宮へ連れて行かれる理由について、純粋に興味を持ってしまった為。
自分で調べるのは面倒だったから、ちょっとラズリを王宮へと攫わせれば、容易に答えが知れると思った。
でも、簡単に見つけられるのは面白くないと思ったから、村を包む結界の透過度を調節し、ある日は素通りさせ、またある日は疑念を感じさせてと、気分次第で楽しんだ。
そうした遊びにちょっと飽きてきた頃、そろそろいいかと結界を弱めた途端にラズリは連れ去られた。
あまりにもすぐだった為少々驚いたが、王宮の騎士達は皆一様に疲弊してボロボロになっていたから、攫われた所で大した事はできないだろうと気を抜いていた結果、対応が遅れ、取り返しのつかない事態を引き起こしてしまったのだ。
後悔……なんてもの、過去に数えるほどしかしたことのない奏だったが、今回ばかりは流石にその感情を禁じえなかった。
「……ったく、俺としたことがなんつー体たらくだよ。こんなことがアイツに知れたら──」
「アイツ……とは、一体誰の事を指しているのでしょうか?」
なんの前触れもなく背後からかけられた声に、奏の肩がビクリと跳ねる。
「貴方にしては珍しく、不機嫌な顔をしていますね」
聞き慣れた声は、奏の最もよく知る人物───闇───のもので。
たった今彼についてボヤいた事実と、こんなところで遭遇するなど思ってもいなかった予想外の事態に驚愕し、奏は目を見開いた。
「あ、あ、あ、闇っ! お前、何でここに?」
動揺を微塵も隠す事なく大声を上げ、振り向きざま目の前の青年を指差す。
それに対し、指差された当の本人──闇は、不機嫌そうに眉を顰めると、差された指の先端から逃れるようにして、少しだけ立ち位置を変えた。
「指を差すのはやめてください。それから、そんなに大袈裟に驚くのも。まるで化け物扱いされているようで、不愉快な気分になります」
「あ、ああ……わりぃ」
冷たい視線で睨まれ、奏は慌てて指を背中に隠すようにして引っ込める。
本当こいつって、いちいち細かいよな……と思ったが、口には出さない。
ごくりと唾を飲み込んで、代わりに違う言葉を口にのせた。
「そ、それで? 俺に何か用でもあるのか?」
瞬間、闇の瞳が更に冷たさを増したような気がして、奏はその場に凍りつく。
な、なんだ? 俺は今、なんかまずいこと言ったのか……?
なんてことはない、普通の質問だった気がするが……と、目を白黒させながら考える。
けれどやはり、おかしなことを言ったという自覚は得られず、訝し気に首を傾げたところで、闇のため息が耳に入った。
「ん? 闇、どうかし──」
「私は、用もないのに会いに来るほど暇ではありません。無論それが、誰のせいなのか……などというつまらない事を、今更申し上げるつもりもありません。今日はどうしても貴方に尋ねたいことがあったから、ここまで来たのです」
誰のせい、という部分は敢えて問い返すまでもなく、奏自身のことだと分かる。
普段、何も考えず好き勝手行動している自分に代わり、闇は色々と忙しく動いているのだ。
勿論、奏の口からそんなことしてくれなんて一度も頼んだ覚えはないが、闇の行動の半分以上は奏の『やらかし』による後始末の為、強くは出られない。
一緒にいると面倒といえば面倒なのだが、やらかした時の処理も面倒で、どっちも面倒ならまあ……敢えて突き放すこともないか、というわけで基本的に闇の好きにさせている。
自分で言うけど物好きにもほどがあるっていうか、こいつ本当によくやるよな。
チラリと闇を盗み見、奏は密やかにため息を吐いた。
真っ赤な髪と瞳を持つ奏に比べ、闇は深みのある緋色の髪と瞳をしている。
几帳面にきっちりと後ろで一つに編まれた髪は膝まで届き、伸ばした前髪は顔の右半分を隠し、左目も髪の間からチラリと窺える程度にしか見えない。
だが、その顔は人間離れした美貌の持ち主ばかりである魔性の中でも飛び抜けて美しく整っており、そのせいで一時期などは魔性の中でも最高位に位置する数少ない『魔神』達が、闇を配下にするべく争いを繰り広げたほどだ。
魔性の美しさは、能力の強さに比例する──筈なのだが、その理から何故か闇のみが外れており、だからこそ魔神達は、誰よりも美しい配下を従え、他に差をつけようと躍起になったのだった。
それ、なのに────。
ある日突然、闇は謎の魔性の配下となった。
あまりにも謎すぎて、その存在自体が疑われている『赤闇の魔神』。
彼は魔性の世界の中で『最強』として知られながらも、その姿を見た者は殆どいないと言われている、伝説とも謳われている魔性だ。
