仲直りと疑惑
アデルとライラスは目の前のベッドに寝転がったままのジェルトをじっと見つめている。
しんと静まり返った医務室。薬品の薄い香りがほのかに三人の鼻をくすぐって、それぞれにざわつく心を緊張と共に静まらせていた。ほんの少しだけジェルトは俯いた。振り出しの言葉を探そうと、口を開きかけ、また閉じる。切り出しの言葉がなかなか思い付かずに、静寂がざわざわと冷たく伝う緊張を圧迫するかのようだ。
アデルも同じなのだろうか。それとも、顔を上げたら怒った表情を見せるのだろうか?混乱していたわけでは無いだろうが、ジェルトの胸は息の音ひとつでさえ聞くのを躊躇うような、緊張が絡みついている。
しかしジェルトのそうした不安なんか、ふいに響いてきたアデルの、涙ぐんだかすれ声とともにひと吹きで去ってしまった。
「心配、したんだよジェルト」
アデルは今にも泣き出しそうだった。じわじわと瞳を揺らしながら、ジェルトを真っ直ぐに見つめていた。
アデルの呟きが耳に届いた途端、ジェルトは咄嗟に頭を上げた。ライラスがアデルの肩に手を置いて、複雑な面持ちでジェルトを見下ろしていた。困ったように目を顰めているのに、口元は安堵したように微笑んでいる。目の前で自分を真っ直ぐに捉える二人の姿を見て、ジェルトはすっと体が軽くなるのを感じた。
今までずっと、どこか無意識に身体中を巻き付けていた暗く心細いもの。何処か孤独を感じさせるような冷たい力身が、じわじわと暖かみを持って消えていく。
ジェルトの目から無意識にほろりほろりと、大粒の涙が落ちてきた。
その様子に驚いたアデルは目を見開いて、思わず声を上げる。
「ジェルト!どこか痛む?辛いの?」
アデルは先程と同じようにベッドの脇に座り込むと、綺麗な瞳でジェルトを見上げた。その目には怒りも拒絶も何一つ無かった。
ジェルトはただ首を横に振った。
あぁ、自分はこの子の何を恐れたんだろう。
ジェルトはそう思った。
角を見て驚いた時も、今自分が横になっているベッドにアデルが寝ていた時も、恐らく自分がいなかった時も。アデルの目はこうして、自分に対する疑心などひとつも無かったのだろう。何も怖がる事なんて無かったのだ。
ジェルトはアデルの方に体ごと向き直ると、喉が張り付いて掠れてしまった声を絞り出して
「アデル。ごめん。僕、間違ってたんだ。突然の事で、分からなくなっただけなんだ。アデルは僕の、友達なのに」
そう静かに呟いた。
アデルは一度目を見開くと、今度はくしゃっと笑って見せた。
「ジェルトが友達だと思っててくれた。もういいんだよ」
その光景を、ライラスがほっと静かに息を吐いた。優しい目の奥で、ジェルトの心が解れた事を噛み締めている。
ジェルトとアデルが振り返ってライラスを見ると、ライラスは近寄ってくしゃくしゃと二人の頭を撫でた。
「仲直り、だな」
何処か気恥しそうに、アデルとジェルトは顔を見合わせて不器用に笑いあった。
一頻りその余韻を噛み締めた後。ジェルトは肘で身体を押し上げ、起き上がろうと試みた。けれどジェルトの小柄な体は打ち身だらけの、おまけに負傷付きである。ライラスは物言わず背中に腕を回すと、そっと後ろから支え上げた。その背後でアデルがベッドの枕を積み上げて背もたれを作ってやる。
「ジェルト、辛くない?」
「大丈夫。ありがとう」
アデルとライラスは、椅子をベッド脇に整えて二人で腰掛けた。そうしてその場に落ち着くと、ジェルトの様子を伺いながらライラスが一番に口を開いた。
「何があったのか、話してくれないか」
アデルは横で期待と同意を込めた目線をジェルトに向ける。
ジェルトは一度迷ったものの、二人の顔を見て素直にこれまでの経緯を説明する決心をして小さく深呼吸をした。
また小さく息を吸い込むと、ぽつぽつと順序を辿るように思案しながら、ゆっくりと口を開いた。
