父と母とミリュエルカ
実家に帰るとまず、迎えてくれたのは母だった。
最後に会ったのは昨年の聖夜の事だ。
前回から半年もたっているのだから
ずいぶんと久しぶりだったが、母は何も変わっていなかった。
『おかえりなさい、アデル』
玄関口で迎えてくれた母は
アデルを優しく見つめてにこやかにほほ笑んだ。
『ただいま、母様』
アデルは1度、持ち帰った荷物を降ろすと
母に深々と頭を下げた。
『また少し大きくなったわね。凛々しくなって』
母はアデルが降ろした荷物をさっと拾い上げた。
それを抱えてリビングへの道を開けると
アデルの腕を引いて中へと促した。
母は至っていつも通りに見えたが
どうも、失敗したかな。とアデルは思った。
母に荷物を預けたつもりではなかったのに
妙に緊張して堅苦しくなってしまった気がしたのだ。
母から荷物を受け取ろうかとも思ったが、
ご機嫌で出迎えてくれた母の好意を
無駄にしてしまうのもはばかられる気がして
アデルは素直にお礼を言うと
母の開けてくれた通路を進んでリビングに向かった。
リビングのドアに手を掛けたところで
ドアは勝手にがちゃん!っと派手な音を立てて開く。
飛び出して来たのは、もうすぐ2歳を迎える可愛い妹だった。
ドアが完全に閉まっていなかったのだろうか。
聖夜頃には既に歩き始めていた妹は
満足げな顔でお出迎えである。
『おにい!』
妹は声までがすずの音のように凛として高く
ころころと響いて可愛いのだ。
満面の笑みで抱きついてきた妹はふわふわした服を着て
口の端っこにパンケーキをくっつけている。
『ただいまミリュエルカ。大きくなったね』
アデルはしゃがみこんでミリュエルカを抱き込むと
ふんわりとしたダークブラウンの柔らかい髪をくしゃっ、と撫でた。
くすくすっ、と擽ったそうにミリュエルカが笑う。
そこに後を付いてきた母が追い付いて
まぁ、と呟いた。
後ろ手に感じる母の空気は
玄関で迎えてくれた先ほどよりもずっと明るい。
アデルとミリュエルカを交互に見ると、
ドアの横にアデルの荷物をどさ、と置いた。
『どうしたの、エルカ。お口が汚れたままだわ......さぁ拭いて』
テーブルまでミリュエルカを抱いて行くと
繊維の柔らかいベビー用の小さなタオルで
ミリュエルカのお口をちょいちょいとお上品に拭いてみせて、そのまま椅子にすとんと座らせた。
相変わらずミリュエルカはにこにこ顔だ。
母は綺麗になったミリュエルカの口元を
満足そうにひと目見ると、その汚れたお洋服をどうにかしなくちゃね。と言って衣装室の方へと姿を消した。
アデルはリビングの入り口に立ち尽くして
その光景をただ見ていた。
母はミリュエルカに世話を焼くのが大好きなのだ。
くるくると忙しないのは変わらない。
残されたアデルとミリュエルカは1度目を合わせた。
天真爛漫なミリュエルカのにこにこした顔につられて、アデルはどうにもぎこちなく笑いあった。
アデルは忘れ去られてしまった荷物に目をやった。
母の手から離れた荷物達は
リビングのドアを抑える形で鎮座している。
アデルはそれを手に抱えると、着替えるために自室の方へと向かっていった。
母の楽しそうに世話を焼く姿が羨ましいのか?