彼が最強と呼ばれる所以は、永く続いた天使と魔性の戦いを終息へと導いた功績によるところが大きい。
何百年も膠着状態が続き、最早決着は不可能と思われていた矢先、彼が天使達の本拠地を消滅させた事で、永遠に続くとも思われていた戦いが、あっけなく終了したからだ。
その時、その様子を見ていた数少ない者達が「闇の能力を使っていた」「真っ赤に燃える炎のような髪の色をしていた」と言ったところから『赤闇の魔神』と評されるようになったのだが。
その後彼は、まるで最初から存在していなかったかのように、跡形もなく姿を消してしまった。
彼の力と能力をもってすれば、強さ至上主義である魔性の世界を統べることすら可能であったのに。
それから暫くは、彼の配下になりたい者達が躍起になって居場所を探したが、強者に弱者は探せても、その逆は難しく、赤闇の魔神が見つかる事はなかった。
圧倒的な力の差──それが、赤闇の魔神の捜索をとてつもなく困難にしていたことは間違いない。
そうして、あまりの目撃証言のなさにその存在自体が危ぶまれ、忘れ去られようとしていた頃に、闇の全身が橙色から緋色に変わったとの噂が出回った。
全ての魔性は、生まれ持った能力に応じて様々な色彩を一色纏って産まれてくる。
能力と色の関係性については、火を操るならば赤、水ならば青、といった具合にある程度能力から連想される色を纏っている場合が多い。
闇が生まれ持った能力は雷を操るものであり、だからこそ彼は髪と瞳に橙色を纏っていた。
しかし、ある日突然、それが緋色に変化したのだ。
魔性の身に纏う色が変わる事は、則ち誰かと主従契約を結んだということに他ならない。
力の強い魔性と主従契約を結んだ場合、その証として、配下になった魔性は主の色彩と能力に塗り替えられる。
逆に言えば、主従契約を結ばない限り色彩が変化する事はないのだ。
故に、闇の色彩が変化した時、世界は騒然となった。
長らく主従契約を断り続けてきた闇が主を持った事もそうだが、その相手がまた最悪の人選であった為に。
なんと、闇が主従契約を締結した相手は、世界から姿を消して久しい赤闇の魔神であったのだ。
ある者は、最強の魔神が未だ存命であることに震撼した。
またある者は、これで闇を配下にできなくなったと怒り狂った。
主従契約は、一旦結ぶとおいそれとは解約できない。
主従となった者同士が互いに解約を望むか、配下となった者が解除を望んだ際に、次の主が元々の主より強い力を持つ者であれば契約を書き換えられる。
が、それ以外に解約する方法はなく、加えて闇の場合は、契約を交わした相手が最強と称されている魔性であることで、契約解除の方法は、赤闇の魔神が解除を望んだ場合のみに限られてしまっているのだ。
これでは他の魔神達がどう足掻いてもなす術がなく、結果として闇は安寧を手に入れた。
それから暫くは、どうやって二人が出会ったのかや、闇の美しさにはさすがの最強様も抗えなかったのでは? などという下世話な噂が飛び交ったが、当事者である闇が貝のように口を閉ざし、赤闇の魔神は相変わらず行方不明のままであった為、答えが語られることなく噂は時の経過と共に沈静化していった。
かくして、以前より自由に動き回ることができるようになった闇は今、冷たい視線を奏に向けてきている。
黙ってれば確かに美形だとは思うけど……性格が問題ありすぎなんだよな……。
などと、闇が聞いたら切り刻まれそうな事を考えながら、奏は愛想笑いを浮かべた。
「……で? 俺に聞きたい事って言うのは?」
内心で身構えつつ、厄介なことじゃありませんように! と、頭の中で手を合わせる。
心臓の鼓動が早くなり、冷や汗が伝うのを感じながら闇の言葉を待つと、予想外ににこやかな笑みを向けられた。
お? これはもしかして────。
闇の表情に安堵し、奏が気を抜いた刹那。
「貴方が今回晒した体たらく、あれはどういうことなんですか?」
と、いきなり心臓のど真ん中を、氷の矢で射抜かれた。
「お……お前っ、初っ端それを聞くかよ……」
一瞬気を緩めたせいで、その言葉は思いの外グッサリと奏の胸に突き刺さった。
さっき一瞬いい笑顔を見せたのは、まさか自分を追い詰める喜びの表情だったのでは? などという疑念が頭をもたげる。
「どういうことって言われても、あれは俺にだって予想外の展開であってだな。まさか気弱な人間が村一つ滅ぼすなんて、夢にも思ってなかったわけで……」
しどろもどろになりつつも、何とかそれだけを説明した。