「トイレを済ませた後、教室に戻ろうと思ったんだ。もうアデルは来ているだろうかと思った。だけど、覗き込んだんだけど、見つからなくて。それで、もういっそ迎えに行こうかと思って......」
二人は静かに頷いて、続きを求めた。
「それで、真偽の間の階段辺りで......ヴィルエッド達がいた。なんでか咄嗟に隠れちゃって、しばらく話を聞いてたんだけど、見つかって捕まっちゃって。ヴィルエッド達は僕をぐるぐる巻きにして、何処かに消えた」
そしてジェルトは思わずぶるりと身体を震わせた。
「やっぱり、グリフォン家はあんまり関わらない方がいいと思う。アデルを探しているみたいだったよ」
ジェルトの目は心做しか恐怖に震えるようだった。その様子を見たアデルとライラスも、つられるようにひんやりと体温が下がるのを感じた。
「それで、その怪我はどこで?」
ライラスは顔を強ばらせて質問する。
「これは......捕まって縛られたところから逃げ出そうと思った時に、ちょっと」
ジェルトは困ったように、安心してと言わんばかりに苦笑ながらライラスを見た。
「ちょっと、のレベルじゃないぞ。これは」
ライラスの、切羽詰まったようなため息まじりの声。
そうしたジェルトとライラスのやり取りを聞きながら、アデルはふと自分の意識が冷静に一歩遠ざかるのを感じた。
二人の声がさっきよりもはっきりと洗練して聞こえてくるのに、それは少しばかり遠くから響くように頭の中に入ってくる。
冷静に冷めきった身体の隅々でその光景を感じながら、アデルの思考はひとつずつ文字を読み上げるように淡々と組み上がって進んでいく。
頭の中に蘇る会話のひとつひとつ。
-- 自分の産まれた国を捨てて、裏切ったんだよ。国はそれが致命傷で滅んだんだ。物凄い軍事国家が! --
アデルにはわからなかった。
実感や想像が全く浮かばなかった。
-- それがどうして、この国にいるの? --
--分からないけど、何かを企んでると思う。父さんは亡命に反対だったんだ--
ヴィルエッドによって、ジェルトはこんなに傷だらけになっている。自分にはわからなかった。想像力がなかった。国ひとつを滅ぼすような凍った心を持つヴィルエッドの父。どんな理由があったかなんて知らないけれど、他人を拘束して怪我を負わせるヴィルエッド。
ジェルトはアデルが心配だと言う。
ヴィルエッドが探していたのはアデルだったのだから、自分はもう大丈夫だ。それよりも心配なのはアデルだと言う。
何も言わずその光景を眺めていたアデルに気が付いて、ジェルトとライラスが自分を呼び掛ける声が聞こえる。
アデルは一度目を閉じて、そしていつも通りの幼さの残る声で明るく答えを返した。
「うん、大丈夫だよ。ジェルトが見つかって良かった。無事......とは言えないけど」
「アデル、しばらく一人にならない方がいいよ。ヴィルエッドが何を考えてるのかまではわからないけど、思うんだ。もしかしたらヴィルエッドは、アデルの角の事を知ってるのかもしれない」
ジェルトのその考えにはアデルもライラスも小さく息を飲んだ。アデルは無意識に、被っていた帽子に手を伸ばす。
「どうして?」
ジェルトはごくりと知らずに唾を飲み込んで、怖々と呟く。
「初めての日。クーリングスペースで初めてヴィルエッドに会った日。ヴィルエッドはアデルを興味深そうに見てた。その......帽子を見て。だけど、その目は帽子に興味があったようには見えなかったんだ。あの時はまだ、僕は知らなかったけど、もしヴィルエッドがその帽子の下を知っていたなら」
三人しかいない医務室に、呟いたジェルトの声は小さくとも良く響いた。
アデルの帽子を触る手が、小さく震えた気がした。
緊張が張り詰めた医務室で、それきり三人はしばし黙り込んでしまった。