とんでもない幼児帰りだ.....。
アデルの心は複雑だった。
1度登りかけた階段からリビングの方に向き直ったが
すぐに視線を戻した。
大丈夫。元々母に持たせるつもりは無かったのだから。
と自分の心に言い放つと、階段をさっさと登ぼりきる。
2階への階段を登ってすぐ、右側の部屋を開けて
アデルは部屋に入っていく。
どさ、と音を立てて荷物を置いた。
昔と変わらない自室である。
素朴な色合いでまとめられた子供部屋。
母が手入れをしてくれたのか、最後に来てから半年ぶりでも埃ひとつない部屋だった。
その光景を見て小さく深呼吸をすると
自分がいつの間にか緊張していたのに気が付いて
早くも気だるい疲れを感じた。
ふぅ、と一息つくとアディはベッドに腰掛けた。
勉強机に置かれた1枚の絵が目に映る。
アデルはこれまた、
何とも言えない複雑な気分になった。
4歳か5歳か、昔書いたその絵には
父と母と自分が仲良く手を繋いで描かれている。
父は男の子が良く好む、青や緑や黒を使うと
いつもセンスが良いとアデルを褒めたものだ。
しかしよくよく考えて見ると、
父はそもそもお絵描きなんてすること自体
実はあまり良く思っていなかったんじゃないのかな、なんて考えてしまう。
いい思い出まで、寂しいものになってしまう......。
アデルはその絵を机に伏せると、
ため息を付いて立ち上がる。
伏せられた絵から目を逸らして
気持ちを入れ替えるよう、もう一度深呼吸する。
新学期に向けて、寄宿寮に戻るまで2ヶ月と少し
この家で過ごすことになるのだから
もう少し肩の力を抜かないといけない。
普段着に着替えてもう一度リビングに降りると、
丁度父が帰宅してソファに腰掛けたところだった。
『父様、おかえりなさい』
リビングに入って父の前に立つと、
アデルは気を引き締めて挨拶をした。
頭を下げたまま、ちらりと父の顔を覗き込む。
そしてアデルは内心混乱した。
父の顔は機嫌が言いように見える。アデルを見つめて、歓迎するようにソファを立つのだ。
何かの間違いではないのか?アデルは顔を上げて
もう一度父を見た。
『アデル。お前こそ、良く戻ったな』
父は上機嫌でアデルの肩を撫でた。
父の手の暖かさに触れたのはいつぶりだろう......
アデルは大きくごつごつとした父の手を半ば信じられずに眺めると、その気持ちは驚きよりもわずかに嬉しさが勝っていることに気が付いた。
父の顔を見上げるとはい、父様。と答えた。
『また背が伸びたな、アデル』
『父様、ありがとうございます』
アデルは混乱していたけれど
それ以上に父が自分に対してこんなにも暖かいのが
素直に嬉しかった。父にとっての理想の自分をイメージして、笑顔をきゅっと引き締めると、なるべく凛々しく見えるように父に返事をした。
そんな親子の微笑ましい光景は
アデルが就学して以来だったので
母もミリュエルカを抱き抱えながら、内心驚きつつもほっと胸を撫で下ろすような気分だった。
父に促され一緒にソファに腰掛けると
父はアデルの顔をじっくりと眺めた。
『実はな、アデル。グリッグス氏がお前に関心を持たれたようだ。頼まれたご依頼の品をお届けした時にたまたま伺ってな』
父は武器を生成する、いわば鍛冶屋の店主だ。
グリッグス氏と言えば......グリフォン氏の
側近の1人で、大きな政治派閥の武力派に位置している人物のはず。
どうしてそんな人物が特になんの取り柄もない自分に?
アデルは人違いなのではないかと不安になった。
どんなやり取りがあったのかはわからないが
アデルを軍人に育てたい父からすれば
こんなに嬉しいことはないのだろう。
しかし、たとえそれが誤解だとしても
アデルはその誤解を正すのがどうにも怖くなった。
また酷く落胆する父を見たくはなかった。
『どこかでグリッグス氏とお会いしたのか?』
『いいえ......父様』
『そうか。まぁ何にせよ、グリッグス氏に目を掛けていただけるのなら、それは喜ばしい事だ』
正直、アデルには訳が分からなかったが
グリッグス氏のおかげで、久しぶりに父から
受け入れられた気がしたのは事実だった。
先の不安も無いではないが、今回の帰省は
幾らか楽しく過ごすことが出来るかもしれない。
そしてもしかしたら、これをきっかけに
わだかまった家族の関係が好転するかもしれない。
そう思うと、アデルは誤解かどうかなんてわからないままでいいやと思えた。
ミリュエルカが産まれてから
両親は妹に付きっきりでいたし、アデルの囁かな反抗心がずいぶんと関係をこじらせた。
そんな殺伐とした時間に疲れ始めていたアデルにとって、父が自分を見てくれている事は
きっとどこか夢に見ていた、平凡な日常なのだった。
その日の夜は、久しぶりにアデルの好物がずらりとテーブルに並べられた。
お料理を取り分けてくれる母。
自分を見て、話し掛けてくれる父。
それにミリュエルカの嬉々とした笑い声。
会話は様々だった。
父のお仕事のお話や、ミリュエルカの成長の話。
そして、自分の学校での話。
苦手な剣術や護身術の話が出ても、
今日の父は怒ったりはしなかった。
家族の団欒に自分が加わっていることに
アデルはこの上ない喜びを感じたのだった。
自室に戻って一息ついても、
その興奮や幸せな気持ちは覚めることがなく
アデルはベッドに入ってもなかなか寝付くことが出来なかった。
こんな平凡な幸せを、ずっと求めていたのだ。
それだけでいい。
今は不思議とそう思えたのだった。