内心では、闇の微笑みに騙された! と、声にならない声で叫びをあげながら。
「それにしても、もう少し手際よく処理できなかったんですか? あそこまでの失態を犯すなんて、貴方らしくないじゃないですか」
「だーかーらー、俺だって完璧じゃないんだって。何でもかんでも予想通りに事を運ぶなんて、いくらなんでも無理に決まってる。お前は俺を買いかぶりすぎだって、いつも言ってるだろ?」
普段はどうのこうのと文句を言いつつ、頼んでもいない自分が起こした悪戯の処理に走り回っているくせに、それが悪戯でなく、本気で犯した失敗だと分かった途端、闇は目くじらを立ててくる。
自分は決して完璧などではなく、どちらかといえば失敗をやらかすことの方が多いのに、彼はどうやらそう思っていてはくれないようで。いつだって奏に対し、完璧を求めてくるのだ。
「ですが、貴方にはそれだけの力が……」
「そんなものねぇって何度も言ってるよな。俺にはお前が考えてるような力はねぇし、完璧でも何でもねぇ。用事がそれだけだってんなら、話はこれで終わりだ。もう帰れ」
食い下がろうとする闇を、苛立つ気持ちそのままに、冷たく突き放す。
正直に言えば、今回やらかした失態のせいで奏はかなり落ち込んでいた為、闇に知られた時点で責められるであろうことは分かっていたが、まだそれを上手く躱すだけの余裕が戻っていなかったのだ。
闇が奏を過大評価しすぎているのはいつものこと。
だが今回は、奏自身が落ち込むほどの失敗を犯したばかりであった為、普段のようには受け流せなかった。
それでつい、突き放すような言い方をしてしまったのだ。
けれど、そこでめげる闇ではなかった。
「……では、もう一つだけ質問させてください」
「なんだ?」
「貴方は今後、どうなさるおつもりですか?」
寝ているラズリを一瞥し、闇が表情を曇らせる。
予想外の事態で咄嗟にラズリを助け出してしまったものの、これから彼女をどうするのか、彼なりに不安を募らせているのだろう。
もしも奏が今後ラズリと一緒にいるということにでもなれば、闇の苦労は間違いなく倍増する。
それが分かっていながら、しかし奏は彼の望む答えを返してやれない。
予想外の出来事のせいで多少時期が早まってしまったが、いずれはラズリに会うつもりであったのだ。
時期が早いか遅いかだけで、大筋は変わらない。
尤も、ただ会うつもりでいただけであって、その先の事は何一つ考えていなかったが。
「まあ……さ、取り敢えず俺はラズリと一緒にいるよ。王宮のやつらも諦めてないだろうし、俺の計画を邪魔した報いは受けてもらわねえとな?」
軽い口調で言うものの、赤い瞳は笑っていない。
誰よりも奏のことを知っている、付き合いの長い闇だから、この返答については大方予想がついていたのだろう。
僅かに俯き、嘆息すると、闇は諦めの混じった声で答えた。
「分かりました。ある程度予想はついていたのですが、一応確認しておきたかったものですから」
「悪いな、闇。俺はラズリだけは誰にも譲らねえって決めてるから」
ラズリを連れ去り、村を焼き尽くし、これ以上ないほどに彼女を傷つけた王宮の人間共。
彼らの目的は分からずじまいになってしまったが、彼女と一緒にいさえすれば、いずれ必ず、彼らは再び姿を現すだろう。
それも、極近いうちに……だ。
「人がちょっと大目に見てやってりゃ、好き放題しやがって。たかが人間の分際で、魔性である俺を怒らせたらどうなるか……たっぷり思い知らせてやる」
自分を出し抜いた人間共に仕返しがしてやれるのだと思うと、落ち込んでいた気分が次第に高揚してくる。
日ごろ奏はあまり戦いを好まず、無用な争いなら避けて通るようにしていたが、こういった場面で気持ちが盛り上がるあたり、自分にもやはり戦闘好きの魔性の血が流れているのだと実感した。
あんま喜ぶべきことじゃねぇけど……。
それでも、今回だけは別だからと自分で自分に言い聞かせる。
やられたらやり返さなきゃ、魔性だとか何とか言う前に、男じゃねぇよな。
呟く奏に、闇が静かに頷いた。
「貴方が決めたことでしたら、私はそれに従います。貴方はいつも通り、思ったように行動なさって下さい」
後の事は全て引き受けますので……と言い置いて、闇の姿が一瞬で消える。
「だから、別になんも引き受けなくていいって何度も言ってんのに……」
あいつも中々に人の話聞かねえよな……。
そんな奏の独り言は、闇には届かなかったに違いない。
※
ラズリは未だ、穏やかに眠り続ける……目覚めの瞬間は、もうすぐそこ───。